御幸一也の恋が積もる

 御幸一也が天城凪沙という存在を認識したのは、新入部員自己紹介の時だった。第一印象は、野球部員らしからぬ大人しそうな女の子。気弱そうというか、如何にも文系女子といった体。しかし。

「天城凪沙です! 家まで徒歩十分なので、朝から夜までめいっぱい働くつもりです! よろしくお願いします!」

 そんな、見かけによらぬ豪胆な自己紹介に、第二印象は、真面目でいい奴そう。けれど、ただ、それだけで。クラスも違う二人はさほど交流もなく、せいぜい顔と名前は一致する、ぐらいの間柄。ただの選手とマネージャー。練習の合間にたまに会話する程度の、それだけの関係──には、残念ながら終わらなかった。天城凪沙には他のマネージャーと違う交流が、一つあった。

 宣言通り、家が近いことを理由に他のマネージャーよりも遅くまで残ってあれこれ仕事に精を出していた凪沙は、夕食時によく食堂でPCと向き合って目を白黒させたり、補食の仕込みをしたり、ボールの修繕をしていた。吐くまで食わされる青道の食育に辟易した新入生たちが、いかにも人の良さそうな凪沙に助けを求めるのは、時間の問題だったといえよう。あれこれ相談しながら部員たちで金を出し合ってふりかけやら調味料やらを買い込めば、凪沙は一人どんぶり三杯の白飯を味付きおにぎりにしてくれた。結局腹に入れる量は変わらないが、味がつけば白米単体よりは遥かに食が進むし、何より米が圧縮されている分、食事時間が大幅に短縮できた。御幸世代は縦には伸びたが厚みの足りない細身の選手が多かっただけに、凪沙のサポートには誰もが両手を上げて喜んだ。他の仕事もあり、自身も疲れているだろうに、部員たちのために夜も遅くにせっせとおにぎりを握る彼女が天使に見えたのは何も一度や二度ではない。その見返りと言っては何だが、夜遅くまで作業をして帰り道が危ない凪沙を、一年生たちが代わる代わる送っていくことになった。どうせ食後もロードや素振りに行くのだからそのついでだと言えば、申し訳ないと渋る凪沙も承諾した。

 そうして他のマネージャーよりは接触する機会は増えたものの、かといって個人的に話をするほど他人に興味のない御幸は天城凪沙という存在に対して特別な思い入れはなかった。せいぜい、『送っていく時に気まずくなるのは面倒だな』、と苦い思いがあったぐらい。お世辞にも御幸は口数は多い方ではないし、野球ばかりに目を向けてきた自分に同じ年頃の女生徒との十分間の会話、というのは中々にハードルが高く、当分の間は当番が来ないで欲しいとさえ思っていた──が。

『丹波先輩? あの人読書好きだし、おすすめの本とか聞いてみたらどうかな?』

『えー……そういうベタな作戦に出ちゃう?』

『試合中ギクシャクするの嫌じゃない? プライベートから仲良くするのはアリだと思うけど』

『別にバッテリー組んでるからって友達ってわけでもねえしなあ』

『御幸くんそういうとこだよほんと』

 予想外にも、凪沙との会話はそこそこに弾んだ。無難に共通の話題である野球部員について話を振ってみれば、意外にも身になる会話が返ってきたのには驚いたものだ。おかげで下手に身構える必要はなくなるのに、そう時間は要さなかった。初めは好きな球団から野球のこと、部員のこと、授業のこと、果ては今日食べたお菓子のことまで、何でもない話題でも楽しそうに喋る凪沙は沈黙知らずだった。よくよく考えなくとも野球部のマネージャーをやるくらいだし、男子相手に緊張するタイプではないのだろう。聞けば、声がでかくて威圧感のある前園や、人相の悪すぎてクラスメイトに恐れられてる倉持や麻生相手でさえ、凪沙は会話に困ることはないのだという。羨ましい限りのコミュニケーション能力だ。

 大人しそう。真面目な奴。おにぎりの天使。話しやすい。会えば会うたびに印象が変わる奴だ、と思った。ただそれだけだったら、高校三年間はそれだけの相手で終わっていたはずだ。顔を合わせれば挨拶をして、月に一度ぐらいのペースで彼女を家まで送り届け、彼女の応援を背にグラウンドに向かう。それだけの、間柄。しかし、あの日をきっかけに御幸一也の人生はまさに転機を迎えることとなる。

