その日、前園健太は見てはいけないものを見てしまった。 眼前に広がる光景は衝撃的なもので、海馬にはしっかりと刻みつけられてしまった。その日から一日、三日、一週間と経過して尚、記憶が薄れることはなく。もやもや、もやもやと、毒素のように蝕んでいくそれを、彼は一人腹の中にため込んでいた。何故ならその光景を、誰にも話すことができなかったからだ。王様の耳はロバの耳だと、誰にも告げられずに穴を掘った童話の主人公の気持ちが痛いほど分かるほどに、前園は頭を抱えていた。誰かに言いたい。せめてどうしたらいいか相談したい。けれど、できない。だけど、一人で抱えておくにはあまりに辛く。しかし、けれど、だけど、そんな言葉がぐるぐると脳裏を駆け巡り、学業が手につかないほどだった。 唯一幸運だったのは、既に野球部を引退した身だったことだろうか。おかげでこの悩みを部に、何より練習に持ち込むことは避けられた。それだけは不幸中の幸いというべきか、これが現役時代だったらベンチからも外されかねないところだった。しかし──。 「ゾノ、お前ホントに大丈夫かあ?」 「倉持……」 一人昼食時にコンビニで購入したおにぎりを齧っているところ、倉持がやってきた。ここ一週間、野球部員といるとうっかり口を滑らせてしまいそうで、頑なに集まらないように努めていた。そんな前園に対し、誰もが不審に思うのは時間の問題だった。最初こそ彼女でもできたのかと囃されていたが、人一人でも殺してきたのかとばかりの顔で沈鬱とした前園の顔に、それはないなと麻生が判定。故にこうして部を代表して倉持が事情聴取に来たわけだ。前園だって、隠し事が不得手な自負はある。こうして何かしら勘付かれるだろうとは思っていた。 「『王様の耳はロバの耳』や言えたら、どんだけ楽なんか思うとったとこや……」 「んだそりゃ」 そう言いつつ、隣のベンチに腰を下ろす倉持。思いつめたその横顔は、本当に人一人殺してしまった罪悪感に悩む殺人犯のようにしか見えなかった。同じ甲子園の土を踏んだチームメイトとして、友人として、力になりたいと思ったのは倉持だけではない。ただ、俺が聞こうか、と名乗り上げた御幸は全員が全員から却下されていたのは、無理もない話だったのだが。 「御幸か……」 「ヒャハハッ、来させるわけねーだろ。あいつは前科あるからな」 何せ同じように迷い悩む渡辺とトラブルを起こして前園とぶつかって、まだ一年しか経過していないのだ。よくまあ『俺が』なんて言えたものだと、倉持も呆れた。結局お前はすっこんでろと今度は倉持が代表してきたわけだ。 「御幸……」 「なんだよ。御幸関連かぁ?」 やたら御幸というワードに反応する前園に、からからと笑いながら倉持は何でもないように尋ねる。すると、ますます前園はベンチに座ったまま項垂れるので、御幸を派遣しなくてよかったと倉持は心底安堵した。 前園は悩んだ。言ってしまおうか、黙りこくるか。けれど、ここまで仲間たちにバレているのだから、思い切っていってしまおうか。ちらりと倉持を見る。見た目はヤンキーだが、義に厚い男である。口も軽いとは思えないし、自分よりはずっとうまく立ち回れるかもしれない。何より、この爆弾を一人で抱えるなんて不可能だ。これが川上や麻生、関あたりだったら前園はその言葉を呑み込んだかもしれない。だが、倉持なら。この男ならと、前園は一週間ため込んだその爆弾を爆発させた。 「倉持……お前、浮気現場を目撃したらどないする……?」 「──あ?」 倉持の声は二トーンぐらいがくっと下がった。何故ならそのワード一つで、前園が何を抱えていたのか即座に理解してしまったからだ。『浮気現場』、そして『御幸』にも反応を見せた前園。誰が何をしているかなど、推理するまでもない。 「おま、マジか」 「マジやからこんななっとんねん……」 「だってお前、嘘だろ。