御幸一也と前に進む

 二年生の夏、あと一つというところで青道は──負けた。

 あれほど強力な打線があっても、どれだけ投手たちが踏ん張っても、あんなに強固な守備があっても──負けた。負けた。負けた負けた!! 惜しかった、あと一つだったのに。そんなの冗談みたいな慰み、一体何の役に立つだろう。結果は一つだけ。稲実に負けた青道の夏は終わった。尊敬すべき先輩たちの高校最後の野球が、終わってしまった。終わらせて、しまった。まるで全てを失ったかのような気分で、チームメイトもマネージャーも揃ってスタンドで泣き崩れた時のあの光景を、私は一生忘れない。

 その夜の食堂は、祝勝会用の料理が皮肉にも選手たちを出迎えた。でも、彼らは料理には一切手を付けずに啜り泣いていた。ずっと、ずっと。そんな悲痛な声は、此処二階のスタッフルームにいても聞こえてくるのだから、彼らが失ってしまったものの大きさは計り知れない。だからこそ私はこの部屋に居座って、ビデオ班からデータを受け取り、稲実戦の投球を九分割スタイルのスコアシートに書き起こしていた。マネージャーなら、選手と一緒に涙を流すのが仕事なのだろうか。そう考えたが、泣いても夏は帰ってこないし、野球部には夏が終わっても秋がある。青道よりも早くに破れた選手たちは、今尚練習に精を出している。そう思えば、選手でも何でもない私がただ泣き崩れている時間はあまりに勿体ない!

『天城、気持ちは分かるが……』

『そうよ、何も今日やらなくったって──』

 何も急ぐ必要はない、と監督も高島先生も言った。でも、私は引けなかった。今思えばじっとしていられなかった、というのが一番の理由かもしれない。何もしなければ、きっと私はまた泣いてしまう。彼らの声を聞いているだけでも目の奥がじわじわと熱くなる。でも、私が悔しがったって選手たちは勝てないんだから。だから私は、私にできることを、今。

『私はマネージャーです。この部を支えるのが仕事です。泣いてる暇があるなら、一分一秒でもこの部の為になることがしたいんです』

『天城さん……』

『今日の今日で選手たちに切り替えろとは言えません。だったらなおのこと、私が代わりに切り替えなきゃ』

 そんな無理を押し切って、お通夜以上の重々しい空気の中を抜け出して一人スタッフルームに籠り、モニター内の成宮くんのピッチングを凝視する。

 マネージャーの中で徒歩で帰れる距離に家があるのは私だけ。つまりどれだけ遅くなっても家には帰れるし、明日も此処に来れる。一応オフだとは言われてるけど、どうせ誰かしらは練習に来るに決まってる。時間は決して止まってくれない。誰か一人でも先に、前に進まなければ置いて行かれるのは自分たち。でも、泣き崩れる彼らにそんなことを言えるほど私も鬼じゃない。だから代わりに、私が。少しでも彼らの為に、できることを。

 結局その日は寝落ち寸前まで投球スコアを書き殴っており、随分帰りが遅くなってしまった。普段部員の誰かと一緒に帰ってるんだけど、今日は流石に送らせられないと、なんと監督と一緒に家に帰ったのだった。監督は、意外にも私の歩幅を合わせてくれる紳士だったことをここに記しておこう。



***



 親に苦言を呈されるほど夜遅くに帰宅した私は──頭を下げる強面の監督のおかげで何とか事なきを得たが──、次の日普通に寝坊した。夏休みだし、オフだし、誰にも怒られることないからいいけどさ。にしても習慣って怖いと思いながら、六時過ぎを指し示す時計を見てしみじみした。

 身支度を整えてゆっくり学校へ向かい、寮の方へ向かう。時間は七時半。この時間帯は朝食の時間で、いつもなら聞こえてくるはずの笑い声や雑談は食堂からは、嗚咽交じりの声が断続的に響くだけ。今尚目頭が熱くなるのをぐっと堪えて、私は誰にも見つからないようにスタッフルームへ向かう。昨日は寝落ちしかけたので、監督に許可取ってビデオもスコアシートもそのまま放置していた。スタッフルームにはいつも高島先生や監督、或いは部長がいるのに今日は誰もいない。鍵は開いてるので先生方の誰かしらは来てるんだろうけど……勝手に入って大丈夫かな……まあいいか。私は私の、仕事を全うしよう。

