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 ちゃりん、とベランダの方から金属音が聞こえ、浅い眠りからゆっくりと意識を浮上させる。スマホを手に取ると、時間は九時過ぎ。昨日は眠りにつくのが遅かったし、こんなものかと睡眠時間を計算する。今日の試合はホームで十八時からだ、本来ならまだ眠っていてもいい時間だが、二度寝する気にもなれずに御幸はベッドから這い出る。すると間髪入れずに、メッセージを受信する。差出人は、隣に住むマネージャー(仮)だ。

『おはようございます。御幸さん宛てのお荷物が間違って我が家に届いていました』

『今から仮眠して仕事するので、お好きなタイミングで取りに来てください』

『あ、家の鍵はベランダに投げ込んでおきました』

 立て続けに流れてきたメッセージを眺めながら、御幸は寝起きのままベランダに向かう。確かに、広々としたベランダに見慣れぬ巾着袋が投げ込まれている。先ほど聞こえた音はこれかと思いながら、鍵を拾う。球団のマスコットの間抜け面が書かれたキーホルダーにぶら下がった鍵を見ながら、不用心だと顔を顰めた。いくら事情が事情とはいえ、若い女性の一人暮らしだろうに、男に自宅の鍵を寄越すなんて。信頼されているのか、はたまた男として見られていないのか。まあ十中八九後者だろうと思いながら、御幸は他人の家の鍵を握り締める。

「……」

 普段あんな怯えた顔をするくせに、自分が寝ている間に家に入られるのは困らないのか。よく分からない女だと、御幸は欠伸を噛み殺した。

 それから風呂に入って着替えて食事を終え、ぼんやりと昨日の試合を見返していたら十一時になった。流石にもう起きている頃だろう。いくら興味の欠片もないとはいえ、若い女性が寝入っている家に入り込むのは非常識だ、と思う程度の良識は御幸にもある。適当にジャケットを羽織り、マネージャー宅の鍵を持って御幸は隣の部屋へ向かう。ぴんぽーん、と念のためチャイムを鳴らす。だが、反応はない。ドアをノックしても、やはり反応はない。御幸はやむなく、本当にやむなく、手にした鍵でドアを開ける。

 隣に位置するものの、御幸の部屋とは配置が微妙に異なる。少し手狭な玄関にはいくつものスニーカーが整然と並べられている。玄関を抜けて短い廊下を進めば恐らくリビングだろう。悪いことをしているわけではないのに、罪悪感で胃がキリキリ痛んできた。部屋が静かすぎる、どこからも音がしない。となると、絶対に仮眠中だ。重い気を引きずってリビングに入る。すると、ダイニングテーブルに突っ伏して寝入るマネージャーの姿が目に入った。見慣れた球団ロゴの入ったジャージ姿で、化粧もしている。完全な寝起き状態でないことにほっとした。すよすよと寝息を立てているところ申し訳ないが、お互いのためだ。

「なあ、荷物どこ?」

 そう声をかけて起こせば、彼女は弾かれるように顔を上げた。穏やかな寝顔が嘘のように、はっきりした表情にこちらが面食らった。

「お──おはよう、ございます……」

「お、おお……」

「あっ、荷物! はい、すみません! 冷蔵庫に!!」

 御幸を見上げる瞳がさっと逸らされ、マネージャーは立ち上がってキッチンの方へと向かう。冷蔵する物なんか頼んだだろうか、と首を傾げていると、彼女はスーパーの小袋を二つほど引っ張り出してきた。

「配達の方が間違って持ってきたみたいです。でも、朝早かったのでまだ寝てるかなと思って、ひとまずうちで引き取ってしまったんです」

「あ、ああ……そういう……」

 早速ネットスーパーを使ったはいいが、初めて使うせいで配達人が隣人と間違えたのだろう。色々と察するところはあるだろうに、彼女はにこりと微笑むだけでだった。ただ、言葉少なな御幸に、徐々に笑顔が崩れていってしまう。

「え、ええと……余計なこと、しちゃいましたかね……」

「い──いや。その時間、寝てたから、助かった」

 そう告げれば、彼女は大袈裟なぐらいほっと溜息を吐いた。そして訪れる不自然な沈黙に、御幸もなんと言ったものか分からず目を逸らす。すると物の少ない、シンプルな部屋が視界に入る。キッチンとリビング、それから寝室と思しき部屋。綺麗な部屋だ、突然の来客にも動じないだけある。ただ、そんな小綺麗な部屋の隅に追いやられた、段ボール箱が目についた。パジャマと思しき衣類や、歯ブラシ、ひげ剃りなどが乱雑に詰め込まれている。