 これがいいことだったのか悪いことだったのか──御幸は未だに、答えを得られていない。

「野球やってる御幸くんを見て、かっこいいなと思って……」

「……」

「あ、あの、好きです! 付き合ってください!」

 目の前には、名前もおぼろげな女の子。顔も知らない。会話したことさえあるのかどうか、さえも。

 突然だが、御幸一也は女生徒に人気がある。小学校時代など過半数の女子より背が低かったのに、バレンタインにはいつも好まないチョコレートやらクッキーやらを押し付けられた。中学後半から雨後のタケノコのように背が伸びた御幸の人気は加速する一方で、望まぬ形で手に入れた正捕手の座は更に御幸をモテ男に押し上げた。だからこうして呼び出されたのも一度や二度の話ではない。ただ、当然ながら御幸は恋人を作る気はさらさらなかった。呼び出しに応じる時間すら勿体ないと感じるのだ、恋人のために何かする時間など御幸にはない。ただでさえ一年で正捕手としての仕事を任され、癖の強い投手や先輩たちとうまくやっていかねばならないと頭を抱えているのに、その上恋人のお守りなど、冗談ではなかった。

 だから最初こそは律義に呼び出しに応じていた御幸も、GWを過ぎた頃には呼び出しを無視するようになった。女生徒からは非難轟々の嵐だったが、陰口なら慣れている。時たま陰では済まないレベルのいざこざに発展する時があったが、黙って頬でも差し出しておけばそれで事が収まると知ってから、御幸は可能な限り呼び出しは応じないようにしていた。だが、相手も馬鹿ではない。あの手この手で御幸を野球から引きはがそうと、みんな必死だった。今日の相手はなんと練習中にもかかわらず呼び出してきた猛者だ。一人の時ならどうとでも無視できるのに、人目があるとそうはいかない。

『御幸ィー!! 呼び出しやぞー!』

 という前園の空気を読まないデカい声に、チームメイトたちはこぞって茶化し始めるのだから、もう手が付けられない。御幸はこういう空気が嫌いだった。昔からそうだ。好きでもない子に思いを寄せられることの何が面白おかしいというのか、全くもって理解できない。こういう時に限って監督は別グラウンドにいるし、味方のいない御幸は渋々、本当に渋々練習を抜け出して呼び出しに応じた。これが続くようなら監督や部長に言って先手を打っとかないと、そんなことを考えながら目の前であれこれ理由を付けて思いを告げる女生徒を見る。髪はつやつやで、顔も可愛いし、スタイルもいい。きっと御幸以外に告白していたのなら、きっといい返事がもらえたに違いない。自分が倉持だったら、前園だったら、川上だったら、目の前の相手に何か思うところがあったのだろうか。御幸には分からない。今の御幸が思うことはただ一つ。

 野球の邪魔をするな──のみ。

「悪いけど、俺、そういう時間無いんで」

「分かってるの! 野球部大変だって──でも私、邪魔しないから!!」

 この返しも何度も聞いた。何故みな同じことを口を揃えたように言うのだろうか。実は裏で示し合わせてるのか、なんて馬鹿馬鹿しいことを考えながら、御幸は嘆息する。

「今」

「え?」

「今この時間、練習の邪魔されてるんだけど」

「──っ!!」

 思ったことを口に出せば、彼女は唇を噛んで恋が、愛が、そこまで大事なことなのか。御幸はこの瞬間声を大にして問いたい。世間の言うように愛だの恋だのがそこまで尊いものだとするのなら、御幸一也にとって最も優先すべきことを理解し、尊重してくれるのではないのか。

 野球がしたい。尊敬すべき先輩、互いに高め合うチームメイトに囲まれて。朝起きて飯を食べて野球して、勉強したらまた野球をして。ここには、シニア時代とはまるで違う、野球人生が広がっていた。まさに、野球をやる為だけの環境。親元を離れ、寮で暮らし、野球のためだけに吐いてでも練習に打ち込んだ。野球部にいる連中は大なり小なりみんなそうだ。野球がしたくて、ここにいる。野球に三年間捧げるために、ここにきた。そんな姿を見て好きになったというのなら、どうか放っておいて欲しい。ずっと見ているだけにして欲しい。夏はもう始まっている。野球以外に捧げる時間など、御幸一也には残されていないのだから──。