 それから一時間ほど経っただろうか。

「んー……!!」

 ようやく昨日の試合分は全て書き切った。眉間を揉みながら、ぐっと伸びをする。ひとまず形にはなったけど、ボール球の球種はちょっと自信ない。この部屋、テレビはあるけど出力用ケーブルがないので、どうしても撮影媒体で映像を確認する必要があった。ただ、当然画面は小さいので非常にチェックが難しい。こんなことなら家でやればよかった、と自分の効率の悪さに辟易する。食堂が空けば文句ないんだけど、流石に泣き崩れる選手たちの横で負け試合を流すわけにはいかないし、かといってケーブル持ってくためにゴソゴソ動き回るのも気が引ける。

 まあいいや。まだ九時前だし、時間は目一杯ある。さてもう一巡、と色ペンを持ち替えたその時だった。突如スタッフルームのドアがガラッと開いたのは。

「!?」

「天城?」

 そこにいたのは御幸くんだった。やばい、と私は咄嗟ににビデオを止める。御幸くんはいつものシャツとジャージ姿で、私のことをまるで幽霊でも見るような目で見ている。

「お、おはよう御幸くん。どうしたの? 今日、オフだよね?」

「それはこっちのセリフで──お前、これ」

「わっ、ちょっと!」

 御幸くんはずかずかとスタッフルームに入って来て、テーブルの上に広げられたスコアシートを手に取った。それから一時停止されたビデオと、散らばった色ペンに目を落とす。

「昨日の今日で、もう投球スコアつけてんの?」

「う、うん……」

 切り替え早すぎだろって、思うよねそりゃ。私だってそう思う。非難されたら、流石に凹む。だけど、謝らない。それが自分の役目だと、私は監督に告げたんだから。膝の上で拳を握り、気を悪くしないよう言葉を選びながら顔を上げる──と。



「──ほんとにいるんだな。俺と同じこと、考えてる奴」



 御幸くんは、笑ってた。昨日、涙を流して赤らんだ目元をそのままに、力なく、でもどこか嬉しそうに口元を緩めていた。驚いた。御幸くんはグラウンドだろうがどこだろうがにやにや笑ってる印象があるけど、こんな弱弱しい笑顔は初めてだった。おかげでびっくりして、何言おうとしたか全部忘れてしまった。

「昨日さっさといなくなったのは、これのため?」

「う、うん。食堂じゃ、流石にね」

「で、今日も来た、と」

「昨日は疲れて、八回裏で寝落ちしかけたから……」

「え、昨日誰も送ってないだろ。大丈夫だったか?」

「それは平気。監督が送ってくれたから」

「マジ?」

「マジマジ。監督の雑談、面白くてついつい聞き入っちゃった」

 帰り際の監督は、昨今の略語の横行についてお嘆きなさっていた。流石現国教師だ。そう告げれば御幸くんはますます楽しそうに笑った。笑いのツボは水たまりと同レベルに浅い御幸くんは、本当に下らないことでよく笑ってくれる。昨日の今日だというのに、彼の笑顔に陰りは一切ない。

「と、ところで御幸くん、何しに来たの?」

「あー、昨日の試合振り返りたいんだけど、食堂が中々空かなくてさ」

「ああ、決勝のね。録画は下でやってるしねえ……」

「だから下が空くまでビデオチェックするつもり」

「なるほど」

 それで私がこの部屋で一人黙々とビデオチェックしているのを、先生方の誰から聞いてきたのだろう。すごい人だな、と思う。強い人だな、とも。二年生の誰よりも先輩たちと一緒に過ごし、二年生の誰よりも長い間先輩たちと一緒にグラウンドに立ち、そして先輩たちと一緒に涙を流した御幸くんの悲しみは、試合に出ていない私とは比較しようがないというのに。しかし、彼はもう前を向いている。私と同じように、先に進もうとしている。それが嬉しかった。私の考えは決して、独りよがりなものでは無いと、肯定されたような気がしたから。

 ならば、もう御幸くんには気を使わない。使う必要は、ないだろう。私はローテーブルにビデオをセットして、投球スコアシートの束をまとめて御幸くんに手渡した。

「一通り書き終わってるけど、自信ないとこ多いから一緒にチェックしてくれると嬉しい」

「仕事はえーな。いつも助かる」

「いえいえ。マネージャーですから」

 そうして二人、来客用の豪華なソファに腰を下ろしてビデオを再生する。もっと攻められれば、もっと守れれば。反省箇所はごまんとある。そういった『悔しい』という感情だけじゃ、次には繋がらない。野球は情報戦だ。自らの過ちを振り返り、受け止めて、前に進まなければならない。それはとても、辛く厳しい戦いだ。けれど、一人、また一人とこうして立ち上がってくれる。私はそれを、信じている。

 だってほら、現に室内練習場からは、ちらほらバットのスイング音が聞こえてきて。

「(ほんと、みんなかっこいいなあ)」

 みんなの手助けができることを、私は今日ほど誇りに思ったことはなかった。
 
(Act1の23巻のお話/2年夏)

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