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 そうして、御幸に新たな専属マネージャーが宛がわれることになった。ただ、宣言通り御幸は大先輩が可愛がっているマネージャーを、同じように重用するつもりはなかった。あくまで、自分を心配してくれている山田の顔を立てるため。御幸は彼女にあれこれ仕事を任せる気は一切ない。上が運転をするなと言うから、彼女には運転手に徹してもらう。その領域を超えるようなら、その時はいつものようにクビを切るだけだ。元々、人の手を借りなくとも御幸一也の生活に支障はなかったのだから。なのに。

「わ──私のせいじゃ、ないです!」

「……」

「決定権がなかったんです……私だって、こんな──い、いえ、すみません……!」

「……」

「と、というわけで、あの、これからよろしくお願いいたします……」

 自宅の玄関先で項垂れるマネージャーが、背中を丸めてとぼとぼと歩いていく。そうして迷いなく隣の部屋の戸を押し開けて入っていくのだから、本当に勘弁して欲しいと御幸は呻いた。

 というのも、マネージャー契約をして数日、なんと彼女が家の隣に越してきたのだ。山田が上層部に手回しした、というのは本当だったらしく、あれよあれよという間に彼女には御幸付きのマネージャーという地位が与えられたらしい。付き人やマネージャーは近所に住むことが多いと言うが、まさか隣人になるとは。以前のマネージャーだってここまで近くには住んでいなかったというのに。というか、此処の家賃は決して安くないはずなのだが、まさか補助までだしているのだろうか。手厚いことだと嘆息する。それほどに御幸に商品価値を見出しているのか、それとも別の理由があるのか──。

「……気にしねえよ、いちいち」

 自分に言い聞かせるその一言は、広い部屋に空しく響いた。

 ただ、御幸が思ったほど、生活は一変しなかった。宣言通り御幸は専属のマネージャーとなった彼女に仕事を与えなかった。あくまで、専属の運転手として扱う。球場や球団専用ジムへの送迎が、主な仕事である。つい先日まで山田小太郎の専属マネージャーであった彼女にしてみれば、随分スケールダウンした仕事である。御幸の知る限り、山田は私生活の全てをマネージャーに投げていた。家事も栄養管理もスケジュール調整も、トレーニングの手伝いから付き合っている恋人へのプレゼント選びまで、彼女の手を借りていると豪語していたことを思い出す。ただ、相手の事情など知ったことではない御幸は、今日も今日とて彼女の運転する車に乗り込む。

 今日の試合も散々だった。最低限捕手としての仕事はこなしているものの、二度も盗塁されたし、打席は勿論四タコ、目も当てられない結果だ。ここ最近の不調は自分でも気付いている。ただ、どうにかしなければともがいたところで、結果は変わらない。焦っても、落ち着いても、努力を続けて尚、結果が伴わない。こんなこと、今までの人生になかったことだ。そう、御幸一也は二十八にして初めてのスランプに見舞われていた。

 焦りや不安が澱み、肉体に鉛を縛り付けられているようだった。もう自分には未来がないのか。選手生命は突如断たれてしまったのか。いや、違う。こんなところで立ち止まるような覚悟でこの世界に訪れていない。まだ戦える。まだ、立ち上がれる。そのためなら何でもする。何でも、だ。

「……」

 覚悟とは裏腹に、間抜けた欠伸が込み上げてくるのだから身体は正直というものだ。何とか噛み殺し、ちらりと運転席に視線をやる。こうして人の運転する車に乗り込むのは久々だ。マネージャーは今までもいたが、ここ数年は運転も任せていなかった。人の車のわりに、運転が上手いなと素直に思った。心地よい振動に、丁寧なハンドルさばき。何より、全く喋らないところがいい。まあ、彼女は御幸を恐れているようなので、仲良くお喋りするような空気にはならないだろうが。

 そんな彼女とバックミラー越しに目が合って、お互い目を見開いた。

「なに」

「えあっ、いや、す、すみません……眠そうだったので……」

「……そりゃ、まあ、十二時過ぎてっからな……」

 怯えた声に無視する気にもなれず、御幸は独り言のようにぼやく。デーゲームならまだしも、ナイター後はいつもこんな時間だ。試合後直帰しても日付超えるか超えないかという時間なのに、試合の振り返りだのトレーニングだのしていれば、夜はとっくに更けてしまう。