御幸が?」 御幸一也には恋人がいる。一年ほど付き合った恋人とは、少なくとも倉持の目から見れば上手くいっているように思えた。どこかしこでイチャついてるようなタイプではなかったが、部活を引退してからは、よくブラウジングルームやら食堂やらで見かけるようになった。何より、御幸はあれで恋人である天城凪沙にベタ惚れのはずだ。なんたって一年もの間、片思いした上で自ら告白して凪沙と付き合い始めたのだから。 その御幸が、浮気。冗談か見間違いではないかと思うのは、当然と言えば当然。確かに腹立たしく、どこか掴みどころのない男ではある。部の為ならと平気で嘘を吐くし、更にはあれだけモテるのだ。恋人など選び放題の身分であることも分かる。だが、そんなあれこれを差し引きしても、御幸は凪沙に対してだけは誠実であった。決して浮気をするような奴ではない。もし仮に──彼女の言うように絶対的な未来がないのだとしても、御幸は二股なんて器用な振る舞いができるタイプではないはずだ。だが、勝利に貪欲なチームメイトの姿は知っていても、私生活の御幸一也まで知り尽くしているわけではない。それこそ、『絶対』はありえないのだが……。 だが、前園はかぶりを振ってから放たれた一言は、倉持の意識を完膚なきまでに吹き飛ばした。 「ちゃうねん。御幸の方やない」 「……いや、ゾノ。流石にそれは、お前」 「せやったらコレは何なんやッ!!」 そう言いながら、前園は鼓膜を震わす怒号を上げながらスマホを取り出す。そうして倉持の眼前に突き付けられたその画像に、倉持は開いた口が塞がらなかった。 スマホには、二人の男女が映し出されている。背後からその姿を納めたのだろう、二人の手は固く結ばれている。男を見上げて笑うその横顔は、間違いなく天城凪沙だ。その横にいる男の顔ははっきり写っていない。だが間違いなく『男』であるのはその身長差と体格差で一目瞭然。だが、その男は間違いなく御幸一也ではない。どこのバンドマンなのか、黒い長髪をポニーテールにして、ギターだかベースのケースを肩に掛けている。ほんの少し写っている横顔は少なくとも眼鏡はかけておらず、耳には痛々しいほどにピアスが開けられている。 「御幸……では、ねえか」 御幸じゃない。だが、凪沙は満面の笑みでその男と手を繋いでいる。それでも、凪沙の浮気など御幸以上に信じがたい。あの天城凪沙が、浮気。あの正直者が服着て歩いている少女が、浮気だなんて。だが、百聞は一見に如かずという言葉が、この写真を如実に語っている。 「いやーほら、兄貴とか……」 「あいつは姉しかおらん」 「その姉貴が──って、流石にねえか」 「このガタイはどう見ても男やろ」 「……父親とか、いとことか」 「お前、母親や従兄弟と手ェ繋いで出かけるんか?」 前園の鋭い言葉に、倉持は答えられなかった。どちらかが五歳児だったらまだしも、高校三年生にもなってそれはない。家族でもなく、恋人の御幸でもない男と手を繋いで歩く真っ当な理由を、黙ったまま考えても思い浮かぶことはなく。なるほど前園はこれを抱えていたのかと、倉持は納得する。 「御幸に言うた方がええんか、それとも天城に忠告した方がええんか、何も言わず見守っとった方がええんか、分からんなってなあ……」 「あー……まあ、付き合い方は人それぞれだろ」 「やっぱ黙っとった方がええんか? それがあいつらの為なんか?」 「知るかよ。けど、こういうのは第三者が口出した方が揉めるだろ」 「そうなんか?」 「……知らねーけど」 倉持だって恋愛上級者ではないのだ、こういった問題に対するセオリーなど知るわけがない。しかし、交際関係はどうあっても二人だけの問題。写真を見る限り浮気相手は顔見知りではなさそうだし──これが顔見知りだったら話は別だっただろうが──、二人の問題は二人で解決すべきだと言うのが倉持の持論だった。 