御幸一也はデートしたいG

 そんな訳で、多少の『予習』の甲斐あってか、初体験は成功した、部類に入る、と、思う。多分。天城も良かったって言ってたし。こうしてあっさり童貞を捨て去った俺は、セックスの破壊力に半ば感動を覚えていた。セックス、すげえ。想像以上だ。正直、一人で処理すんのと何が変わるんだよとか思ってた日が俺にもあった。井の中の蛙大海を知らずだ。そりゃ結果的に出すもん出してスッキリすんのは変わんねえけど、満足感? 充足感? ってのが段違いだ。心なしか身体も軽いし、血が全身を巡ってるのが分かる。オリンピック選手はパフォーマンス向上のために大会の前日にセックスする、なんて話はよく聞くが、その理由が分かるような気がした。

 いそいそと下着を身に着ける天城の顔を横から眺める。ついさっきまでの乱れっぷりが嘘のように、澄ました顔をしてる。邪魔するようにその頬を手の甲で撫ぜると、顔を赤らめながらくすぐったそうに笑う。それだけでこいつの華奢な肩を抱き潰したくなる衝動が襲ってくるのだから、自分の本能には驚かされる。こんな感覚、『予習』でもAVでも、語られてなかったのに。

「……やっぱごはん、あとにする?」

 着替える天城を凝視しすぎたのか、遠慮がちに尋ねられた。それはそれで魅力的なお誘いではあるが、俺の健康を気遣う天城の言葉を無碍にするのは憚られた。そりゃ、まだまだこっちとしては全然元気が有り余ってるわけだが──と、一瞬考えこむ。天秤は大きく震えたが、裁定は変わらなかった。

「いや、食う。腹、減ったしな」

「ん、そっか。じゃ、早く服着よ?」

「分かってる」

 そう言いつつ、視線はしっかり天城の着替えに吸い寄せられてしまう。仕方ねえだろ、そりゃ見るわ。好きな女の下着姿とか、いくらでも目に焼きつけてえわ。

「もー、せめて手は動かす! 風邪引くよ!」

 微動だにしない俺に、天城は顔を赤らめながら聞き分けの無い子どもを叱るように言う。俺が投げ捨てた服をぽいぽいとベッドに拾い上げ、自分はさっさと服を着こむ。あーあ、勿体ねえ。仕方ねえから俺もさっさと着替える。天城は身だしなみを整えると、静電気でふわふわ宙を漂う髪を手櫛で整える。そうして淹れてから随分と時間の経った湯呑に手を伸ばした。

「──お茶、ぬるくなってる」

 湯呑を一気に呷り、くすくすと忍び笑いする天城。あーもーそういう可愛いことしないで欲しいんですけど。自分の可愛さ気付いてねえのこいつ。何かいたたまれなくなって、俺の分の湯飲みに手を伸ばす。人肌程度にぬるまった緑茶が喉を伝い、どうしようもない熱を少しだけ鎮火するのに役立った。

 そうして飯の為、二人で一階へ向かう。

「御幸くんの手作り! すっごい楽しみ!」

「ハードル上げるのやめねえ? フツーのおかずなんですけど」

「あの御幸一也の手料理だよ! 目玉焼きでもプレミア付くって!」

「大袈裟な」

 取材などのインタビューで趣味を聞かれると──特にないと答えると体裁が悪いと言われるので──仕方なく『料理』と答えちゃいるが、こんなの昔からやってた習慣に過ぎない。調味料や具材、調理器具に並々ならぬこだわりがあるとかって訳でもないし、味や技術を追及しようとも思ってない。朝昼晩、仕事で忙しい親の代わりに作るだけ。スポーツをやる身なので三食チャーハンというわけにもいかねえし、レパートリーを増やした。ただそれだけの話。

 だがそんな俺の当たり前を、天城はすごいすごいとはしゃぐのだ。遊園地に来た子どもでも、こんなにテンション上がらないだろうに。後輩にすら『犬っぽい』と称されるのが、分かる気がする。

