それは、御幸一也が新キャプテンに就任してすぐのこと。川上を立ち直らせなければ──沢村のイップス問題──打線の貧弱化──新キャプテンとしての課題が山積みの中、自分の練習も身が入らぬまま怒涛の勢いで練習試合が続いた、夏休み最後の週の出来事であった。 「えーと……ごめん、御幸くん。今、五分ぐらいいいかな」 強豪校との試合の後の夜、いつものように食堂でデータ解析のためスコアブックを開いていた時だった。突如肩を叩かれ、マネージャーの天城凪沙の控え目な声がそんなことを言うのだから驚いた。もう二一時を回っているというのに、何をしているのか。凪沙は山盛りのボール籠を抱えたまま、戸惑った様子で佇んでいる。 「お前、まだ残ってたのかよ!」 「ちょっと色々やることあって……と、とにかく、五分だけ! お願い!」 深々と頭を下げる凪沙に、御幸は困惑する。正直、何を持ちかけられるか想像すらできないが、身も蓋もない言い方をするならば『また面倒ごとか』の一言だった。仮にも天城凪沙はちょっとした好意を寄せている相手だが、それ以上にやることが山積みである御幸にしてみれば、これ以上のトラブルをもたらされるのは勘弁願いたかった──という感情が思いっきり顔に出てしまったのだろうか。顔を上げた凪沙は、申し訳なさそうに眉を八の字に曲げた。 「部の体制のことだから、御幸くんにしか聞けなくって」 忙しいとこほんとゴメンと平謝りする凪沙。そういう理由なら責めることはできない。野球部のことであれば、御幸自身が対応しなければならないからだ。仕方ないとスコアブックを閉じて立ち上がる。 「移動した方がいいよな?」 「そうしてもらえると助かりマス……」 見れば見るほど申し訳なさそうに、凪沙は項垂れた。そして黙したまま、二人で寮を出てプレハブの方へと歩いていく。凪沙はすたすたとボール籠を抱えたまま歩き、プレハブの中に入る。中には誰もおらず、すでに人払い済みであることを知る。重たげなボール籠をどんとデスクに置いた凪沙に、今更ながら手伝えばよかったと悔いた。そんなことすら気付けないほど、追い詰められているのかと、自己嫌悪が生まれる。 「……悪い、色々」 「いやいや謝んないで。御幸くんが大変なの、分かってるから」 凪沙はにこやかに笑って首を振る。気遣いだけでなく、本心からそう言っているのが分かるから、凪沙との会話は気が楽だ。不要な嘘を吐かないのは、彼女の美点だと思う。 「んで、何があったわけ?」 「それがねー……」 パイプ椅子に腰を下ろし、へにゃりと机に突っ伏す凪沙。珍しく言い淀む物言いの凪沙に、これは大事だなと判断した御幸もまた適当にパイプ椅子を広げて腰を下ろす。 「えーと……」 「ああ」 「……あの、」 「……」 「──あ、ごめん。御幸くん忙しいのに。ちゃんと言うね」 黙って言葉を促す御幸に、凪沙はハッとしたように息を呑んで姿勢を正した。修羅場にさえ突き進んでいくような豪胆さ持つ凪沙が言い淀むなど、よっぽど言い辛いことであろうに、彼女を急かすような真似をしてしまった。自分のこういうところがキャプテンに向かないのだと、内心舌打ちしながら辛抱強く凪沙の言葉を待つ。 そして──凪沙はようやく重々しい口を開いた。 「野球部って、恋愛禁止じゃないっけ」 「……は?」 腹を据えて言葉を待つと、想像だにしていなかったワードが飛び出して思わず肩の力が抜けた。凪沙は今、なんと言ったか。恋愛? 禁止? 呆れるとか驚くとかそれ以前のことに動揺を隠しきれない御幸に、凪沙は非常に申し訳なさそうに俯いた。 「ほんとは結城先輩に聞こうと思ってたんだけど、今の体制の話を聞きたかったからここは御幸くんに頼らざるを得なくて……ほんとごめん。こんな話で申し訳ないんだけど、どうしても確かめておきたいのです……!」 「えーと……何、天城誰かに告白でもすんの?」 「私の話ではないんだけど……と、とにかく、どうなの、キャプテン!」 結論を急ぐ凪沙。どうにも、凪沙の様子がおかしい。だが、その原因がいまだ見えず、ひとまず自分の意見を口にすることにした。 「禁止──ってことはねえけど。