2.推しはインクの上で躍る、されど

 天城凪沙は、所謂二次元オタクだ。

 漫画が好きだ。アニメが好きだ。ゲームが好きだ。小説が好きだ。映画が好きだ。とにかく三次元に存在しないものが大好きだった。バトル物も日常物もアイドル物、ファンタジーもSFも学園物も全部全部大好きだ。バイトでせっせと稼いだお金を、そういった自分の好きなものに注ぎ込むのは何物にも代えがたい至福である。中でもとりわけ漫画が好きだ。家族が漫画好きなのが影響し、家には何百冊もの漫画が存在するほどだ。そんな彼女が数日前に出会った作品は、文字通り彼女の全てを狂わせた。そう、『野球漫画』である。

 様々な二次元のジャンルを通ってきた身ではあったが、実はスポーツ物は未履修だった。何分、凪沙はあまり運動が得意ではない。走るのも跳ぶのも投げるのも、何もかもが苦手だ。故に、自分ができないことを題材にした作品の面白さが分からない──そんな気持ちで素通りしていたのだが、友人から試しにと野球漫画を三十巻ほど借りて、気まぐれで読んでみたのが事の始まりであった。

 結果として、たった二巻でずどんと沼に落ちた。

 次の日には自分でも全巻購入した。寝不足になるほど読み返し、その都度得も言われぬ感情にもんどり打った。面白い。尊い。最高。語彙力を失ったオタクは鳴き声のようにそんなことを叫びながら、ひたすら漫画を読み耽った。特に主人公校の正捕手、これがいい。彼自身も、彼を取り巻く関係性も、全てが愛おしい。推せる。今日この日、凪沙は新たに推しを一人獲得した。彼のことが知りたい。もっともっとこの作品を楽しみたい。その一心だったのだが、一つ問題が発生した。

「(野球のルール、難しすぎ……っ!!)」

 繰り返すが、天城凪沙はスポーツが苦手だ。打って走って捕って、全てが不得手だ。一応、野球が打って走って捕って、というルールであることは知っている。だが、こういう時は走ってはいけない、こういう時は打っただけでアウト、野球にはそういった細かなルールが無限に存在する。しかも詳しく解説してくれる漫画でもないため、読んでいるだけだと何となくでしか理解できない。凪沙はそれが我慢ならなかった。こんなに好きなのに、この程度しか理解しかできない自分に腹が立った。

 なので野球の勉強することにした。プロ野球の中継を見たり、図書室で野球のルールブックを借りたり、自分でできる限りはやってみた。だが、どれも『完全な理解』には程遠い。自分がやらないスポーツなだけに、文字だけで理解するのには限界があった。漫画を勧めてくれた友人の瑠夏も──曰く、『こんなにドハマりするとは』と引き気味だった──野球にそこまで詳しいわけではないらしい。困り果てた凪沙に、瑠夏はとある助言をした。

『凪沙のクラスって御幸っているよね。御幸一也、分かる?』

『うん、いるいる』

 あまり話したことはないが、珍しい苗字だったのでよく覚えている。物静かそうな、眼鏡をかけた男の子だ。それが何だろうと首を傾げると、友人は呆れたように嘆息した。

『あの人野球部だし、ルール聞いてみたら?』

『や、野球部!? あの人が!?』

『やっぱ知らなかったか……しかもキャッチャーだよ、確か』

『キャッチャー!?!??』

 信じられない、あの優男みたいな顔して野球部だったなんて、と凪沙は驚愕した。偏見極まりないが、凪沙にとって現実の野球部員とは全員『坊主頭』で『強面』で『仲間内では盛り上がる』存在だったからだ。御幸はそれのどれにも当てはまらず、何なら文化部だと思っていたほどだ。しかも推しと同じポジションなんて。これはぜひ取材しなければと、凪沙は早速クラスの御幸に凸りに行き、無事ルールを教えて貰うという約束を取り付けたのだった。

