「──天城!」 二年、伊佐敷純の声は大きい。それこそ、グラウンドの端から端まで届くような肺活量から放たれる大音量は、気の弱い者は自分が呼ばれたわけでもないのに跳び上がるほど驚くものだ。だが、ともすれば部内でトップクラスに肝が据わってる凪沙は帰り支度をやめて顔を上げるだけなのだから、ベンチ入りしていない一年たちは尊敬の念を密かに抱いていた。 「はーい、ただいまぁ!」 そんな居酒屋の店員のような返事をして、凪沙は食堂に入ってきた伊佐敷の方へ向かう。伊佐敷は両手に大きな紙袋を持っており、入り口近くのテーブルにどすんと荷物を置いた。奇しくもそれは、食事中の御幸のすぐ横で、聞きたくなくとも二人の会話が耳に飛び込んでくるはめになった。 「これ、こないだ言ってた奴」 「えーっ!? ウソこれ、全巻!? いいんですか!?」 「姉貴が送りつけたんだよ。部屋にあっても邪魔だし、持ってけ」 「ありがとうございます! すごい楽しみにしてたんです!」 にこにこと楽しそうにはしゃぐ凪沙に、伊佐敷はおうと一声返す。その様子に、なんだなんだと彼の同級生たちが集まって紙袋を見る。ちらりと袋の中を見ると、古い絵柄の恋愛漫画と思しき本が、紙袋ぎっしり詰まっている。 「なにこれ、重──漫画?」 「そうなんです。前から読みたいなーって思ってた漫画、伊佐敷先輩の家にあるって聞いて」 「こんな名作、読まねえ方が人生損してるっつーの」 「ってわけで、お借りすることになったんです」 寝る前の楽しみができたと嬉しそうに微笑む凪沙、伊佐敷も機嫌がよさそうに鼻を鳴らす。そんな男の後頭部を、えいやとチョップする小湊。 「馬鹿じゃないの。純、仮にも女子にこんな重い物持って行かせる気?」 「小湊先輩、仮でもなんでもなく女子です私」 「ダンクできる奴を女子とは呼ばないから」 「あれはダンクじゃないですよ!!」 天城凪沙の飛び抜けた身体能力はほぼ全ての野球部員が知っている。マネージャーにしておくには勿体ないと、他の部員や先生方から小言を言われるたびに、部員たちは誇らしげな気分になるのもまた、凪沙の知る由はない。とはいえ、単行本にして五十冊ほど詰められたその紙袋は、男が持っても肩に響くほど重いようで。 「帰りは一年が送ってんだろ? なら、そいつに持たせりゃいいじゃねえか」 「いやいや、流石に荷物を持ってもらうわけには……」 「じゃあ俺が言ってやる。今日の当番誰だよ」 「ま、前園くんですけど……」 「ちょうどいーじゃねえか。力あり余ってんだから、こき使ってやれ」 おおいゾノ、と、ドでかい声が一閃し、食事中だった前園が弾けるように立ち上がってこっちに飛んで来る。先輩の頼みとあれば断れないのが後輩というものだ。 「ごめんね、前園くん……」 「ええって。いくらお前でも、こんなん持たせられんわ」 「私、みんなになんだと思われてるの?」 凪沙とて、重たいジャグやボール籠を抱えて駆けずり回っているのだから、多少は鍛えられてる自負はある。だが、あの伝説となった球技大会や体育祭を経て、どうにも凪沙は野球部員と遜色ない身体能力の持ち主だと思われがちである。あながち誇張表現でもないあたり──恐ろしいことに、五十メートル走や幅跳びといった一部の競技については二軍の部員ですら叶わぬ数値を叩き出している──、誰もが勿体ないと苦言する気持ちは、御幸も分からなくはない。 「もう帰るんか?」 「ううん。ご飯食べてからでいいよ」 「おお、そーするわ」 「消化に響くからね。ごゆっくり!」 わざわざ食事中に飛んでくるあたり、前園の人の好さと先輩への好感度が見て取れる。のしのしと食事の戻る大きな背中を尻目に、伊佐敷と凪沙は漫画談議に花を咲かす。 「ほんとここ解せねえわ。なーんで当て馬役をほっとくんだよ」 「『こんなにかっこよくて優しくて素敵な人』を袖にする! ってのが重要なんだと思いますよ」 「けどよお、ぜってえ主人公よりコイツのがヒロインを幸せにできるだろ」 「それ言ったらおしまいですよ、伊佐敷先輩」 「だろォ? こんな、他の女に目ェ向けるような奴のどこがいいんだか」 「でも、ヒロインだって当て馬役と主人公の間で揺れてたりしません?」 「それはお前、『複雑なオトメゴコロ』って奴だろ」 「オトコゴコロは揺れ動いちゃだめなんですか?」 「そういうわけじゃねーけど……なーんか誠実さに欠ける気ィすんだよな」 「不思議ですね。