多分哲さんたちもその上の世代も、禁止じゃなかったと思うぜ。彼女いる部員もいたみたいだし。俺の代になったからって、禁止にする必要性も今のところ感じてねえし──」 「だよねええええ……!!」 一際大きな声を上げて、がっくりと、再び机に崩れ落ちる凪沙。明らかに喜びではない。どちらかというと、望みの綱を切り落とされたかのような、そんな物言いだった。 照れも恥じらいもなく、ただただ落ち込む凪沙──奇妙だな、と改めて思う。最初こそなんだそりゃと思ったが、凪沙の態度はあまりに妙だ。誰かが好きで告白したいからそんなことを聞いた──とは思い難い。凪沙の口ぶりと態度は、まるで御幸が『部では恋愛禁止だ』という言葉を引き出したかったかのように思える。それを否定して肩を落とす凪沙は、御幸の答えは望んだものではなかった、ということになり。 「……ごめん、それだけなんだ。ほんとごめんね、忙しいところ呼び出して。話題が話題なだけに、他のみんなに変な誤解されるわけにはいかなくて──私の話はこれで終わり。ありがとね!」 どうやら凪沙は多くを語る気はないらしい。ボール籠を再び持ち直し、困ったように微笑む凪沙からは、明確な拒絶の意志を感じた。だが、今の話を整理すると、彼女の抱える問題は恐らく、彼女が考える以上に厄介だ。御幸の想像が全て正しければ、の話だが。彼女に仄かな好意を抱く一人の男として、ではない。野球部のキャプテンとして、マネージャーの抱える不安要素は見過ごすわけにはいかないと判断した。だから御幸は、彼女を呼び止めた。 「──なあ、当てていい?」 その一言に、凪沙は面白いくらい分かりやすく飛び上がった。二の句を継がないままフリーズした凪沙に、御幸は畳みかけるように言う。 「天城さあ、野球部の誰かに告白された?」 「い゛っ!?」 まるでスタンガンでも押し当てられたかのように、凪沙は肩をびくつかせた。相変わらず嘘の吐けない奴だと、くつりと笑みが零れる。だが、状況は思った通り深刻だ。御幸は攻めの姿勢を緩めない。 「それも、相手は多分上級生」 「待って待って」 「でも天城は告白されたけど、断りたい」 「嘘待って、あれ、なんで」 「でもうまい言い訳が見つからなかったか、相手の押しが強かったかのどっちか」 「え? あれあれ、御幸くん、うそ、」 「だから体のいい言い訳が欲しかった。だから俺にあんなことを聞いた。でもその言い訳は通用しないと分かって落ち込んでる──どう? 当たってる?」 「うっそぉ……」 ほぼほぼ図星だったのか、凪沙は少しだけ顔を赤らめながら呆然と御幸を見つめていた。 元々、いくつか予想できる要素はあったのだ。一つは、話を打ち明けた時、凪沙が全く恥じらっていなかったこと。自分の話じゃないと言いつつ、急ぎで確認したいと申し訳なさそうに御幸を呼び出した。他のマネージャーが同様のトラブルに巻き込まれていたら、彼女はもっと深刻な問題として御幸に相談を持ち掛けたはずだ。それをあれほど言い辛そうにしていたということは、『自分以外の誰か』の話でありながら『自分には無関係ではない』のは火を見るより明らか。そこまで予測できれば、矢印の向きは容易に想像できた。すなわち、『凪沙が誰かに告白された』ということで。 無論、告白されて、それを断りたがってるのは言うまでもないだろう。そうでなければ、わざわざ多忙極まりない御幸を呼び出して『うちの部は恋愛禁止じゃないの?』なんて聞くはずもない。どういった経緯で断りたいのかは謎だが、何にしても凪沙の性格を考えて、断る気があるならその場でハッキリと伝えたはずだ。それで解決していないことを考えれば、存外食い下がられて困っている、ということだ。少なくとも、自分の意志ではどうにもならないのだという理由を、御幸に求める程度には。 では相手は誰か。これも容易に想像がついた。三年生の引退と、今という時期がそれを示している。夏の敗北は上級生たちに次なる道を示す。大学か、プロか、或いは別の道か。何にしても前へと進まねばならぬ状況で、一つ大きな変化があるとしたら野球部の練習に参加しなくてよくなる──すなわち、自分の自由時間が増える、ということだ。