二軍選手とはいえオフの日はさほど多くない。そんな数少ない休みの日も自主練に励む恋人を、凪沙は寂しくもあり、同時に誇りに思っていた。そうなると自分の自由な時間などほぼゼロに等しいのに、そんな忙しい合間を縫って会いに来てくれる御幸に、また一つ思いが募るのだったが──。 どうやら今日は、何やら用事があるようで。 「なあ、スマホの使い方教えて」 「すまほ」 御幸の口から意外な言葉が出てきて、凪沙は思わず首を傾げた。 休みの日、バイトもなくテストも乗り切った凪沙はぬくぬくと恋人との自宅デートの準備をしていた。そんな中で、自宅にやってきた御幸がおもむろにポケットから引っ張り出したのは、見慣れぬスマホの姿。ローテーブルに置かれたそれを、御幸は渋い表情で見ている。 「買ったの?」 「違う。球団に持たされた」 「おお……俗にいう『社用携帯』ってやつですね……」 「そ」 そう言いながら御幸は自前の携帯──いわゆるガラケーを取り出す。何年使っているんだ、と聞きたくなるほど年季が入っている。ゲームもしないし電話もさほどしない、メールだけできればそれでいい、と頑なに買い換えない御幸にはこうしたガジェットは無用の長物なのだろう。アプリを使えないため御幸への連絡手段が限られてめんどくせえ、と倉持が苦い顔をしていたのはまだ記憶に新しいが。 「じゃあガラケーの方はポイするの?」 「いや、こっちはプライベート用にする」 「……御幸くん、二台使い分けられるの?」 「いけるいける」 ほんとかなあ、なんて疑問も浮かぶも、御幸は受け身ではあるもののそこそこマメなタイプだ。忙殺されている時はあれど、何だかんだ朝晩のメールが途絶えたことはほとんどない。公私はっきり分けるタイプだし、案外器用に使いこなせるかもしれない。 そうして二人並んでスマホのレクチャーが開始された。といっても凪沙だってさほど詳しいわけではない。必要最低限の操作と、これは便利というアプリを入れるよう指示し、御幸はおぼつかない手つきでスマホを操作していく。 「フリック入力むずくねえ?」 「慣れたら打ち込むより早いよ」 「ボタンが恋しい」 新しいものに慣れないのは人類共通の感覚か。小難しい表情でフリック入力を試みる御幸の横顔に思わず笑みが零れる。 「とりあえずLINE入れる?」 「あ、それは勝手に入れられた」 「そうなんだ。妙なとこで至れり尽くせりだね……」 「逆に困るわ。操作方法分かんねーのにポンと渡されてさ。会う人会う人LINEのアカウント教えろって言うけど、教え方すら分かんねーし、人に操作させんのは怖えーし」 確かに、たかだかアプリとはいえ、ここ最近じゃ公私問わず連絡手段の要になっている。初めて連絡先を交換する相手に『やってください』は、リスクが高い。 「じゃ、ひとまず私と友達になろうか」 「ん。QRコード出すんだっけ」 「そうそう」 そう言いながら二人でスマホを操作して、凪沙のスマホに映るQRコードを読み取る御幸。見慣れた名前が新しい友達の欄に表示されるのが、奇妙な光景だなと二人して思う。 「うん、これでいいはず」 「意外と簡単だな」 「でしょ。んで、アカウント消すのは──どうすんだろ、多分長押しすれば『削除』って出ると思うけど……」 「え、消さなきゃダメ?」 「だってこれ仕事用でしょ」 「そうだけど」 だが、御幸は新しい友達欄に表示された凪沙の名前を消そうとせず、渋い表情だ。別段、残していても害はないが……。 「私、御幸くんとの連絡は今までどおりがいいなあ」 「なんで?」 「……メールのが、過去のやり取り見返しやすくて、すきだから」 LINEにはLINEの利点があるのは分かる。何だかんだ連絡は手っ取り早いし、通話もできるし、固定のメンバー全員に同じ連絡を送るのにもこれほど便利なツールはない。けれど、どうにも過去の履歴を追うのは大変だ。それを思うと、毎日毎日メールボックスに溜まっていく方が好きだった。それを見返すのが、好きだった。 だが、御幸はきょとんとした表情で凪沙を見つめ返す。 「別に、連絡は今まで通りでいいじゃん」 「そ、そう?」 「うん。でも別に消す必要はねえだろ。せっかくの『友達』なんだし?」 「ま、まあ、御幸くんがいいならそれでいいけど……『友達』いっぱいいるでしょうに……」 あまりじろじろ見るのも失礼かと思ったが、それでも目を奪われる御幸の『友達』一覧。見覚えのあるスター選手や監督、ドラフト会議で指名されていた元高校球児の名前までずらりだ。 「ひええ……こういうの見るとほんとにギョーカイジンって感じするね……」 「試合見に来てくれてんのに、まだそんなこと言う?」 