「天城は天城で御幸に不満があったんだろ」 「そうかあ……まあ、あの御幸やしな……」 「案外、とっくに別れてるかもしれねーしな」 「それなら浮気ではないんか……」 ここ最近の御幸を見る限りではいつも通りだったが、負傷を隠していたように普段通りを振る舞っているだけとも限らない。御幸一也は確かに野球センスは飛び抜けているだろうしモテはするだろうが、恋人として優秀かどうかは判断しかねる。繊細な乙女心など察せるとは思えないし、一年以上トラブルもなく平和に過ごせていたのは凪沙の大らかさあってのことだと倉持は睨んでいる。何より、これから先、プロの道を進む男は決して『普通』の人生は送れない。そういった将来に嫌気が差したのかもしれない。しかし、全ては推論の域を出ていないし、証拠写真を見た今でも正直信じがたい。二人のトラブルが余波を生むようであれば、フォローしてやれればいいだろう。 「俺、この先どんな顔してあいつと話せばええんや……」 「あー……あいつもあいつで鋭いからな。バレそうなら避けとけ」 「天城も御幸もクラス違ってよかったわ……」 「──え? 私ら前園くんに何かした?」 背後から聞こえる、耳馴染むその声に前園も倉持も振り向きざまにベンチから転げ落ちてしまった。ベンチの背後には、紙パックのジュースを手にした天城凪沙その人が立っていた。その隣には欠伸を噛み殺している御幸もいる。最悪だ。考えうる限り尤も最悪な状況で鉢合ってしまった。しかも──。 「あ、なんか落ちたよ」 ベンチから転げ落ちた際に取り落とした前園のスマホを、よりによって凪沙が拾い上げる。当然画面には浮気現場を激写したシーンがはっきりと写っている訳で。さあっと背筋が冷える二人を前に、凪沙も御幸も画面に広がる写真に目を落として、あーあ、と呟いた。 「マジかよ……」 「まさか見られてたとは思わなかったなあ」 「だから嫌だったんだよ……」 「え? なあに? 男に二言は?」 「……ない、です」 二人はスマホの画面が見えているはずだ。だというのに、御幸も凪沙もいつも通り会話をしている。なんだこれは。何が見えているのか。混乱極めている倉持と前園を見て、二人して首を傾げる。 「どうしたの、二人とも」 「なんだよお前ら──あー、そういうことか!」 もたついている間に、御幸は全てを察したらしい。じゅこー、と紙パックがべっこり凹むほどジュースを啜っている凪沙はこてんと首を傾げた。 「どゆこと?」 「ゾノ、お前が浮気したと思ってんぞ」 「でぇっ!?」 にやにや笑う御幸が確信をついた。だが、凪沙は背後から刺されたとばかりの衝撃を受けており、咥えていたジュースがころんと転がった。中身は入っていなかったのだろう、紙パックを拾いながら心外とばかりに凪沙は目を瞬く。 「いやいや前園くん! どこ見てんのさ!」 「ど、どこて、お前、」 「写ってるの御幸くんだよっ!?」 「そらこんな写真──は?」 写ってるのは御幸。凪沙から差し出されたスマホを、思わず受け取ることなく倉持と二人で覗き込んでしまう。足し化に顔ははっきり写っていないが、髪も長くて、黒いし、ピアスもしてる、眼鏡もしてない。顔を上げて御幸を見る。髪は茶髪で短く、当然ピアスホールもないし、眼鏡をしている。 「「……?」」 「ちょっ……私の名誉の為にも、あの写真見せていい?」 「しゃーねえなあ」 未だ理解が追いつかない二人を前に、凪沙は大慌てでスマホを取り出して何らかの画像を倉持と前園に突き付けた。そこには、先ほど前園のスマホに収められていた男の正面から見た写真があった。確かに、顔がはっきりと写っているのだが、化粧をしているのか、それとも眼鏡をかけていないからか、写真の人物と御幸がどうにも一致しない。 「「……?」」 