つまり三年分の鬱憤を晴らさんと羽根を伸ばす先輩方は決して少なくないのだ。ベンチ入りすらしていなかった者は特に、だ。なのでこの時期になると、彼女が欲しいだの誰それに告白しただのという話題が御幸の耳にも入ってきた。だから相手は、『部活を引退した三年生』だと判断した。 更に言えば、凪沙は野球部の先輩たちにいい意味でも、そして悪い意味でも目を付けられていた。『マネージャーの中で誰が一番可愛いか』などという死ぬほど下世話な話になると、必ず先輩の何人かが凪沙の名前を挙げていた。特別人を惹き付ける容姿ではない凪沙の名前が挙がるのが──彼女には悪いが──少し意外で、ついついそんな下らない話題に耳を傾けてしまったのだ。その時の記憶は、腹立たしいことに──否、腹立たしかったからこそ、今尚鮮明に思い出せる。 『まあ、夏川や藤原は高嶺の花だしなあ』 『分かる、競争率考えたら参戦しようとか思わねえよな』 『梅本は気が強すぎるし、吉川はちょっとドジすぎて、なあ……』 『天城が一番ちょうどいいんだよ』 『あー、俺でもいけそう、的な?』 『そうそう!』 ──なんだ、それ。込み上げてきた怒りをぶつけるわけにいかず、御幸は黙したままその場を逃げるように後にするしかなかった。その時から、御幸は凪沙に対して関心を抱いていた。『ちょうどいい』、『俺でもいけそう』──好意を抱いた相手をそんな風に言われて、冷静でいられるはずがなかった。だが、卑怯にもその場で咎める度胸も予定もなかったのも、また事実。だからあんなにも鮮烈に記憶に刻まれていた。あそこで下手に口を挟めば、誤解をされかねない──実際、御幸は凪沙を好いているのだから誤解も何もないのだが──。部内に浮ついた空気は持ち込みたくなかったし、からかいのネタになるのもご免だったし、何より思いを伝える気もなければ、凪沙とどうこうなりたいわけではない御幸は、この思いを外に漏らすわけにはいかなかったのだ。 閑話休題。そういった事情を知っていたため、相手も野球部の上級生だと判断した。無論、彼女の交流関係をつぶさに見知っているわけではないので、全く別カテゴリの人間から告白された可能性も否めなかったが、カマかけ半分で投げた言葉は凪沙にしっかりと響いているので、どうやら見当違いということでもないらしい。 ややあって、項垂れながらも、凪沙はおずおずと御幸の方に向き合う。 「もしかして、知ってた?」 「全然」 「うっそ、じゃあなんで……御幸くんメンタリストだったのお……?」 「天城、分かりやすいから」 「初めて言われたんですけどお……」 キャッチャーの観察眼すごお、なんてぼやく凪沙は尊敬半分、困惑半分の表情だ。やがて凪沙は観念したように、はあ、と大きなため息を一つ漏らした。 「御幸くんの仰る通りです……昨日、先輩から告白されたんだけど、よく知らない人だし、申し訳ないけど断ったら『せめて友達からでも!』って食い下がってきて……」 「うわなんだそれ、すげーメンタル」 「あんまりすげなくすると角立ちそうだし、正直よく知らない人なだけにちょっと怖いし、『考える時間ください』って逃げるのがやっとでさ……参ったなあ……」 何に対しても物怖じしない彼女のその一言には、少なからず御幸を驚かせた。怖い──か。こいつでも、そんなこと思うのだな、と。それで体のいい断り文句を探していた、と。 「あー、ベタだけど、『好きな人いるから』、とかは?」 「まさか食い下がると思わなくて、『別にいない』って言っちゃった……」 「……馬鹿正直すぎだろ、お前」 「私もそう思う……」 唇を尖らせて拗ねる凪沙。そりゃあそんなこと言われてしまえば、相手からしてみたら『自分にもチャンスはある』、と思うだろう。御幸が同じ立場だったら、絶対に口にしないセリフだ。凪沙の美点ではあるものの、嘘を吐けない性格も場合によっては考えものらしい。 さり気ない凪沙の一言をラッキーと素直に喜べぬまま、どうしたものかと言葉を選びあぐねている御幸。そもそもねえ、と凪沙は苦い顔を一つ浮かべる。 「先輩、多分私のこと本気で好きじゃないと思うんだよね」 「……へえー、なんでそう思うわけ?」 