「いやだって、御幸くんはまだチームメイトってイメージが──ウ、ウワーッ、これあれだよね、四チャンネルの夕方ニュースキャスターやってる!! なんで連絡先知ってんの!?」 「それは──確か、球団のチャンネル動画撮る時に、無理矢理、」 「なるほど……エーッ、嘘、こっちは朝ドラの女優さんじゃないの!? すご、私あのドラマ好きなんだよ!」 「そいつ、プライベートの連絡先も聞き出そうとしてきたし俺は嫌い」 「イヤーッッッ聞きとうない! そういう闇の話は聞きとうない!」 ついつい見覚えのある名前をいくつか見つけて大はしゃぎする凪沙、その一方でどんどん顔が曇っていく御幸。まだ十代とはいえ、将来有望なイケメンを狙う女性も多いらしい。今に始まったことではないが。そうやって嫉妬心を見せない凪沙に助かるような、そうでないような複雑な気分になる。 「……まあ、こういうのがあるから、ガラケー手放せねえんだよな」 「あー、『LINEできない』って鉄壁の断り文句だもんね」 「そういうこと。『球団用のスマホでいいなら』って言うと、ぜってー嫌そうな顔するからさ」 「プライベートでの付き合いはお断り、って言ってるようなもんだしね……」 「そりゃ、プライベートの付き合いOKとは言いたくねえし」 「御幸くん……!」 御幸からの思いを今更疑うことはないけれど、それでも自分よりもずっと綺麗で、セクシーで、稼ぎもある大人の女性からの誘いも顔色一つ変えずに断るのだ。きゅんと胸の奥が疼くのは当然の反応だった。ぐっと左肩にもたれ掛かると、御幸は黙って凪沙の肩を抱き寄せる。 「なに?」 「そっちこそ」 「べっつにー」 そう言って、二人して笑い合う。不安がないとは言い切れない。人の心は常に変動する。永遠もなく、また、絶対もない。それでも、この笑顔は、温もりは確かだ。だから、そんな不安なんてぺしゃんこになる。だからこうして、笑っていられるのだ。明日も、明後日も、一年後も、十年後も、そうなると信じて。 そういえば、と御幸が凪沙のスマホを覗き込む。 「あとさ、いんすた? ってのもやれって言われてさ」 「御幸くんが……いんすた……?」 「一応アカウントはあるらしいんだけど」 「し、知らなかった……」 「そりゃ、『テスト』としか投稿してねえしな」 「ファンに認知されないわけだ……」 そう言いながら御幸のアカウントを見る。確かに御幸のスポーツサングラスらしきものがアイコンになっており、名前も『御幸一也』になっている。『テスト』という一言しか投稿されておらず、フォローも球団関係者しかいない。 「で、どう使うの?」 「私の見る? って言っても、ご飯の画像しかないんだけど……」 それこそ、業界人がやるような華やかな投稿を参考にすべきなのだろうが、こういうのは決まってファンサービスである。当然、球団は御幸にファンが喜ぶ投稿をさせたいはずだ。なら豪華な食事よりも、御幸一也の日常を切り取ったワンシーンの方が喜ばれるに違いない。そう考えると凪沙の投稿の方が参考になりそうだ。 「……今日食う飯を投稿してけばいいの?」 「いやそういうわけじゃないけども……自撮りとかでもいいわけだし……」 「お前はやってないじゃん」 「や、やんないよ……モデルでもあるまいし……」 「俺だってモデルじゃねーし」 「御幸くんは、ほら……喜ぶ人いると思うよ?」 「喜ぶ人、いていーんだ」 「……良くはない──けど、公私は分ける主義ですので」 確かに、不特定多数の人間に御幸の写真が出回るのはあまり気持ちのいいことではない。本人だって気分はよくないだろう。ただ、御幸の顔なんてこれからいくらでもメディアに撮られる。これもその一環と思えば、まだ割り切れる。業界人のプライベートのわずかな一面に一喜一憂するのもまた、ファンの仕事だ。凪沙は御幸一也の恋人であり、自称ファン一号なのだから。 「ふーん。自撮りにメシに、今日買った物──そんなとこ?」 「そうだね。色んな人に『見て見てー』ってしたいものがいいんじゃないかな」 「……見て見てー?」 「そ。自慢したいものでもよし、おすすめしたいものでもよし、日記や備忘録感覚で投稿するもよし、SNSの使い方は千差万別だし、炎上しない範囲で自分の自由に使えば──」 そこまで言って、凪沙は不意に言葉を切った。御幸の球団用スマホのカメラがこちらに向けられていたからだ。全く性格が悪い、と凪沙はカメラを手のひらで覆う。 「そういうことじゃなくてだね!!」 「冗談だって」 けらけらとからかうように笑ってスマホを下げる御幸。だが、こちらとしてはあまりジョークで終わらせられない。 