やってることは同じなのに」 熱を込めて語り合う二人。御幸も伊佐敷から恋愛漫画を押し付け──もとい借りたことはあるが、こんなに語り合うほど面白い漫画はあっただろうか、と白米片手に首を傾げてしまう。一方で、恋愛談議に花を咲かす二人を見た小湊は、へえ、と意外そうに笑みを深めた。 「お前ら、そんなに仲良かったっけ」 「伊佐敷先輩とは趣味と意見が合うんですよ」 「おんなじ漫画読んでんのに、クラスの奴とは全然意見合わねーんだよなあ」 「みんな主人公が一番! あの展開よかった! っていうとこに全く共感できなくて……」 「それそれ。俺の感性だけズレてんのかと思うわ」 何かを見て、他人と自らの意見を共有したいと思うのは、まっとうな欲求。それが他人と一致しているのなら、なおのこと楽しい。どうやら二人は今ドラマ化しているような流行りの物ではなく、御幸でも聞き覚えがある程度の昔の作品を好むようで、あのキャラはああだこうだと盛り上がっている。小湊もその漫画は知っていたのだろうか、じゃあ、と告げる。 「あの漫画で一番かっこいいと思うのは?」 「「主人公の親友ポジ」」 二人同時に答え、やっぱ軍曹ですよね、なんてけらけら笑い合っている。仲がいい。二人がこんなに気が合うとは知らなかった。焦りにも似た感情が生まれるが、御幸にはどうすることもできず、ただ目の前の白米を平らげる他ない。 「でも、ヒロインとはフラグ立たないんですよねえ」 「主人公の親友はヒロインの親友とくっつくって相場が決まってっしな」 「セオリーですよね。最近はそうでもないっぽいですが」 「たまにはヒロインに一途! って男気溢れるやつ読みてえわ」 「恋愛漫画って、どうしても波乱万丈になりがちですしね」 「解せねーわマジで。波乱する必要あるかぁ?」 「そりゃまあ、海賊が何の障害もなく海賊王になってもつまらないでしょうし……」 「百歩譲って付き合い出すまでに色々拗れんのは分かンだよ。なんで付き合い始めてからもつれさすんだ?」 「あー、ありがちですね」 「付き合って『ゴール』になんねえから、ずるずる話が広がりまくるっつーか、変に拗れるっつーか」 「そうはいっても、現実の恋愛だって付き合い=ゴールじゃないですしねぇ」 「だからって付き合ってる奴いんのに、他の奴に現抜かすことあるか?」 「さあー、隣の芝は青い的な──違いますかね?」 「どっちかっつーと、『ラーメン食ってる時に横でチャーハン食われると、そっちのが美味そうに見える』的な感じだろ」 「あー、うーん、なるほど?」 伊佐敷の例えは、分かるような、分からないような、だ。自分でラーメンを注文したのだから、責任もって平らげるべきでは、なんて話を聞きながら御幸は思う。二人の漫画談議に飽きたのか、気付けば小湊は食堂から立ち去っていた。二人はそれすら気付かぬまま、話にのめり込む。 「でもやっぱ、現実の恋愛ってそういうものじゃないですか?」 「なんだよ、お前。そういうのアリ派?」 「アリというか、もう仕方ないもの、って感じですね」 「仕方ねえことねえだろ。どう考えても浮気する奴がバカヤロなんだよ」 「時と場合によりますって。ホラ、大体の人ってみんな好き合って付き合うわけじゃないですか」 「そりゃまあ、大抵はな」 「なら『結婚』って、その気持ちがずっと続くことが前提ですよね?」 「まあ、永遠のアイとやらを誓う訳だしな」 「だったら、浮気だの離婚だのって法律に載らないと思うんですよ」 「……あー、そういうことか」 「そゆことです。好きだったけど、時と共に気持ちが離れる──人の気持ちは移ろいゆくもの、法律ですらそれを認めてる、って考えて然るべきじゃないですか?」 「お、おお……」 「だからこそ、『最後には愛を貫く姿を描く作品』が、流行るのかと」 どこか重みのある言葉は、誠実で正直な彼女らしからぬ──いや、ある意味彼女らしい、世の真理をついた言葉だった。にっこりと人のいい笑みを浮かべながら、そんなことをきっぱりと述べる凪沙に、伊佐敷も意外だったのか、少しばかり困惑しがちに頷く。 「じゃあお前、割と自由恋愛派?」 「いえいえまさか! 理想は波乱も万丈もない、堅実な恋愛が一番です!」 「……よく分かんねー奴だな、『人の気持ちは移ろう』んだろーが」 「自分の未来のことなんて、誰にも分からないですよね?」 