「だってこの二年間、全然話したことないんだよ? 告白する度胸はあって話しかけてこないって、なんか変じゃない? 私の何見て好きになったの、って思うでしょ」 確かに、御幸の脳裏に描いている先輩と、凪沙に告白したという先輩の顔が合致しているとしたら、先輩と凪沙が一緒に過ごしているところを見たことはなかった。恋に恋する、といったタイプであればまた違ったのだろうが、生憎凪沙の脳内はそこまでお花畑ではなかったらしい。ときめきよりも恐怖を抱くほどよく知らない相手なら、尚更だ。 「だから多分、先輩は『カノジョ』が欲しいだけじゃないかなーって」 「あー、まあ……そういう奴もいるよな」 「でしょ? 私じゃなくてもいいんだろうなーって思うと、動機が不純なだけに返事しづらくて……っていうか、付き合っても絶対うまくいく気しないし」 女の勘という奴か、或いは凪沙が鋭いのか。何にしてもその危機察知能力はお見事だ。御幸も同意見である。話を聞いて確信した。凪沙に告白してきた男と、御幸が脳裏で描いている男は同一人物だ。彼女は欲しいが出会いがない。ならば少しでも顔見知りのマネージャーで、かつ──彼らの言うように、『俺でもいけそう』な相手を、選んだのだろう。容易に想像ができる分、苛立ちが腹の底に募る。 「揉めそうなら、俺が間に立つけど」 「そこまではさせらんないよ。個人的なことだし」 「何かあってからじゃ遅いだろ」 「怖いこと言わないでよ御幸くん……揉めそうなら、一時凌ぎでOKするよ」 「は?」 先ほどと打って変わって真逆なことを言いだす凪沙に、思わず声のトーンが落ちたのが分かった。だが、理解ができなかった。こいつは今、一体何を言い出したのか、と。 「野球部恋愛禁止令がないんじゃ、もう抵抗の手段ないしねえ」 「いやいや、お前自分が何言ってるか分かってる?」 「分かってるよ」 「何も分かってねえよ」 「だって、今の野球部でトラブル起こすわけにはいかない」 怒気を強める御幸の言葉に被せるように、凪沙は一言静かに発した。ぞっとした。その考え方に。その、思考回路に。朝から夜までめいっぱい働きます──そんな挨拶を掲げて、彼女はこの部にやってきた。何故かその挨拶を、節目節目に思い出す。その言葉に嘘偽りなく、彼女は献身的に野球部に尽くしてくれた。だが──そこまでするつもりなのか。他に手段がないからと、あっさり自らを犠牲にしてしまうその思い切りの良さが、心底恐ろしくなった。 しかし、御幸の心情とは正反対に、凪沙は得意げな表情を浮かべている。 「ふっふっふ。逆転の発想だよ、御幸くん。私、こんな時間まで仕事してるんだよ。デートどころか、毎日連絡取るのでさえやっとだと思うんだよね。先輩が想像してるような彼氏彼女生活なんか、ぜーったい絶対送れるわけないよ。そしたらあっちも飽きると思うんだよね。そんでフッてくれれば丸く収まるかなって──」 「お前、男のこと舐めすぎてねえか?」 開いた口が塞がらないとはこのことだ。あまりに──あまりに、犠牲的な発言だった。そりゃあ彼女の言う通りになれば丸く収まるだろう。二人の関係は、二人の間だけで片付く。けれどその間は。曲がりなりにも恋人同士になった二人は、相手は凪沙に何を求めるのか、これまた容易に想像できるからこそ、この一年間、腹の底に積もったあれこれが爆発しそうなほど煮えたぎっていた。脳裏に描けてしまう、二人の接触。手を繋いで、抱きしめて、キスをするのだ──彼女にとって、好きでもなんでもない、相手と。男にとってただ都合がいいだけだと、分かっていながら。 「好きでもない相手に、何されても許せるのかよ」 「ウーン。そう言われると、中々答えづらいというか」 「ふざけるなよ。あっちだって、本気じゃねえの分かってて」 「ただでさえ部の雰囲気アレなのに、自分のせいで空気悪くしたくないよ」 「だったら、俺の方がいいだろ」 「だから私がちょっと我慢し──エ?」 「俺はずっと本気だって──の、に、」 勢い任せに飛び出したその言葉に、凪沙以上に驚いたのは御幸自身だった。互いに言いかけた言葉が、不自然に途切れる。