「あ、そうだ、瑠夏ちゃん。今日御幸さんと話したよ」

「え、御幸ってあの御幸一也?」

「うわマジ?」

「陽の者すぎませんか、先パイ」

「流石、推しのためなら何でもする女……!」

 放課後、部活で早速今日の成果を報告したところ、瑠夏だけでなく先輩後輩もまるで魔王の首を取ってきたかのような反応をしてきた。

 ここは所謂、漫研の部室だ。部員数名でのんびりと絵や漫画を描いたり、お喋りしたり、好きな漫画を持ち寄ったりする、緩やかな部活だ。天城凪沙もまた此処に所属し、好きなように絵を描いて活動しているの、だが。

「そ、そんな驚かれるほど……?」

 ただクラスメイトに話しかけたと言っただけでこれである。しかも、『御幸一也』という名前だけで同学年ならいざ知らず、先輩や後輩までも反応した。どういうことかとスケッチブックから顔を上げると、先輩後輩同級生問わず信じがたいとばかりの視線を向けられた。

「御幸一也でしょ、あんたが声かけたの」

「そうですけど……」

「なんかこう、思うところなかった?」

「別に……親切な人だったよ?」

「凪沙先パイってこんなオモシレー女でしたっけ」

「オモシレー女!?!?」

 心外である。目を白黒させる凪沙に、後輩たちは何を言ってるんだとばかりに顔を見合わせる。

「え、だって御幸先輩ってバチクソイケメンじゃないですか?」

「一年でも話題ですよ。野球部にかっこいい先輩いるって」

「あっ、え、そうなの……?」

 そうだそうだと色めき立つ後輩たちを見ながら、凪沙は遠慮がちに訊ねる。イケメン、そうかあの人はイケメンだったのかと、凪沙は御幸の顔を思い浮かべる。イケメン、イケメンなのか、彼は。おぼろげながら記憶に残っている往年のアイドルと比べ、首を傾げる。

 顔立ちが整っているか否かはパーツのバランスに左右されると聞く。確かに、御幸は極端にバランスが悪くないとは思うが、イケメンと思うかと聞かれればそうでもなく。おまけに御幸とまともに話したのは昨日が初めてで、正直顔はまだ曖昧だ。うんうん唸る凪沙に、瑠夏が「ああー」と頷いた。

「凪沙、三次元全然興味ないもんね」

「え、じゃあ先輩って舞台とかミュとか見ないんですか!?」

「見ないなあ……原作だけで十分だし……」

「も、もったいなー!! 顔のいい男はこの世にごまんといるのに!!」

 天城凪沙はオタクではあるが、三次元のジャンルにはとんと興味がなかった。これまでの人生で、友人たちがかっこいい、顔がいいと騒ぐ人間に対して同じ感情を抱いたことがないからだ。ああ、人間がいるなあ、その程度。極端に崩れていれば──という言い方も失礼すぎるだろうが──バランスが悪い、と思うだけの感覚はあるが、凪沙が何かに対して『かっこいい、好き』となるのは、いつだって二次元だけだ。

「私、生きてる人間に興味ないから……」

「涼宮ハルヒでももっとまともな倫理観持ってると思う」

「先パイそれ外で言わない方がいいですよ」

 結論から言うと、恐らくそういうことなのだろう。もれなく周りはドン引きだったが。

 彼女らの反応を見るに、恐らく御幸一也は一般的にイケメンなのだろう。だが、凪沙にはとんと興味がない。故に、その目に魅力として映らない。寧ろ野球部でキャッチャーであることの方が、凪沙にとっては何百倍も魅力的に見えた。

「てか、なんて言って声かけたんですか?」

「普通に『野球のルール教えて欲しい』って言っただけだけど」

「それ、怪しまれなかった?」

「漫画にハマった、って正直に言ったら納得してくれたよ」

「それオタバレしてね?」

「私、そもそもオープンですし」

「くっ、陽の人間はこれだから……っ!!」

 先輩が悔しそうに顔を背ける。確かに、一昔前だったらオタクというだけでまるで社会不適合者かのような扱いを受けたと言うが、今はだいぶ市民権を得たように思う。御幸も恐らく自分のことをオタクだと見抜いただろうが、少なくとも嫌悪感のようなものはなかった。他人との距離感は自分の属性で決まるわけではない。コミュニケーションが取れるのであれば、自分がオタクだろうと何だろうと関係はない、というのが凪沙の持論である。