「あ、あの……眠いなら、その、寝ててもらっても、別に……」

「……いや、いい。人のいるとこで寝れねーから」

「さ、左様で……」

 気まずい面持ちで、マネージャーは再び黙りこくる。山田とは付き合いも長く、彼女の顔は知ってはいたが、だからといって御幸との間に信頼感が育まれているはずもない。ただでさえここ数年色々あったのだ。よく知りもしない人間と二人きり、いくら相手が女だろうが車内で眠りこけるわけにもいかない。

「(……めんどくせー奴、って顔してやんの)」

 サイドミラー越しに彼女の顔を盗み見る。気まずそうな顔には、明らかに『めんどくさっ』と書かれている。あまりポーカーフェイスは得意ではないらしい。こういう馬鹿正直さは、実のところ嫌いではない。怯えた表情の下に、そういった図々しい面の皮を隠しているその姿は、昔可愛がっていた後輩に少し似ている気がしたからだ。犬っぽいところも少し似ている。別の球団で華々しく活躍する彼の笑顔を思い、懐古に浸る。あの頃は今の比じゃないぐらい忙しかったけれど、こんな風に頭を悩ますことも無かった。

 ネオン街を、緩やかに走り抜けていく。穏やかな振動に身を委ねて御幸は瞼を閉じる。寝入るようなへまはしない。けれど、この眩い景色は、ほんの少しだけ、疲れた。



***



「それでは──その、お疲れ様でした。また、明日」

「……おー」

 車から降り、マンションの駐車場へ向かうマネージャーに背を向けて御幸はさっさとエレベーターに乗り込む。家が隣だろうが、わざわざ待つ道理はない。向こうだって苦手に思っている相手とエレベーターで一緒になりたくはないだろう。

 家に戻り、荷物を置いてソファに身を投げる。洗濯を、いや、その前に食事だ。ああ、掃除もしないと。面倒だ。明日の試合は何時からだったか。色々面倒事が思い浮かぶ時、やはり付き人なりマネージャーなりが欲しくなる。特にこんな、酷く疲れた時は、尚更だ。ただ、彼女にそういった仕事を任せる気には、やはりならない。

「……メシ」

 重たい身体に鞭を打って、ソファから起き上がる。とにかく食事だ。身体資本の仕事をしているのだ、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、それだけは欠かせない。ただでさえ──いや、だめだ、とにかく何かを身体に入れないと。

「──げっ」

 何とか冷蔵庫まで歩いて行き、ガチャリと開いて顔が引きつった。しまった、何も入っていない。しまった、遠征戻りだったのをすっかり忘れていた。調味料と酒しか入っていない冷蔵庫に、御幸は辟易しながらバンッと力任せに戸を閉める。

 さて、困った。食べる物がない。健康志向の御幸にカップラーメンやら冷凍食品やらの買い置きはない。ただ、時は深夜一時。料理をする気力はぎりぎりあれど、スーパーが開いているような時間じゃない。人並みに料理ができ、球団の動画チャンネルではコーナーを持たされたこともあった御幸でも、流石に食材無しでは何も生みだせない。御幸に残された選択肢は三つだ。とにかく何かしらの食材を買いに行く、一食ぐらい我慢して眠る、あと一つは──。

「……ん?」

 ふと、ソファの上のスマホが振動していることに気付く。昔は頑なにガラケー派だった御幸も、時代の波に飲まれて今は立派なスマホユーザーと化していた。慣れた手付きでスマホを手に取ると、画面に表示されている名前に顔を顰めた。そこには、『ハチ公/マネージャー』と記されている。ここもあだ名登録とは恐れ入ると思いながら電話を取る。

「……なに」

『ああっ!! 夜分遅くにすみません!! 明日の朝番の取材がリスケになったと今しがた連絡がっ、アッツ!! やばっ──ギャッ!!』

 電話の向こうから、シュー、という鍋か何かが吹き零れるような音と、ガシャーンッ、と重たげな缶が引っくり返るような音が悲鳴の合間に聞こえてくる。恐らくだが、料理中だったのだろう。人のことは言えないが、真夜中によくやるものだ。今尚電話の向こうからは悲鳴が聞こえてきて、一人とは思えない賑やかさである。

「えーと……リスケって、なんでお前に連絡が?」

『だって! 表向きは私が専属マネでっ、あっち! あっつ!!』

 悲鳴と痛みを訴える声の合間に、そんな言葉が聞こえてきて思わず舌打ちしかけた。今までそういった取材だの撮影だのという連絡はチーフマネージャーから選手に直接連絡が来ていた。だが、表向きは専属マネージャーを立てた今、御幸ではなくスケジュールを管理していると思われる彼女に連絡が向かった、ということか。