痺れるような沈黙の中、二人して目を零れ落ちんばかりに見開いて見つめ合う。言うつもりなどないと、一年以上蓋をして寝かせてきた思いだった。すでに埃を被って、錆び付いて、そうして忘れ去られるはずのその感情が、凪沙があんな男に好きに嬲られると思った瞬間にぽーんと飛び出してきてしまった。自分の意志とは無関係に、無意識的に、だ。 ──冗談だって、なんて場を濁すには遅すぎるほどの間が流れていく。こういう時、凪沙が言葉の意図をくみ取れないほど鈍感だったらどれだけよかったか。だが、見る見るうちに真っ赤になっていく少女の顔に、もう言い訳は通用しないと悟る。でも、もしこれで彼女を引き留められるなら。ここまで来たら引き下がれない。馬鹿げた自己犠牲に身を投じようとする彼女を止められるなら、もう、なんだって。 そう覚悟を決めたその瞬間だった、凪沙の腕からボール籠がするっとすり抜けたのは。 「あっ」 間の抜けた凪沙の声と、ボール籠がガシャンと床に弾けるのはほぼ同時だった。狭いプレハブ内に跳ねて散乱するボールに、凪沙は目を見開いてお手本のような悲鳴を上げた。 「ギャ──ッ!!」 我を忘れたように、一心不乱に跳ねて転がるボールたちをかき集める凪沙。その顔は先ほどまで真っ赤にしていたいじらしさはどこへやら、打って変わって鬼気迫るもので。その落差がどうにもおかしくて、気付けば御幸はその場に蹲るほどの笑いが込み上げてきた。 「お、おま──顔っ、ヒーッ、腹痛ェ……!」 「御幸くん笑いすぎでは!? ああああせっかく磨いたのに!!」 そこじゃねえだろ、というポイントで怒ったり焦ったりしながら覚束ない手つきでボールをかき集めて籠に戻し始める凪沙。手の甲で涙を拭いながら、笑いすぎて震える手で御幸もまたボールを拾うのを手伝う。 「だ、大体ねえ! 誰のせいだと、思っ、て──……」 そこで不自然に、凪沙の言葉がぶつりと途切れる。ボールを拾う御幸の方を、まるで信じられないものを見るような目で見ている。ぱっと視線が交差するその瞬間、ぼっと火が付いたように凪沙の顔は真っ赤になる。それだけじゃない。今まさに眠りから目が覚めたかのように、はっと息を呑んだその顔を見て、先ほどまでの怒りやら苛立ちやらが吹っ飛んだ。 「……あのさあ、」 「は、はい」 「先輩のこと、好きでもなんでもないってことだよな」 「えっ、あ、うん」 「俺のことなら、先輩よりかずっと知ってるだろ」 「や、まあ、それはそう。ほんとに、」 「俺のこと怖い?」 「う、ううん。全然」 「──じゃあ、俺と付き合ってるって、先輩のことフってくれよ」 何も言わなければ、きっとトラブルになんかならなかった。御幸の与り知らぬところで二人が結ばれ、愛も恋も芽生えぬ二人は仮初の恋人を、それらしく演じただろう。なのに、そうならなかった。そんな一石を、よりにもよって御幸自身が投じてしまった。何て失態だと、自己嫌悪で眩暈がした。彼女に思いを告げる気などさらさらなかったのに。今でさえ、言わなければよかったという後悔はあった。 ──けれどどうしても、『放っておけばよかった』とは思いたくなかった。それだけは、どうしても認められなかった。凪沙がどんな奴を好きになろうが咎める権利はないのは理解している。だけど、好きでもない奴に身を捧げるぐらいなら──『一時凌ぎ』なんて理由で負わなくてもいい傷をつけられてしまうくらいなら、自分が。 「御幸くんは、私と、付き合いたい、ですか」 凪沙は顔を真っ赤にしながら、たどたどしくそんなことを言う。ロボットのように片言のまま、彼女もまた震える手でボールを拾い集めて、一つ一つ丁寧に籠に押し込んでいる。 「トラブル──解決のため、じゃな、くて、?」 「違う」 「じゃあ、」 震える声、怯えとも歓喜ともとれる、吹けば崩れ落ちそうな不安定な表情。信じられないのも無理はない。御幸だって、驚いているのだから。こんな風に告白すること自体が、想定外。自分の中から歯止めの利かない激情がうっかり飛び出してこなければ、一生告げることのなかったはずの一言。それを引き出せそうと、凪沙の目が乞うている。彼女は決して馬鹿じゃない。