「(……男、いんのか)」

 意外、なんて言ってしまうと失礼だが、選手以上にマネージャーや付き人は忙しい。ほとんど選手につきっきりだし、昼夜逆転とまではいかないが、生活サイクルがかなり特殊だ。男がいるようなタイプには見えない以上に、そんな暇があったのかという驚き。仕事も私生活も両立、というわけか。器用な奴だと感心しながら、御幸はスーパーの袋を受け取る。

「えーと、じゃあ、これで……鍵、此処置いとく」

「あ、はいっ! では、また後程!」

 踵を返す御幸に、マネージャーはそんなことを告げる。そうか、また数時間後に会うのか。当たり前と言えば当たり前なのだが、奇妙な気分に浸りながら御幸はスーパーの袋を抱えたまま玄関に向かう。男のいる女性の家に長居して、下手なトラブルに巻き込まれても困る。退散退散と靴を履いて玄関のドアに手をかけた、その時だった。

「──おはようございます!! 今日も一日、頑張ります!!」

 と、どデカイ声がリビングの方から飛んできて、御幸の肩は飛び上がった。マネージャーの声に相違ないが、一体どういう声量で誰に挨拶しているのか。電話中だろうか、御幸はなるべく何も聞かなかったように音を立てず玄関を出る。

 扉を閉める際、「ギャーッ!! 今の聞かれてた!?」と絶望に瀕した声が叫びが聞こえてきて、御幸は力が抜けたようにくつりと笑んだ。全く、やかましい隣人である。



***



 今日もマネージャーの運転で球場に赴き、マネージャーの運転で自宅に帰る。ホームゲームでなければ家に戻るだけでも球場を行き来するだけで何時間もかかってしまうのだから、面倒な職業である。他の選手は運転をドライバーに任せている間、一体何をしているのだろう。仮眠か、或いはドライバーと談笑か。どちらも、御幸には気が重い。試合を見返したり、スコアを読んだりできればいいのだろうが、揺れる車内では体調を崩しかねない。なので黙って外を見ながら、ひたすら家に着くまでの虚構の時間を埋める。

 けれど、無言で何もすることがない時、頭を空にして時の流れに身を任せられるほど、今の御幸に余裕はない。考えたくはないはずなのに、隙間の空いたその時間に流れ込むように様々な負の記憶が眼前に過るのだ。今後の野球人生、散々な試合結果、そして真綿で首を締めるような光景、言葉。金切り声と、部屋を漂う甘ったるい嫌な臭い、それから男女の壊れた笑顔。込み上げる吐き気と眩暈に、ぐっと拳を握り締めて静かに耐える──耐えるしかない──忘れろ、忘れろ、忘れろ──そう、自分に言い聞かせる。

「み、御幸さん……?」

 そう声をかけられるまで、車が止まっていることに気付かなかった。目を瞬くと、おぞましい記憶はそこにはなく、薄暗い車内で子犬のような顔をしたマネージャーが不安げな目でこちらを見ている。

「ぐ──具合、悪そうだったので……今、スーパーの駐車場にいるんですけど……な、何か、買ってきますか?」

「……いや、いい。すぐ帰ってくれ」

「……じゃあ、お水だけでも。これ、新品ですから」

 そう言って、鞄からペットボトルを取り出して差し出してくる。相変わらず何でも出てくる鞄である。だが、そういう気分じゃない。いらない、必要ない。首を軽く振るも、珍しく彼女は引かない。

「いらねえ」

「いいえ、飲んでください」

「いらねえっつったぞ」

「その顔色で何言ってるんですか」

「──何度も言わせるなッ!!」

 叩きつけるよう怒鳴り、差し出されたペットボトルを振り払う。ぱちんと軽い音、女の冷たい手に一瞬触れて、冷静さが今になって込み上げてきた。どうかしてる、仮にも心配してくる相手に怒鳴り散らすなんて。自己嫌悪で唸るも、驚くことに彼女は一歩と引かなかった。俯く御幸の膝元に、無理やりペットボトルを捩じり込んできたのだ。

「腐っても、私だってあなたの世話を任された身です。その顔色見て放っておけと言うのなら、今すぐコタさんに電話します」

「……」

「せめて、これ飲んでください。こんなとこで倒れられたら、コタさんに合わせる顔がありません。私も、きっとあなたも」

 絶妙に痛いところを突いてくる。自分がどんな顔をしているか窓を見て確認する気もなくなった御幸は、大人しくマネージャーから水を受け取る。キャップを捻り、ぱきりと鳴るその音に新品だという言葉は本当だと分かる。程よく冷えたその水を、御幸は一気に飲み干す。喉が渇いていたのだろうか、思いのほか容易く空になった柔らかなペットボトルを、くしゃりと潰す。