「……じゃあ、俺もう行くわ」

 わざわざグラウンドから教室まで呼び出されてしまったので、戻るには走っても数分はかかる。面倒なものだ、適当にグラウンドの隅にでもしてくれればいいものを。なんて恨み言をぶつける気は流石ないが、辟易した思いで彼女に背を向ける。まだ泣いている。だが、名前も覚えていない相手に罪悪感を覚えるほど御幸の優しさは安くはない。戻ったら散々からかわれると思うと気が重いが、いつまでもここに残るつもりもないので教室を出ようと扉を開けて驚いた。

 扉の外には、しゃがみ込んでスコアブックとにらめっこする天城凪沙がいたからだ。

「──天城?」

「あ、御幸くん」

 いつも見慣れたジャージ姿で、彼女はスコアブックを閉じて立ち上がった。この様子から、今来たばかり、とは思い難い。案の定、凪沙は遠慮がちに教室をチラ見している。

「何してんの、もしかして野次馬的な?」

「違うよ。スコアブック取りに来たの」

 ジョークに乗るつもりはないのか、スッパリと否定される。だが、その発言には引っかかりを覚えた。では、今凪沙が手にしているそれは何なのか、と。

「今持ってるじゃん」

「これは練習用。昨日の黒士館のスコアブック、授業中見てたから机にしまいっぱなしにしちゃってさ……貴子先輩から取って来いって怒られちった」

 それを聞いて教室のドアを見上げ、ここが彼女のクラスだったことを知る。そうして忘れ物を取りに来たところ御幸たちがいるので入るに入れず、教室の外で待っていた、そんなところだろうか。悪いことしたな、と思う反面、他人にこういった場面を見られたくなかった、という苦い思いもあり。ただ、チームメイトたちと違って凪沙は変に茶化すことなく、彼女は声を落とす。

「あのさ、早く戻った方がいいよ。監督、この後ノック始めるって」

「ゲッ、マジで!?」

「御幸くんの事情は分かってると思うけど……一応、私からもフォローしとくよ」

「悪い、助かる」

「うん。それじゃ」

 そう言って、堂々と教室に入っていく凪沙には、流石の御幸でもぎょっとした。中には、今尚すすり泣く女生徒がいるというのに。勿論マネージャーだって多忙の身、さっさと必要なものを取ってグラウンドに戻りたいのだろうが、にしたって怖いもの知らずにもほどがある。見知らぬ相手が泣こうが喚こうが御幸の知ったことではないが、流石に顔見知りのマネージャーがトラブルに巻き込まれる──それも自分のせいで──のは見過ごせない。大丈夫かあいつ、とばれないよう教室内の様子を見る。

 凪沙はまっすぐ窓際の後ろの方の席へ向かう。女生徒は未だ、教壇付近で泣き崩れている。凪沙はまるでそれが見えていないかのように恐らく自席と思われる机に手を突っ込み、青いスコアブックを引っ張り出した。そこで初めて、凪沙は泣いている女生徒を見やった。顔を覆って泣き崩れる彼女は、ただ嗚咽を漏らすだけ。凪沙は少しだけきゅっと眉を顰めた。

「──夜の二十三時から朝の五時」

「……っ、」

「青道野球部の、就寝・起床時刻。睡眠時間は、大体七時間ぐらいかな」

 突如凪沙は、スコアブックを片手にそんなことを言う。独り言のつもり──ではないはずだ。涙に目を腫らした女生徒も顔を上げ、いったい何の話だと訝しむ。だが、凪沙は小論文を読むのと同じぐらい淡々と述べる。

「一日二十四時間だから、差し引きして十七時間」

「……?」

「──あの人たちはさ、残り十七時間全部、野球したいって思ってるんだよね」

 そうして凪沙は、ふわりと優しげに微笑んだ。目線は窓の外──グラウンドがある、方角。この教室からは直接見ることはできないが、野球部員たちが駆け回っているグラウンドが、その視線の向こうにある。彼女はそれを見つめながら、まるで輝く宝石を眺めるような瞳で言う。

「すごいよねえ。私なら絶対無理。休憩したくなるし、たまには友達と遊びたいし、一日中寝て過ごしたい日もある。でも、あの人たちそんなこと思わないんだよ。三百六十五日、ずーっと野球のこと考えてる」