『と、ということですのでっ、明日は二時頃に球場到着できれば良いかとっ、ですからっ、あの、お昼前にお迎えに、参りますっ!!』

「あー、はいはい。分かった分かった。悪かったな、料理中に」

『い、いえ、とんでもないっ! すみません、急ぎの連絡だったのでっ! こちらこそ、騒がしっ、あのっ、失礼しましたっ!』

 せめて落ち着いてから連絡すればいいものを──まあ、こんな夜中だ。明日の予定なのだし、早急に伝えたかったのだろう。器用なのだか不器用なのだか分からない奴だと思いながら電話を切ろうとしたその時、妙案が降りかかった。いやでも、しかし、これならば。

「……悪い、ちょっといいか?」

『え!? はいっ、勿論! え!?』

 肯定しながら疑問符が飛んでくる。パニックであわあわしているマネージャーの顔が容易に思い浮かんで、鼻から気の抜けるような息が漏れたような気がした。

「……食材、余ってたら分けてくんねえ?」



***



 三十分もしないうちに、ぴんぽーんとチャイムが鳴らされる。

「こ、こんばんは……」

「……わりーね、わざわざ」

「と、とんでもないっ。こんなことでお役に立てるのなら!」

 そう言いながら、玄関に段ボールを置く彼女は球団のジャージ姿のまま、エプロンを羽織っただけの格好で隣からやってきた。本当に帰ってすぐさま料理に取り掛かったらしい。カレー粉とトマトとヨーグルトの香りを纏ってやってきた彼女が、電話越しに何と格闘していたのかはすぐに分かった。

「ええと、すみません、うちもそんな溜めこんでなくて……ニンジンと玉ねぎと、あと余ってたじゃがいもと鶏むね肉とお米ぐらいしか……」

 この時点で、今日の夕食の選択肢がカレー類か肉じゃがの二択になった。ただ、分けてもらっている手前、文句は言えない。カレー粉があったかどうか思い出しながら、御幸は食材がこんもり詰まった段ボールを見下ろしながら、財布を取り出す。

「十分。金は……細かいの無いし、こんぐらいでいい?」

「ブッ……!!」

 財布から万札数枚抜き取って手渡すと、彼女は吹き出して仰け反った。

「どんな高級食材だと思ってるんですか!! そこらのスーパーで買った物ですが!?」

「分かってっけど、細かいのねえんだよ。最近カードでしか支払わねえし」

「ブルジョワジー……!!」

 慄くマネージャーに万札を押し付けると、彼女は渋々と一枚だけ抜き取ってエプロンのポケットに押し込んだ。それから、ハッとしたようにかぶりを振って立ち上がる。

「で、では、私、これで……」

「……おー」

「えあっ、その、おやすみなさいっ……!」

 ぺこりと頭を下げ、彼女は逃げるように部屋から出て行った。意外だ。自分が作ろうかとか何とか、色々言われるかと思っていたのだが、思いのほか引き際が良くて驚いた。契約通り、彼女は他のマネージャーと違って無理に踏み込んでくる気はないらしい。無論、人の世話が苦手、というタイプではないはずだ。だったら何年も山田小太郎の専属マネージャーはできないだろう。だから彼女は出過ぎた真似はしないよう、防衛線の向こう側で踏み止まっている、と解釈するのが自然だろう。御幸の言う通り、食材だけを持ってきて、余計なお節介一つ残さず、さっと去っていく。これは今までにない対応で、少しばかり新鮮だった。

 今までのマネージャーは、本当に面倒だった。まるでこちらが何もできない赤子のように、世話を焼いてくるのだ。掃除も洗濯もスケジューリングも全部全部、御幸ではなく自分たちの手で片付けようとする。そりゃあ、御幸ぐらい一人で色々できるプロスポーツ選手の方が珍しいのだ。自分で飛行機のチケットを予約できない選手だって少なくない中で、『自分の世話ぐらい自分でできる』と豪語する御幸と、そんな選手たちの面倒を見てきた歴戦のマネージャーたちとの相性が悪いのは、まあ当然といえば当然なのだが。

「(あいつの対応、マニュアル化すりゃいいのに)」

 あれぐらいでいいのだ、あれぐらいで。言えば動くだけの、最低限言うことを聞く人材で十分なのだ。そういう意味では山田からはいい贈り物を貰ったのかもしれないと、御幸は段ボールを抱えてキッチンに戻る。これからカレー作りだ。他の食材があればもっと簡単に済ませてもよかったが、ある意味丁度良かったのかもしれない。夜は長い。明日の取材の予定もなくなったようだし、仕方がない。今夜はじっと、鍋と向き合うこととしよう。

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