「おかずはたくさん作ってもらったし、ご飯は炊いたし、お吸い物はお雑煮の残りがあるから、それでいいかな」

「サンキュー。流石に汁物は持ってこれねえしな」

「だよね。あ、因みに御幸くん、アレルギーとかないよね?」

「ねえな」

「よかったー。うちのお雑煮、海鮮使うから。蟹とか、蛤とか」

「へー、珍しいな。もしかして親御さん、西日本の人?」

「あたり! よく分かったね!」

「TVでやってた。雑煮って地域差すげーんだってな」

「私も見たことある! あんこ入れたりするとこもあるよね」

 学校からの帰り道のような、穏やかな会話をしながらリビングに通される。広いリビングには四人掛けのテーブルとソファ、テレビなどの家具が並んでいる。実家に比べると、開放感のある広い家だと思う。ただ、俺には掃除がめんどくさそうに見えた。キッチンカウンターの向こうに見えるシンクや調理台も広く、これは純粋に羨ましい。すげえ、コンロが三口もある。

「座ってていいよ?」

「いやいや、そういう訳には」

「でもあっためるだけだし、食器の場所も分かんないでしょ?」

 そう言われてしまえば大人しくする他ない。TVでも見てて、と言われて仕方なくつけてチャンネルを回すも、特に興味の引かれる番組もない。これなら、きびきびとキッチンで動き回る天城を見てる方がよっぽど有意義だ。BGM代わりに歌番組をつけたままにし、天城を見つめる。

 俺が作ってきたおかずの入ったタッパーを開けては目をキラキラ輝かせてレンジでチンする。その間冷蔵庫から大鍋を出してきて火にかける。しばらくして海鮮のお吸い物の匂いが漂ってくる。美味そうだ。電気ケトルでお茶を入れ、カウンターに並べられるのを、俺がテーブルに運ぶ。カウンター越しに天城と目が合って、にこっと微笑まれた。……なんか、落ち着かない。

「あ、御幸くん。ご飯どんくらい食べる?」

「自分でやるわ。しゃもじどこ」

「炊飯器の横に刺さってるよ〜お好きにどうぞ〜」

 そう言いながらどんぶりを差し出される。カウンターには天城用なのか、どんぶりより二回りは小さい茶碗がちょこんと置かれている。なにこれ子ども用?

「ちっさ」

「普通の茶碗だよ」

 何が楽しいのか、天城はケラケラ笑ってる。変な奴と思いながら炊飯器をかぽっと開ける。いい匂い。普段通り、自分の分をどんぶりに盛り付ける。それから小さな茶碗を手に取って、しゃもじで米をよそう。……あれ、女子ってどんくらい食うんだろ。ついつい親父にやるのと同じ感覚で米をよそったが、茶碗にこんもり盛られたこれは、多分、多い、気がする。適当にしゃもじで減らしてみた。

「天城ー、こんくらい?」

「うん。十分だよ」

 茶碗に軽く盛られた米を見て、天城はこくんと頷いた。え、こんな量でいいのか。足りなくねえか。ダイエット? するほど太ってもないだろ。困惑する俺を他所に、レンジからタッパーの群れを引っ張り出す天城。お椀に海鮮雑煮をついで、お茶淹れて、へいおまちとばかりにカウンターがごちゃごちゃと物で埋まる。チンしたタッパーからおかずを取り分けるため、がちゃがちゃと皿を出し始める天城に思わずエッと声を出してしまった。

「そのまんまで良くね? 洗いもん増えるの面倒だし」

「いいの?」

「俺は気にしねえけど、見栄え大事にするタイプ?」

「んー、そうでもない。けど、人様のお料理だしさ」

「いーよそういうの。洗剤がもったいねえし」

「分かる。なるべくワンプレートで済ませたいよね」

 ではお言葉に甘えて、なんて言いながら天城は箸と大きな取り皿を二枚持ってカウンターから回ってきた。こいつのこういう効率的──というか、不必要に飾らない部分も、好ましく思う。好きというか気が合うというか、自分の生活スタイルと大きく乖離していない、という点に不思議な安心感を抱く。