「そ──そんなわけ、ないでしょ。あんた、何言ってんの」

「それがびっくり、そんなことあるんだよねえ」

「おかしいわよ、そんなの! おかしい──異常でしょ!!」

 涙を浮かべたまま、女生徒は非難する。そう、彼女たちはそれを理解しない。まるで自分たちがイカれているかのように、物を言う。恋やら愛やらの方が尊く眩いものだと言わんばかりに、思いを告げてくるその図々しさが嫌いだった。だから理解されなくていいと思っていた。仲間たちだけが理解してくれているのなら、それでいいと。

 しかし凪沙は、御幸たちの熱意を何でもないように肯定した。

「あの人たちはさ、日本で一番野球がうまい高校生になるんだよ」

「──っ!!」

「それぐらい、ぶっ飛んでくれなきゃ!」

 女生徒は言葉を失っていた。凪沙の言葉を咀嚼しようとしているが、やはり理解できないのかエラーが起こっているような困惑が手に取るように分かる。何故なら、その困惑は奇しくも御幸にも伝播していたからだ。ニッと、悪戯好きな少年のように笑う凪沙の笑顔と声が、じわじわと胸の中に広がる。ただただ真っ直ぐに、御幸たちの努力と熱意を肯定するその柔らかな言葉が、浸透していく。雨に打たれた後に、湯船に浸かった時と同じだ。内側からゆっくりと、熱が戻っていくようなこの感覚──御幸は、何と形容していいか、知らない。



「──ま、にしたって御幸くんのあの発言はナイと思うけどね!」



 すると凪沙は一転、あっはっはと重たい空気を吹き飛ばすように言って、女生徒に近付いていく。彼女はとっくに涙は止まっており、呆然とした顔で凪沙を見ていたが、すぐにはっとした表情になった。

「だよね!? 何なのあいつ、何様なの!?」

「うんうん。練習大事なのも分かるけど、他人にはもっと誠意をもって接すべきだよねえ」

「だよねだよね!? 私おかしくないよね!?」

「おかしくないよ。応援してくれる人を大事にできないようじゃ、この先やっていけないのにね」

「ほんとだよね!! ちょっと顔がいいからってあのメガネ、乙女の純情踏みにじりやがって!!」

 しおらしく泣きじゃくっていたのはどこへやら、一転して御幸の悪口を言い出す彼女に驚いた。え、ついさっき告白されたのに何で貶されてるんだろう、と。まあ好かれるよりは貶された方がマシだろうか、にしたって変わり身が早くないか。そんなことを考えながら、告白した相手をボロクソ言う女生徒に、凪沙はうんうんと相槌を打ち、同調していた。え、なにこれ。どうなってんの。そう思っていた矢先だった。

「──でも、ほんとのほんとに、御幸くんが好きだったんだね」

「……うん」

 柔らかな、慰みの声。御幸たちに捧げた言葉と同じように、相手を肯定する。飾り立てない、シンプルな言葉。そんな凪沙の一言に再び女生徒の目には涙が滲み出る。凪沙は緩やかに口元を緩めて。

「難しいかもしれないけど、これからもあの人たちを応援してあげて欲しいな」

「……迷惑じゃ、ないかな」

「まさか。応援の力ってすごいんだよ。あの人たちだけじゃ野球は出来ても、試合には勝てない」

 ついには彼女の横に腰を下ろし、その頭を優しく撫で始める凪沙。ぼろぼろと、せき止めていた防波堤が決壊したように涙がこぼれ落ちていく女生徒の手をぎゅっと握る。

「一緒に、応援してくれると嬉しいな。あの人たちの夏が、一日でも長く続くように」

「うん──うん……ッ!!」

 わあっと声を上げて泣き出す女生徒を、凪沙は慈愛に満ちた表情で慰める。凪沙の肩口に顔を埋めて泣き出す彼女の後頭部を見て、初めて胸がつきんと痛んだ。

「(応援してくれる人を大事にできないようじゃ──か)」

 野球をやるのは自分たちだ。応援は、あくまで応援。しかし、そう割り切れる非情さは、流石の御幸も持ち合わせていない。倒れるほどの暑さの中、球場に足を運び、時には楽器で、声で、歌で、応援してくれる人たちをプレッシャーに感じる者も少なくないが、それを力に変えているプレイヤーはごまんといる。なるほど、そういう力に理解を示さず、自らで削いでいるようじゃ、自分もまだまだということかと独り言ち、御幸はようやくその場を後にする。随分と長い時間、部活をサボってしまった。どこで道草食っていたんだと監督から雷は落ちるだろうが、今日ばかりは甘んじて受けるとしよう。まさかこんな晴れやかな気持ちでグラウンドに戻ることになろうとは思わず、想定外の助け舟と叱咤激励を寄越したマネージャーに、御幸は本心から感謝を捧げたのだった。