「そういう『匂わせ』で炎上してきた人たち山ほどいるんだから、気を付けてよね……」 「分かってるって。しっかし、結婚相手や子どもの写真は喜ばれんのに、『彼女』の写真はNGとか、よく分かんねーなあ」 言われてみれば、である。法で結ばれた『家族』と、法的拘束力のない『彼女』じゃ、受ける印象が異なるから──と、それらしいことを考えてみるも、そういうのは理屈じゃないのだろう。御幸にこの手のことを言い聞かせたところで理解はされまいと、凪沙は「不思議だねえ」と零すだけに留まった。 「……」 「どしたの?」 ふと、御幸がじーっと凪沙のスマホを覗き込んでいるのに気付いた。凪沙は自分のインスタを開いており、数日前に投稿した手作りのティラミスの画像や、食べ物しか映っていない飲み会写真などが映っているだけ。 「そういうの見てっと、スマホも悪くねーかなとか思うわ」 「あれ、御幸くんってそういうタイプの人だっけ」 「そうじゃなくて。アカウント持ってれば、お前の投稿見れんだろ?」 「別に大した投稿してないけどねぇ」 「なんかそっちの方が、リアルタイムって感じする」 「確かに、メールとは趣が違うよねえ」 特定の個人に向けた発信ではないのが、SNSの気が楽なところだと凪沙は思う。誰からの返信を待つでもなく、ただ自分の好きなもの、良かったものを記録する。或いは日常を切り取って発信する。特定の誰かに向けなければ発信すらできないメールとは真逆だ。じいっと凪沙の投稿を覗き込む御幸の顔を見て、ぴんと閃きが走った。 「そういえば、ガラケーみたいなスマホあるよね。ガラホ? 進化型携帯? だっけ」 「がらほ?」 「見た目はガラケーなんだけど、OSはandroidなの。だからLINEとかインスタとかできるんじゃないかな」 「へー、いいな。そしたら俺も青道のグループに参加できるし」 「あ、それいいね。幹事的にはすごい助かる」 そして見た目はガラケーなので、『LINEやってません』という白々しい嘘を吐くことも難しくはないだろう。何だかんだ、スマートフォン向けのアプリの利便性はガラケーのそれとは大きくかけ離れている。スケジュールを共有したり、まとめて連絡を取ったり、便利なアプリは山ほどある。ぜひ一緒に使いたいアプリがあるのだと、凪沙は鼻息荒くスマホをスワイプさせていると──。 「うわっ」 突如、スマホが震えだす。ブーブーというバイブ音と共に、一拍遅れて着信画面が表示される。電話番号と共に表示された名前は──『真田俊平』。それを見るや否や、御幸は黙って『拒否』のアイコンをタップする。 「ちょっとお!?」 「電話するほどの仲とは聞いてねーんだけど?」 あからさまに笑顔が強張る御幸に、凪沙はハハハと乾いた笑いを浮かべる。同じ大学に真田がいて、訳合って虫除け兼友人になったことは御幸にも事前に伝えていた。その時は『見る目あるな』とかなんとか言っていたので、さほど気にしていないものと思っていたのだが……。 「そんな仲でもないよ。テストとかレポートの時にしか連絡取らないし」 「テストはもう終わったんだろ?」 「レポートが出てるんだよね。あー多分それかなあ……」 どういう訳か真田は凪沙と同じ授業を取っているのだが、本人はあまり学習意欲はないらしく、しょっちゅう居眠りしていた。テスト範囲すら『どこだっけ』なんて連絡が来たほどだ。恐らく『レポートって何すりゃいいの』とかなんとか聞きたいのだろう。案の定、即座にLINEの通知が画面に出る。 『わり、倫理のレポートって何すりゃいいの』 だろうと思った。友人各位に不評だった授業なだけある。ちゃんと聞いておけと思いながら、議題が書かれたプリントの写真でも送ってやるか、とため息交じりで立ち上がろうとすると──。 「御幸くん……」 「なに?」 ぐぐ、と背面に引っ張られる感覚。御幸がTシャツの裾をがっつり掴んで離さない。おかげで立ち上がることもままならない凪沙に、御幸の笑みはますます深くなる一方。参ったな、と思いながらTシャツの寿命を縮められては敵わないので、潔く立ち上がるのを諦めて腰を下ろす。 「教授の話を聞いてない真田くんが悪いってことで」 「そういうこと」 そしてそのまま凪沙を抱き寄せる御幸。こんなに分かりやすく嫉妬する人だったかな、なんて思いながら、力の限りぎゅうっと抱きしめてくる御幸の背中に手を回す。嬉しそうに笑みを零しながら優しく髪を梳くその手つきに、『まあいっか』なんて思ってしまうあたり、凪沙も凪沙なのであった。 これは、御幸一也がガラホを購入する、わずか五日前の出来事。 (御幸がスマホを買うお話/プロ1年目夏) |