 いくつものタッパーと、米と、雑煮とお茶がずらりとテーブルに並ぶ、二人で向かい合って座る。天城はウキウキした様子でパンッと手を合わせる。

「それじゃあ、いただきます!」

「いただき、ます」

 面と向かってこんなことを言うのは、少し気恥ずかしく感じる。でも、手を合わせて口に出してみれば、何てことはなく。だっせー、と苦々しく思いながら海鮮雑煮に口を付ける。おー、うまい。天城は目をきらきらさせながらおかずを頬張っている。

「おいしい! 彩りもいいね! 人参と大根、紅白でめでたい! これどうやって作ったの?」

「牛肉で巻いて、照り焼きにするだけ。簡単だろ?」

「へえー! これ、お弁当にいいかも──あ、こっちチャプチェ?」

「そー。簡単だし低カロリーだし、わりと好きでさ」

「うまあ……この甘辛さ、めっちゃいい……後でレシピ教えて……」

 天城は子どもみたいで無邪気に美味しい美味しい言いながら飯を食う。可愛い。天城も料理をする方なので、料理についてあれこれ語りながら食事をする。何とも新鮮な気分だった。普段部員たちといる時は目の前の飯に何が入ってるとか調理法がなんだとか話すことねえし、親父も口数多い方じゃなかった。作った料理を美味しいと喜んで食べる顔を見るのは、あまり、こう、経験がない。本当に、こいつといると色んな『初めて』を与えられる。嫌なわけじゃないが、どうにも慣れず、落ち着かない。

「しあわせー」

 そりゃ人に食わせるわけだし、その相手は仮にも彼女だし、多少は気を使ったとは思う。けど、親父に気取られないようなるべく普段作ってる物を持ってきたつもりだ。なのに天城はほくほくした顔で、そんなことを言う。ほんとに嬉しそうに、幸せそうに、朗らかな表情を浮かべるのだ。

「……お前の幸せ、安すぎねえ?」

「失礼な。幸せ上手と言ってほしいな」

「幸せ上手ときたか」

 うまいこと言う、と素直に感心した。天城に良く似合う言い回しだ。いつでも、どこでも、誰とだって、こいつは笑っている。どんな些細な出来事も一つ一つ丁寧に拾い上げて、胸に抱いて噛み締めるその姿勢は素直に尊敬できる。普段生きてて幸せが何かとか哲学的なこと考えたりしねえのに、何故か天城を見てると分かる気がしてくるから面白い。

 それから終始飯の話に花を咲かせ、気付けばタッパーは空っぽに。二人でご馳走様でしたと手を合わせる。いいよお別に、と引き留める声を無視して、俺は洗い物を始める。人んちで洗いもんとか初めてだ。洗剤もスポンジも、シンクの高さ一つとっても違和感しかない。それを見守る、天城の存在も、だが。

「作った本人に片付けさせるの、なんか違うと思うけどなあ」

「準備したのはお前じゃん」

「労力が違うよ労力がー……」

 ぶーぶー文句言う天城を無視して食器やタッパーを洗う。

「それに労力って言うなら」

「?」

「天城にはこれから、イロイロ頑張ってもらわなきゃだし?」

 含みを持たせて言えば、天城はぽっと顔を赤らめる。だが呆れたようにため息をついて、赤らんだ顔をそのままにカウンターに突っ伏した。

「……御幸くん、おっさんみたい」

「おーおー言ってろ。こっちは言質取ってんだからな」

 ぷるぷる震えるつむじを見つめながら、湯飲みを水切りラックに押し込んで水を止めた。顔を上げた天城はジトっとした目で、歯磨きしてからね、と呟いた。はいはい。分かってます。ほんと健康第一だよな、お前。



***



 飯食って、歯磨いて、腹も膨れて欠伸を噛み締める天城とベッドに寝転んで、ぽつぽつと雑談を交えながら触れて、触れられて、やがてセックスをする。天城の言うようにこんな機会滅多にないのだと思えば思うほど、天城に触れていない一分一秒が惜しくなる。何度も何度も求めて、何度も受け入れられ、そして何度も求められた。『御幸くんがほしい』、なんてセリフ、天城の口から聞ける日が来るとは考えすら至らず、頭が沸騰するかと思った。おかげで、その勢いのままに抱き潰してしまった。こいつの素直すぎる性格と、滅多に出てこない欲求の組み合わせは核弾頭より破壊力があると分かった。男冥利に尽きるが、ベッドの上でゼーハーと息を乱す天城を見ると罪悪感がふつふつと湧いてくる。出すもん出すと嫌に冷静になる男の身体構造は、とてもよくできてると思う。