 結局その日一日、御幸はボールに触れることすら許されず、ひたすら外周を強いられる羽目になったが、不思議と苦痛にも理不尽にも感じなかった。



***



 その日以来、御幸が呼び出される頻度がぐっと減った。流石に練習中に呼び出しがかかるのはプレイに差し障ると、監督に対して直訴したのだと、凪沙本人の口から聞いた。その後、御幸の与り知らぬところで練習中は呼び出しには応じさせるなというお達しが出ていたらしく、練習中はプレイに専念することができた。あの日ひたすら外周させられたのも、結果的に練習をサボった御幸に対して罰を与えなければ他の部員に示しがつかないから仕方なく、という情報をもたらしたのも、凪沙だった。

 また、しょっちゅうあった昼休みや休み時間の呼び出しも激減した。これは倉持たちから又聞きしたのだが、どうやら凪沙に慰められていた少女は、そこかしこで自分がどのようにして御幸一也にフラれたのか吹聴していたらしい。おかげで悪評もそこそこ立ったものの、『告白したら逆に好感度が激減する』という事実が広まったため、恋する少女たちはたちまち作戦変更を余儀なくされたのだという。それを復讐心から行ったのか、それとも別の意図があったのかどうかは、あの日涙を流した彼女しか知り及ぶところではなく。

「すごい。リアル風説の流布」

「事実なんだし意味ちがわね?」

 何はともあれよかったねえ、と全て丸く収まったことに本心から祝福した凪沙は、ボール籠を抱えて走り去っていく。それを、何の理由もなくぼんやりと眺めるようになったのは、いつからだっただろう。

 一人の野球部員としての在り方を肯定しながら、一プレイヤーとしての在り方を否定した天城凪沙が脳裏に蘇る。何を思って、何を考え、何を見て彼女があのような言葉を選んだのか、気になるようになった。彼女を知れば、それが分かるのだろうか。そうして、視界に入れば自然と彼女を目で追うようになった。最初は純粋な興味。疑問に対して解を求めるだけの、手段だったはず。なのにどうしてか。例えば、練習の合間の休憩時間、おにぎりの山を抱えてやってくる姿。例えば、夕食時に一人軍手をしてボールの修繕をする真剣な眼差し。例えば、ジャグを洗いながら他のマネージャーたちと談笑する声。例えば、暗い道を二人で歩く時にだけ見える、自分にだけ向けた笑顔。そういったあれこれが、疑問の解決をもたらすことはなく、ただただ御幸の中で積もって、増えていくのだ。まるで雪のようだと思った。一つ一つは触れれば溶けて消えるほど小さく儚いもののはずなのに、積もってしまえば存外長々とそこに留まる、雪。

「おはよう、御幸くん」

「はよ、天城」

「聞いた? 明日、雪降るかもって」

「らしいな。融雪剤撒いたりすんのかね」

「ご心配なく、もう散布済みだよ」

「おー、流石」

「貴重な練習時間ですから、一日だって無駄にさせないよ」

 そう言って、凪沙は安心したまえとばかりにニッと微笑んで見せたのだ。

 ──最初こそ御幸は、それを気に留めなかった。一時的なものだと、危機感すら抱かなかった。そうして気付けば春を過ぎ、夏に敗れ、秋を駆け抜け、冬が訪れてなお、何一つ消え往くことはなかった。嗚呼、これが本当に雪であるなら、早く溶けて消えて欲しい。積もるだけ積もってそこに居残り続けるなんて、勝手すぎる。どうすればいい。積もった雪で遊ぶほどの時間もなく、かといって振り続けるそれを除雪することも儘ならない。ただただ目の前に広がる豪雪地帯を持て余したまま、少年は今日も今日とて降りかかる雪に頭を悩ませた。

 地元と異なり、西東京は雪が積もれば春先まで残るという。

 春に溶けるだけマシだと、御幸一也は長々と白い息を吐き出した。

(夢主が気になり始めた話/1年春〜冬)


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