理解しているはずだ。御幸が今、何を、言いたかったのか。何を言おうと、言葉を詰まらせているのか。なのに彼女は、どうしても言わせたいらしい。 たった一言告げるまでに、床に散らばったボールは全て籠の中に納まってしまった。どれほどの時間と沈黙、そして凪沙からの希う視線を浴びただろう。冷房のせいでカラカラになった喉は、ようやっとそれを絞り出した。 「天城が好きだから、付き合って欲しい」 言ってしまえば、不思議と照れは生まれなかった。そうだ、ずっと。本当はずっと。彼女にそう言いたかったはずなのだ。あれこれと言い訳をして逃げ出して、物分かりのいいふりをしてずっと、降り積もっていた想いに背を向けていた。それが凪沙が他の誰かに手出しされると分かるや否や、身勝手に怒りを抱き、嫉妬以上の激情が御幸を突き動かした。こんな時期に、こんな状況下で、主将がマネージャーに告白するなんて。最悪だ。何もかもタイミングが悪すぎる。それも、好きな人がいないと豪語して、好きでもない奴に好かれて困っていると相談してきた相手にこんなことを言うなんて。どうかしてる。全くもって、どうかしてるのだ。 それでも、御幸は付き合う相手が誰でもいい、などとは思わない。『ちょうどいい』、『俺でもいけそう』、などとくそくらえだ。天城凪沙だから。馬鹿みたいに自己犠牲が過ぎる彼女だから。誰に対しても物怖じしない、強かな彼女だから。誰よりも先に“次”を見据えた彼女だから。 「ふ──不束者ですが、何卒よろしくお願いします……」 「え、マジで?」 だが、予想外にも色好い返事が返ってきて御幸は思わず問い返した。これは数か月後に判明することだが、凪沙は御幸に対する好意はなかったのものの、先輩の告白とは違い、御幸の拙い告白にあっさりしっかりときめいてしまったのだという。だが、そんなことは露とも知らない御幸にとっては寝耳に水レベルの衝撃だった。よくて、『御幸くんとなら友達からでも』ぐらいの期待しかしていなかったのに。 そりゃあ、『ほとんど話したことがない』という先輩よりはよっぽど、御幸は凪沙と親しいつもりだ。ただ、凪沙は同学年とは比較的誰とでも話すし、仲がいい。あそこまで言ってなんだが、自分でいいのかという疑問が浮かんできてしまう。しかし、耳まで赤らめた凪沙が、無言でコクコクと頷く姿を見て、終わりよければすべてよしと、御幸はあれこれと難しいことを考えるのを止めた。 ひとまず、凪沙が後生大事に抱える重たげなボール籠に手を伸ばした。今度は、二人で一緒に、運ぶために。 *** 「相手が相手なので正直に言えなかったんですけど、私、実は御幸くんとお付き合いしていますので先輩とはお付き合いできないですお返事遅くなってほんとすみません」 「やー、すみません。こういうの言わない方がいいかなって思ってたんすけど」 後日、凪沙は告白してきたという先輩の呼び出しに御幸と共に応じ、中々切れ味の鋭い断り文句で御幸の思惑通りバッサリと先輩を振ったのだった。御幸は反則じゃね、と肩を落とす先輩に『時期が時期なので誰にも言わないでください』と釘刺すあたり、凪沙はできたマネージャーだと感心した。幸い諦めの悪い先輩も、ここまで言われれば事情は汲んでくれたようで、本件は他言無用ということに落ち着いた。何分、新主将とマネージャーが付き合ってる等、チームを率いる立場として些か沽券にかかわる。 そうして、思いがけず飛び出した一言が功を奏し、御幸は一年以上片思いしてきた天城凪沙と付き合うことになった。とはいえ、浮かれ騒ぐ暇などなく、オフシーズンまでは互いに部活優先ということで話はついた。お互いの優先事項は承知の上。甲子園の切符を手にするまでは清く、真面目に、そして誰にもバレないよう密かな交際関係を続けようと、二人はその日密かに小指を結んだ。事実を知るのは自分たち以外には凪沙に告白してきた先輩だけ。先輩だって決して悪い人ではない。三年間も青道で野球を続けてきた人に悪い人がいるわけないもんね、という凪沙の意見に概ね同意見だった御幸は、ひとまず物分かりのいい恋人と先輩に感謝したのだった。 (告白騒動のお話/2年夏) |