御幸一也が見るメイク

 大学生になって、化粧をする機会も増えた。最初は何から手を付ければいいのか分からず困惑極めたが、友人や先輩たちのアドバイスもあってなんとかそれなりに形になりつつあった。とはいえ、バイトやサークル活動が運動系な上に、一番見せるべき相手は家でしか会わない──球場に足を運ぶことはあるが、その後に顔を合わせることはほとんどない──。そんなわけで、珍しく授業が長引いてしまい、家に帰った凪沙を御幸が出迎えたのだったが。

「……顔が違う」

「無礼者!」

 エプロン姿で出迎えて早々失礼なことを言い出す恋人に、凪沙は容赦なくチョップという名の天誅を下した。自分も試合終わりで疲れているだろうに夕食を作って待っている、と連絡があった時は世界で一番幸せだとすら思ったのだが、御幸のこういう部分は本当にどうかと思う。今に始まった話ではないが。

 閉口する凪沙を他所に、御幸はヘラヘラ笑いながら「飯できてる」と言う。目の前の餌に、まあいいかと片付ける凪沙のせいでこういう部分が直らないことに、凪沙は薄々気づいていた。それでも、お手製の肉じゃがと炊き込みご飯、みそ汁に焼き魚、昨日の残りである小松菜のおひたしという純和食をありがたく頂けば、今日一日の疲れなど吹き飛んでしまう訳で。そんな凪沙をじっと見つめる御幸の表情は、いつもよりも少しだけ険しい。

「……やっぱ、顔が違う」

「そりゃ、まあ、メイクしてますから」

 ビフォーとアフターが別人、なんてレベルのメイクではないはずだが、御幸はどうにもお気に召さないらしい。何なら不機嫌なまである。

「なんで?」

「なんで」

 なんで──なんで、とくるか。確かに、男性はあまり化粧品に縁がない、というタイプが多い。何なら御幸もそのクチである。御幸自身はイケメン捕手で売ってるため、仕事でメイクされることも多いはずなのに、その意味をあまり理解できないらしい。

「メイクするの……楽しいから、かなあ……」

「楽しいかあ、あれ?」

「私は好きだよ。なんかこう、いつもと違う自分になってる感じがしてさ!」

 メイクをする理由は人それぞれだ。少なくとも凪沙にとってそれは楽しいものだった。いつか必要になるマナーのようなものではあるが、それ以前に凪沙は自分が楽しくてメイクをしていた。だが、この楽しみは御幸には伝わらないらしい。むすっとした表情のままだ。

「別にメイクするのは、普通じゃない?」

「ふつう……」

「男の子だって朝ヒゲ剃るでしょ? 似たようなもんだってお姉ちゃん言ってたよ」

「……似てない」

 凪沙の言葉を繰り返すだけの人形と化してしまった御幸。よっぽど思うところがあるのだろう。顔が違う、と恋人相手にもバッサリ言うほど直球な御幸が、ここまでまごつくのは珍しい。

「ご、ご不満ですか?」

「ん……」

 唸るようなその一言は、肯定か否定か判断つかなかった。御幸は何が不満なのか分からず、困惑しながら笑みだけ浮かべる。

「え、えっと……」

「……ごめん」

 手の甲で頬を撫でてくる御幸。ローテーブルに突っ伏して、不満げな瞳がじとりとこちらに向けられ、何故か叱られているような気分になる。とはいえ、自分に非はないつもりなので、御幸を見つめ返す。

「御幸くんは、何がそんなに嫌なの?」

「……化粧は、『自分を良く見せる為にやる』って、言われた、から」

 渋々といった体でそう呟く御幸。なるほど、彼もまた人に見られる職業だ。撮影などで化粧を施される日もあったのだろう。故に、御幸にとって化粧とはそういうもの、という認識だったのだろう。

「天城が他の人に良く見られんのは、困る」

「……困る、かあ」

「困る」

 何故困るか、御幸は告げなかった。困る、とうわ言のように続ける御幸。その拗ねたような目がそっと逸らされるだけで、全てが手に取るように分かる。きゅーん、と胸が熱くなる。御幸はこう見えて、露骨に嫉妬する方だ。御幸のようにモテるわけでもないのに、凪沙の周りに男の影を見るだけでこうして態度に出す。ちょっと着飾ったぐらいで誰も掠め取りに来るわけもないのに。ましてや、御幸一也と張り合おうなどという命知らずな厚顔無恥が、居ようはずもないのに。