「……これでいいか?」

「結構です」

 そう言って、マネージャーは再び車を発進させる。普段怯えたようなオドオドした態度が嘘のように、窓に反射する横顔はキリッとしている。契約の範疇外だと言おうとして、結局カウンターで飛んでくるのは大先輩の名前だと気付いて口を噤む。顔を立てたいのはきっと彼女も同じなのだ。だから、こちらのデッドラインをギリギリ超えない範囲まで踏み込んでくる。涙ぐましい努力である。今までのマネージャーたちのように、あれこれ口出ししてくるような女だったら、すぐさまクビにしているのに……。

 すると、彼女は突如こんなことを言い出した。

「──御幸さん、今晩の夕食は?」

「はあ?」

「夕食のご予定を、聞きました」

 真顔でそんなことを言ってのけるマネージャーに、ついにラインを飛び越えてきたのかと身構える。だが、彼女はちらりとバックミラー越しに御幸を視線をやるだけだった。

「気分が悪そうだったので、雑談でもして気を紛らわせようかと」

「……」

「車内で眠れないとのお話でしたので、もう話すしかやることないでしょう?」

「……」

「お任せください、諸事情で雑談の引き出しには自信があります」

 どこか自信に満ちた面差しが見える。そんな気遣いは不要だと言おうとして、仄暗い記憶が明滅して言葉が出なかった。仲良くするつもりはない。このマネージャーを長く使う気だってない。だけど。

「……それで出すのが夕食の話かよ」

「し、仕方ないじゃないですかっ! そんな共通の話題ないんですし!」

 確かに、互いの年齢どころか本名さえおぼろげな関係だ。この数週間でマネージャーについて分かったことは、片手で数える程度。そのうちの一つが、お互い自炊していることだろう。どこか拗ねたような口ぶりで、彼女は声を荒げる。

「それで! 本日のメニューは何なんですか!!」

「メニュー、ねえ……」

 話に出され、当たり前のことに気付く。そうか、これから家に帰って自分で食事の支度をしなければならないのか。食事も料理も嫌いではないが、試合後に自分で用意するのかと思うと気が滅入ってならない。メニューを決め、食事を作り、食し、片付けるまでがワンセット。自分でそう選択したとはいえ、本当に憂鬱な日々である。冷蔵庫にぶち込んだ品々を組み合わせ、御幸は溜息交じりで答えた。

「……今日は、パエリアだな」

「ああ、なるほど、パエリアでしたか。そっか、アサリはそのために……買い物袋にトマト缶と鶏肉があったので、てっきりカチャトーラかと」

 何で知ってるのか、と聞こうとして今朝の出来事を思い出す。そうだ、今日の食材は彼女の家に届いていたのだと。どこか気恥ずかしい気分になり、話題を逸らす。

「カチャ……なに?」

「カチャトーラ、要はトマト煮込みですね。本場はウサギ肉なんかを使うんですが、とにかく余り物をぶち込んでホールトマトで煮込めばそれなりの味と栄養になる料理です」

「へー、作ったことねえわ」

「美味しくて栄養価が高いのでオススメですよ。ビタミン、ミネラル共にバランス良く摂れますからね。ただそうなると、ビタミンDとカルシウムを補いたいな……サーモンのクラムチャウダー、いや、もう一品メインがあってもいいかな……シイタケの肉詰めにチーズ乗せるとかどうでしょう?」

「……メイン二品だと、カロリーオーバーじゃねえ?」

「今は減量時期ではないでしょう? なら、それぐらい食べても平気です。カルシウムの吸収促進や骨の代謝を良くするので、ビタミンDと一緒に摂取するとより良いんですよ」

「ふーん、なるほどな」

 流石、その手腕で何年も山田を支えただけのことはある。自分で作るとどうも細かい栄養バランスまでは気が回らなくなるので、普通に感心してしまった。自炊するようになってそれなりに学びはしたが、やはりプロには敵わない。つらつらとメニューを語るマネージャーに舌を巻きながら、御幸は会話を続ける選択を取った。

「んじゃ、付け合わせって何?」

「大体はパンですね。余ったらパスタ入れて炒めても良いかと」

「んでサラダ合わせりゃ二食になるな……いいな、今度作ってみる」

「ぜひぜひ。レシピであれば無限に出ますから、使ってください」

 驚くほどあっさりと、メニューが組み上がった。そう、料理自体は苦ではない。メニューを決めるまでが億劫なだけ。栄養価だのバランスだの、考えることが多すぎる。それがプロに訊ねるだけでこうも簡単に『正解』が返ってくるのだから、大したものだと思う反面、言いようのないやるせなさも込み上げてくる。

「……便利なもんだな」

「元々そういう仕事ですからね」

 どこか皮肉めいたその一言は、一体どちらに向けてだったのか。自分でも分からない。ただ、そんな御幸に対して思うところは特にないらしく、彼女はさらりと受け流す。

「毎日毎日、何かを決めるってすごく大変ですよ」

「……?」

「風呂に入る、歯を磨く──こういう動作って、作業は必要でも『選択』は不要じゃないですか、やるのが当たり前ですし。でも、料理はそうはいかない。自分でメニューを組み立てて、食材を買って、調理をしなければならない」