「それでも、ラーメン一筋に生きる! って思うことはできンだろ」 「はい。だから、『理想』なんです」 ニッと微笑む凪沙に、伊佐敷はようやく「なるほどな」と一言呟いた。人は移ろうと彼女は言う。自分自身を含めて、未来に何が起こるか誰にも分からないと彼女は言う。だから未来の自分がどうなっているかは分からない。けれど──だからこそ、堅実な恋愛をしたいという『理想』を抱き、実際彼女はそのように努めるのだろう。なんとなく、そんな未来図が容易に想像できた。 彼女にはあまり、波乱も万丈も、似合わない。 「……けど、自分で言っててなんですけど、『堅実な恋愛』ってどういうことなんですかね?」 「あー、あれだ。あの、今度映画化する、柔道部の奴みたいな」 「なるほど! いいですよねぇ、ああいう、のんびり歩くような恋愛物」 「こういうのでいいんだよ、って奴だな」 そうやって、二人は再び恋愛漫画に花を咲かせることになった。柔道部──今度映画化──そんなつもりは微塵もないのに、そういった情報ばかりを拾ってインプットされていく自分の脳に嫌気が差す。のんびり歩くような、恋愛。『人は移ろう』と宣言する彼女の、理想。気にならないと言い切ることができない程度には、御幸の世界には雪が降り積もっていた。 しかし本当に仲がいい。寮には伊佐敷が好む恋愛漫画を読む部員が少ないからか、大いに盛り上がっている。二人の仲を勘繰っているわけではない。けれど、未来は誰にも──違う。そんなつもりはない。野球に目を向けるのだと、決めたではないか。だからこの想いに蓋をしたのだ。例え蓋が軋むほどの雪が積もったとしても、だ。 御幸はそんな腑抜けた思考を、ぬるくなった味噌汁と共に一気に飲み干す、と──。 「──そういう意味じゃ、御幸は『堅実な恋愛』には程遠いだろうな」 「確かに。御幸くんの恋人になる人は大変でしょうねえ」 味噌汁が逆流するかと思った。 「……な、何すか、いきなり」 「コイツ、馬鹿みたいにモテっからなあ」 「一年にしてもうファンがいますしね」 「すげーよな、アイドルのコンサートみてえなうちわ持ってやがんの」 「あれ、スタンドで見るたびに笑いそうになるんですよ」 動揺を悟らせないよう、戻ってきそうになる味噌汁を白米で無理やり流し込む御幸。そんな御幸を他所に、二人は思いの外真剣に討論を始めてしまう。喉を行ったり来たりする白米に謝れと、誰に言うでもない文句が腹の底に沈んだ。 「ここまでスペックモリモリだと、御幸くんが主人公の恋愛漫画があってもおかしくない気がしますね」 「御幸なあ……ビジュアルはいーけどよォ、ただの野球漫画にならねーか?」 「そこはもう、吹部のヒロインでも添えて何とか」 「もうあるじゃねえか。あいつもキャッチャーだろ」 「そういやそうでしたね。あの漫画あんま野球しないんで……」 「吹部やチアは鉄板だし、面白みねえよな」 「じゃあ逆の逆をついて、王道に『野球部』と『マネジ』とかどうですかね?」 「……あー? そういや野球部とマネージャー物って、意外とねえな」 「あれ、南ちゃんってマネジじゃないんですっけ」 「バッカヤロ、南ちゃんは体操部になンだよ」 そんなことを言い合う二人。そのマネージャーにあっさり落ちてしまっただけに、いつ踏み込まれるかヒヤヒヤして、食事の味がほとんど分からなくなる。そしてそれ以上に、 『──御幸くんの恋人になる人は大変でしょうねえ』 という、曲がりなりにも好きな相手からのド直球な一言はだいぶグサリと刺さった。そんなつもりはない。そんなつもりは断じてないのだが、それはそれとして、という奴だ。 「(ゾノ……早く飯食い終われって……!!)」 顔に似合わず人情に篤い彼は、未だどんぶりに慣れぬ同級生に代わって白米を胃に押し込めているところだった。結局前園が食事を終えるまでの数分間、御幸がどうだ恋愛がどうだと真剣に話し込む二人の会話に耳を挟むことになった御幸。ようやく前園と凪沙が大量の恋愛漫画を抱えて食堂を出るころには、どっと老け込んだような気分になった。 これを『波乱万丈』と呼ぶのか『堅実』と呼ぶのか御幸には分からない。だが、現実に凪沙の言うように『のんびり歩くような恋愛』などないのだと、彼女に教えてやりたいと思う気持ちを、御幸はおかずの回鍋肉と共に胃に流し込んだ。 (恋愛漫画談義するお話/1年冬) |