 不思議と御幸は自分に自信がない節がある。顔よし身長よし稼ぎよしとモテる自覚もあるだろうに、どうして凪沙を繋ぎ止められないと不安になるのだろう。そこもまた、愛おしいのだけれど。

 頬を撫でる手を取って、優しく手の甲を撫でる。

「困るぐらい、可愛くなれてますか?」

「……別に、化粧、しなくても」

「好きな人に、メイク可愛いって言って欲しいなあ〜」

 にっこりとこれ以上ないぐらい笑顔で御幸におねだりする凪沙。というのも、御幸はあまり服飾や髪形、メイクを褒めるタイプの男ではない。何か違うことには気付いてくれるが、それを『良い』とは思わないらしく、変化だけを指摘してくる。御幸に対して不満はないけれど、たまにはお洒落した姿を褒めて欲しいものだ。

「可愛い?」

「……」

「御幸くんやーい」

「……」

「たまには言って欲しいなあー」

「……言ってる、けど」

「お洒落を褒めて欲しいんですぅー」

 それはそうとして、なんだかんだ御幸はちゃんと「可愛い」「好き」と言ってくれるようになった。言葉だけでは何とでもと人は言うが、それが嘘かどうか見分けるだけの付き合いは重ねてきたと思っている。それ自体は嬉しいけれど、それはそれだ。凪沙だって、好きな人に着飾った自分を褒めてもらいたいという欲求はあるのだ。だけど、御幸は未だ口を重く閉ざしたままだ。

「頑固だなあ」

「何が良いとか……分かんねえし……」

 気まずそうに、視線をあちこちへ散らす御幸。意外な一言である。恥ずかしいとか、困るとかではなく、『どう褒めていいのか分からない』なのか、と。きょとんと目を丸くする凪沙に、御幸はますます困ったように眉を八の字にする。

「いいよお、なんでも。メイク可愛いねーとか、爪綺麗だねー、とか、それぐらいでいいんだよ」

「……んー」

 何も色味がどうだとかコーディネートがどうだとか、そんな専門的な意見を求めているわけじゃない。『かわいい』と言わないだけで、御幸は凪沙の変化にはしっかり気付いてくれる。捕手として磨かれた観察眼は、ちゃんと恋人の変化を逐一捉えているのだ、あとはそれをどう出力するかだ。

「むずかしそ?」

「……難しい、とかじゃねえけどさ」

 じっと、様々な感情が入り混じった目がこちらに向けられる。どこか観察するような目付きに、不思議と背が伸びる。

「かわいー、けど」

「けど?」

 言いよどむ御幸に、今度は凪沙の観察眼が牙を向く。眼鏡の奥の色素の薄い瞳が、逃げ出したいとばかりに動く。けれど、頬を滑る手をしっかりと握り締めて言葉を続きを待つ。ややあって御幸は降参とばかりにがっくりと項垂れた。

「……俺のためじゃないなら、言いたくない」

「なにそれ御幸くんかわい!!」

 きゅん、と胸が高鳴るのが分かる。これがときめきでなくて何なのか。ばっと御幸の懐に飛びつく凪沙に、御幸は照れ隠しとばかりに髪をわしゃわしゃとかき混ぜてくる。

「お前が言ってどうすんだよ!」

「だって可愛いよも〜〜〜御幸くん〜〜〜!! 愛おしい〜〜〜!!」

 何が不満だったのか、ようやくはっきりした。細かな変化に気付く癖に褒めてくれないのは、それが自分の為じゃなかったから、だなんて。愛しさという感情に果てはないのだろうか。一体どこまで好きにさせれば気が済むのだろう。固い腹筋に抱き着きながら、愛しさ伝われとばかりに腕に力を籠める。

「いつかちゃんと、御幸くんの為だけにお洒落するね!」

「……楽しみにしてるわ」

 猫を撫でるように髪を梳いて、頬と喉を滑る指に、凪沙は堪えきれないように笑いを漏らす。こうした些細な『いつか』を約束することが、怖くなくなってきた。何気なく、未来を語れるようになった。どんな褒め言葉よりも、情熱的な愛の言葉よりも、未来を疑わなくなった自分たちの成長が、何よりも嬉しかったのだった。

(御幸とお洒落のお話/プロ1年目夏)

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