「……」

「無数の選択肢を選ぶだけじゃない。選択肢すら作る必要がある。それを日々ご自身で請け負う御幸さんは、尊敬に値します」

「……」

「コタさんに、爪の垢煎じて静脈注射したいぐらい」

「……ドーモ」

 その比較対象ではあまり褒められている気はしないが、ひとまず曖昧に頷いておく。褒められて喜ぶような年齢でもないし、成人して一人暮らししていて料理一つできない方がどうかと思う。けれど、窓に映るマネージャーの顔が、ネオン街に反射してあまりに輝いていて、言葉が出なくなった。

「だから、もっとラクしましょう!」

「……ラク?」

「今や買い物はスマホ一つ、洗い物や洗濯も家電の進歩によりずっとずっとラクになってきました。使える物はどんどん使うのが吉かと!」

「……どうやって?」

「私を使ってください。そのためのマネージャーですから」

 胸を張って言ってのけるその一言に、自分の顔が思いっきり歪んだのが分かる。だが、予め『気を悪くさせる』と伝えていたため、取り繕うこともせず御幸は重々しく息を吐いた。

「……何、お前に家事任せろってことか?」

「いえいえ、そこまではとても。よく知らない人の作った料理食えって、私でもキツいですよ。商売を『信頼』で成り立たせている外食とは、訳が違う」

 意外にもそんな言葉が返ってきて、目を瞬いた。今まで御幸の中でモヤモヤしていた感覚を、適切な言葉で具現化されたような気分だ。そう、今までのマネージャーにはそれが伝わらなかったのだ。自分たちに任せておけばいいと豪語して、勝手に家に上がり込んでくる連中に、どうしてキッチンを明け渡せるのか。それが好意であり、仕事であるのだと我が物顔で言われて、素直に飲み込めるはずがないのに。

 だから全員叩き出した。球団と契約しているマネージャーであるだけで、『信頼』が成り立っているという前提で接してくる連中には、決して何一つ仕事を任せなかった。信頼は築くものだという連中も、また。

「だけどホラ、料理はしなくとも、メニューを考えることはできました。間接的な『協力』であれば、私にもできるんじゃないかと思いまして」

 けれど彼女は、まず信頼が無いと言う。その上で、互いの信頼を構築をするのではなく、距離を縮めることなく『協力する』と述べる。それは、スポーツ社会に染みついている悪しき風習とは、少し異なると思った。当然、男女のそれとも。何が目的なのかと訝しむも、彼女は淡々と意見を述べるだけで。

「私のことはよく喋るAIだと思っていただければ。使いたい時に使って、必要ない時は電源をオフにしておけばいいんです」

「……!」

「どう使うかは判断にお任せします。でも、私だって何年もマネージャーとして働いてきた身です。この業界を生きる上での知識だけなら、AI程度には負けませんとも」

 穏やかな笑みを浮かべ、マネージャーは自らの業績を誇るように語る。普段の頼りなげな態度が嘘のように、言葉の裏には絶対的な自信が滲み出ている。けれど、鼻歌でも歌いだしそうな顔でハンドルを握る彼女は、そういった嫌味がない。のほほんと語る女は、まるでこんな状況でさえ楽しんでいるかのようだった。

「……なるほどな。マネージャーを使うのは、あくまで俺ってことね」

「勿論。何なりと、ご主人様」

 適当なことを言ってハンドルを切る女に、再び笑みが零れる。なるほど、そういう使い方は、初めてだ。普段から自分の世話は自分でできると突っぱねてきた御幸に、『人』は使い方が分からなかった。だが──なるほど、AIだと思えば。

「ヘイ、ハチ公。明日の朝食のメニュー組んで」

「……ピロロン、冷蔵庫の食材と食の好みを入力してください」

「ぶはっ、そうだな──」

 薄暗い車内に、ほんの少しの色が灯る。言う通りに冷蔵庫に残るはずの食材や食事の好みなどを『入力』していけば、彼女は少しばかりの沈黙の後、最適解を叩き出す。自宅に着くと、これは食い合わせがいいだの、こっちはまとめて作れるから洗い物が少なくて済むだの、それなりに有効な助言を添えてレシピがスマホに送られてくる。中々使えるAIだと、御幸はキッチンに向かう。

 今日も、明日も、明後日も、生きる限り食事が必要だ。その必要性は疑ったことは無かったが、それでもこの数年は本当に面倒でならなかった。ビタミン剤で賄えればどれだけよかったかと、思ったほどだ。けれど、今日ばかりは、いつも気だるいその作業が、ほんの少しばかりマシな物のように思えたのだった。

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