「……わり、」

「謝らないでってば」

 何度目か分からぬ謝罪に、天城は力なく笑う。無理させてるのは一目瞭然なのに、この顔を見てると今尚歯止めが利かなくなる。額に張り付いた前髪を撫でて、そっと顔色を窺う。珠のような汗と、潤んだ瞳が見える。

「私、嬉しいのに」

「……けど、」

「謝られる方が、寂しいよ」

 すりすりと頬を寄せられる。全身火照ったまま、汗ばんでしっとりした肌がくっつく。驚くほど不快感がない。桃の香りがして、美味そうとすら思う。

 そりゃあ、今更天城の言葉をいちいち疑ったりはしない。本当にこいつは呆れるぐらいお人好しで、海より器が広くて、穏やかで、優しくて。どんな無理を言っても笑って許してくれそうで。けど、そういうモノに触れれば触れるほど、ぞっとする瞬間がある。まるで底の無い穴に、落ちているような感覚。

「……甘やかされすぎて、怖くなる」

 好きな奴と一つになって、求めて、求められて──それが嬉しいはずなのに、恐怖の方が勝る瞬間がある。その優しさに付け込んでる自分がいるのではないか、いつかこいつが壊れてしまうのではないか、天城が俺に嫌気が差してどこか遠い所へ行ってしまうのではないか。我ながら女々しすぎるほどに、幸福に触れれば触れるほど、あらゆる恐怖を勝手に妄想する。そんなトラウマがある訳でもないのに、何だってこんなことを考えてしまうのか、自分が一番分からない。

 天城は笑わない。互いに素っ裸で、汗だくなのに、こっちが怯むぐらい真剣な眼差しを向けている。こいつの、こういう“目”は、少し苦手だ。何でも見透かされているような気がする。こいつにつぶさに観察される相手校の選手に、同情してしまうほど。

「御幸くんは、さ」

「……ん」

「試合と同じぐらい、他人に我儘になって、いいと思う」

 我儘、と俺は呟く。別に、我儘って──普段から、してるだろ。今日だって天城なら俺を拒絶しないだろうという、仄かな期待があって、事実その通りになった。大丈夫とこいつは言うけど、明らかに無理させてるのは分かってる。なのに次を求めてしまう。それが我儘でなくて何なのか。けれど、天城の目は、揺るがない。

「御幸くんは、さ。自分が思ってるよりずっとすごくて、強くて、ちゃんとしてる人だから、人に、期待しない。だから、我儘に、なれない」

「そんなこと──」

「だから一人で背負い込む。期待しなければ、期待に裏切られずにすむ、から」

 ずるり、と腹から内臓を引き摺り出されたような、気分。抉るような眼差しが、俺すら理解してない部分を削岩しているような、感覚。

「、けど」

「そうだね。野球は、一人じゃできないよね」

 俺が言いたいことすらその目に映っているのか、天城はふわりと笑みを浮かべる。見透かされてるのが分かる。でも、これは。

「だから試合中の御幸くんは、誰よりも我儘で、不遜で、尊大で」

「こらこら」

「でも、すっごい活き活きしてる」

 そう語る天城の脳裏には、試合中の俺の姿がいるのだろうか。いつもの、俺が。こんな風に他人の言葉に一喜一憂することない、ただ純粋な勝負の世界にいる──俺が。

「その分、普段の御幸くんは、他人に多くを望まない」

「……」

「我儘な御幸くんは、グラウンドに置き去りになってるみたい」

「……」

「或いは、グラウンドでしか我儘になれないのかな、なんて」

 自覚は、ない。心当たり、も。まるで占い師みたいな物言いだ。なのに、バーナム効果だろ、なんて茶化すことができない。分かってる。こいつには俺すら見えていないものが、見えて、理解して、それを口に出す素直さがあるから。