「嘘でしょ二人とも……」 「……まあ、ある意味成功っちゃ成功なんじゃね?」 謎のバンドマン(仮)を御幸だと言い張る凪沙の言葉が飲み込めない前園と倉持に、御幸と凪沙は事の経緯を話し始めた。 始まりは些細なきっかけ。対戦可能な野球ゲームで遊んでいた二人が、『負けた方が勝った方の言うことを聞く』という実に可愛らしい賭けをして遊んでいた時のこと。賭けを持ちかけたのは御幸だというのに、結果を見てみれば御幸のぼろ負けだった。 『御幸くん、ゲームすら弱いのかあ』 『すらってどういう意味だお前』 そんな中、じゃあ何をしてもらおうかと凪沙が考えてから口にしたのが、『一日眼鏡なしで過ごして』という謎の要求。眼鏡オフが珍しいらしい凪沙は事あるごとに眼鏡を取れコンタクトをしろと言っては御幸はそれを跳ね除けてきたので、いい機会だと思ったのだ。 男に二言はなし、ただ学校では気恥ずかしいのでデートの時がいいという御幸の意見を呑んで一週間前に駅前で買い物デートをすることになった。ただ、出かける前にはたと気付く。ドラフト会議を経た御幸の顔や知名度は数か月前とは比べ物にならないぐらい飛躍した。顔で食っていくわけじゃないと御幸は言うが、そうは言っても球団がどういう方針なのかは分からない。あまり連れ回すのは得策ではないと考えたその時、彼女の姉から天啓を得たのだ。 『じゃあ変装させたら?』 『それだ!』 というわけで、御幸は一週間前に凪沙の家に連れ込まれた。彼女の姉は何を生業としているのか、バンドマンの衣装やらウィッグやら化粧品を持ち込んで御幸をいかにも『付き合ったらだめそうなイケメンバンドマン』に仕立て上げたのだ。何故こんな衣装を持っているのか、何故こんなに化粧が上手いのか、彼女は御幸の質問に対して、満面の笑みを浮かべるだけで答えなかった。 『すごい……顔は御幸くんなのに、別人に見える……!』 『顔はイケメンだし、あんま弄りたくなくてさ。いやー、やっぱ私の思った通り、あんた眼鏡ない方がいいよ』 『いやいや……一日コンタクトは結構大変で……』 髪型や髪色、服を変えるだけで人はこんなにも印象が変わるのか、と天城姉妹は驚いた。御幸からするとちょっと眉を整えられて鼻筋がスッキリしたようなだけに思えるので、別人と言うほどかと不思議に思っていた。ただ、御幸の感覚がボケているだけということが、倉持と前園の反応を見てようやく思い知った。 「え〜……そんな違うか?」 「別人やろ!! 髪どうしたんやお前!!」 「ウィッグだってよ」 「ピアスは?」 「ノンホールピアスだよ。アクセサリー一つで雰囲気出るよねえ」 「一つなんてレベルじゃねえだろコレは……」 そうして天城姉妹に好き勝手弄りまわされた御幸一也(バンドマンver)は姉妹に散々激写された挙句街に繰り出した。変装の甲斐あって誰に声をかけられることもなく、その日はある程度平和にデートを過ごしたのだった。なお、凪沙のテンションはここ数か月で一番高かったので、まあいいかと思う程度には御幸は恋人にベタ惚れであった。 「ひどいよ前園くん! 浮気なんかするわけないじゃん!」 「分からんわこんなん見せられて! 俺がどんな思いで一週間過ごした思とるんや!!」 「いやいや顔見れば分かるじゃん、御幸一也ほぼそのまんまだよ!」 「いやいや分からんわ! ちょおその写真寄越せ! 他の奴にも確認したる!」 「いいよ! 私もさっちんたちに聞いてみるよ!」 「ちょっ」 売り言葉に買い言葉。そんなわけで、御幸一也(バンドマンver)は前園と凪沙の手によって野球部全員に広められるはめになった。そうして十数年後、とある筋から漏れ出したその写真は黒歴史としてメディアに報じられることになろうとは、今は誰も知る由はなかったのだ。 (とんでもない勘違いをされるお話/3年秋) |