 だが少なくとも周りはそうは思わないらしく、全員が溜息を吐いた。

「まあこいつの場合、自分の顔面を毎日鏡で見てるわけだし、『オタバレしたところで』って感じで、自信に満ち溢れてるんじゃないですかね」

「あー、なるほど。そりゃ私らには分からん話だわ」

「いやいや、顔は関係ないでしょ瑠夏ちゃん……」

 どうにも周りには御幸一也に話しかけること=とんでもない偉業に映るらしい。少女漫画の人気ヒーロー的なポジションなのだろうか。確かに、他学年にまで『イケメンだから』とその名が知れているのは、純粋にすごい。だが御幸一也がイケメンという点においてどうにも理解できず、凪沙は小首を傾げる。するとそれを見た先輩がなるほどと頷いた。

「この子、自分の顔に慣れ過ぎて他人の顔に対してもハードル高いんじゃない?」

「ああー……先パイほんと呆れるぐらい美人ですもんね」

「こいつの顔と頭は漫研が誇る宝よ」

「それと引き換えに運動神経が犠牲になった模様」

「天与呪縛みたいでかっこいい!」

「いやいやそんなそんな……」

 これもよく言われる。自分の顔は良い、と。毎日鏡を見ながら『自分の顔良いなあ』と思ったことはないのだが、人が言うからそうなのだろう。これもまた、凪沙にとっては興味のないことだった。二次元を推すのにどれほど顔面が良くても関係がないからだ。

 だが、これもまた周りにとっては『関係ない』とは思わないようで。

「ウッウッ、どうしよ……私らの凪沙が御幸に取られたら……!」

「は? 凪沙先パイは三次元に興味ないから解釈違いです。担降りします」

「そこは応援してやりなよ、担当なら」

 勝手に盛り上がる周囲に、凪沙は何も言えずに困惑していた。そんな気は一切ない凪沙はこの誤解をどう解いたものか分からず、オロオロと一人右往左往していた。こういう話題は苦手だ。親しい相手なら尚更だ。

 そんな凪沙のちらりと見た瑠夏は、いやいやとかぶりを振った。

「凪沙に限ってそれはないですって。ねえ、凪沙」

 瑠夏の問いは、凪沙にとっては救いの一手だった。助かったとばかりに、凪沙はこくこくと頷いた。

「ただ野球のルールを知りたいだけです! そりゃ、欲を言えば野球部員の生態とか、もっといえば防具や備品の資料なんかも抑えられたら嬉しいけど……!」

「生態言うな生態」

「やっぱ凪沙先パイはこうじゃないと」

「ならいいけど。リア充になったら爆破させるからね」

「先輩それ百年ぶりに聞きましたよ」

「えっ嘘これもう古い?」

「古文ですよ、古文」

 そんなやり取りをしながら、緩やかな時間が流れていく。凪沙はこの時間が好きだった。自分の好きな作品を摂取するのと同じぐらい、仲間内で話をするのも好きだった。

「(リア充、かあ……)」

 この場合、所謂恋人がいる状況を指し示すのだろうが、今だって十分リアルが充実していると凪沙は思う。他の物なんか何もいらないのにな、と少女は友人たちを眺めながら人知れずため息をついた。

 天城凪沙は異性の友人が少ない。いや、少ないどころか、全くいない。というのも、敢えて作らないようにしていたからだ。昔からそうだ。男の子とゲームや漫画の話で盛り上がると、決まって相手を勘違いさせてしまうのだ。脈ありかもしれない、と。凪沙は昔から三次元の恋愛に興味がない。だから、好意を寄せられても困るだけだった。なので敢えて異性には近寄らないよう距離を取っていた。友人たちも凪沙のそんな困った事情は知っていたからこそ、そんな迷いすら吹き飛ばして御幸に話しかけに行ったことが物珍しく映ったのだろう。

 けど、凪沙だって考えなしではない。

「(あの人は、そういう感じには見えなかったし)」

 寧ろ、話しかけた瞬間露骨に嫌そうな空気を一瞬漂わせた。彼女たちの反応を見るに他学年にまで名前が知られるほどイケメンらしいので、彼もまた凪沙同様の悩みを抱えているのかもしれない。だったら安心、と思うほど他人を信用しているわけではないが。

「(勘違い、気を付けなきゃ)」

 だって、推しは彼ではない。紙の上で生きる、少年なのだから。

*PREV | TOP | NEXT#