「だから、告白された時、すごい驚いた。『他人に期待しない人』だと思っていたから、誰かを好きになっても、よっぽど脈ありでもなきゃ、告白しないタイプかなって」

「……」

 心当たりのあることを言われ、押し黙る。確かに、それは思ってた。俺は一年以上も前から天城が好きだったのに、それを伝えようとは思わなかったし、どうこうなるつもりもなかった。天城からの好意は友情以上のものを感じなかったし──仮に好意があったらどうだったのか、今更な話だが──、そもそも俺は野球で忙しい。そんな一言を、言い訳にして、積もる雪を見て見ぬふりしてきた。

「我儘になれない訳、じゃあないよね。ただ、『慣れてない』」

「……」

「きっと、御幸くんは私生活の中で、色んなことを我慢してきて、そんな悲しいものばかりに、慣れ切っちゃったのかなって」

「……そう、見えんだ」

「うん。恐怖は不慣れの証拠かなって」

 我慢──我慢か。そんな一言に、今の今まで忘れてたような記憶が走馬灯のように駆け抜けた。物心付く前から、家に母親はいなかった。だからって父親に至らぬ点があったってわけじゃない。不器用な人なりに、懸命に俺を育ててくれた。今だってやりたいことを自由にやらせてくれている。『私立高』で『野球』をやるなんて、どれほど経済的負担がかかるか、自力で金を稼いだことのない俺には想像もつかない。だから面と向かっては言えないが、感謝してもし足りない。けれどどうしても、ガキの頃は不服に思うことも山ほどあった。どうしようもないような、下らない憤りを感じた日もあった。けれど。

 俺はいつからそれらを、不満に思わなくなったのか。

「だから、練習していけばいいと思う」

「……練習、ね」

「そ。御幸くんがそれを、『怖い』以上に『安心』や『幸せ』に思えるように」

 練習は得意でしょ、なんて言いながらくすくすと笑う凪沙。本当にこいつは、人をその気にさせるのが得意だ。煽って、蹴飛ばして、焚きつけるような俺のやり方とは違う。同じ目線に立って、横で、笑ってその背中をゆっくりと撫ぜるような示し方。

「……いつか、怖いとか思わなくなる日が、くんのかね」

「それは難しいかも。『怖さ』と付き合えなくなったら、『依存』になる」

「そういうもん?」

「私はそう思う。要は割合の問題だと思うんだよね。怖いが半分を占めるんじゃなくて、『幸せ』や『安心』を半分以上にする。それで、心のどこかに『恐怖』は残しておくの。そしたら、」

「……そしたら?」

「お互いを尊重できる関係が、続く──と、思います」

 まるで恋愛のハウツー本でも読み上げるかのように、天城はすらすらと語る。けど、そこらの胡散臭いハウツー本の何十倍にも説得力があった。『恐怖は残しておく』──か。そうだ、それは忘れたら、だめだ。天城の言うように、ただ甘えていくだけじゃ俺はきっとこいつに依存する。いや、もう既にしかかってるのかもしれない。『怖い』と感じたのは、本能が抑制したのだ。俺にとっても、天城にとってもそれはきっと、良くないことなのだと。

「私も嫌だと思うことはちゃんと言う。だから御幸くんは怖いと思っても、ちゃんと私にやりたいことを伝えて欲しいなあ」

「……それで、上手くいかなかったら?」

「納得いくまで話し合おう。私たちはその為に、言葉を得たんだから」

 天城の言葉は、本当に前向きだ。何度ぶつかっても、暗に肯定する言葉が嬉しくて俺の胸元にすり寄る天城をぐっと抱き寄せる。恐怖は、今も消えない。それでも、その仄暗さを背負って尚、俺たちは前へ進んでいける。天城となら、俺は。

「……これで、なーんで現国が苦手かねえ」

「こらあ! 茶化さない!!」

 天城が弾けるように顔を上げ、ブーブー騒ぎ出す。お世辞にも天城の現国の成績は芳しくない。監督、現国教師なのにな。いつも赤点ぎりぎりの答案用紙を前に頭を抱える天城を思い出しながら、もう一度力を込めて抱き潰す。ぐええ、なんて可愛げのない声を上げて天城はジタバタする。

 片や我儘になり切れない俺と、片や我儘すら抱かない天城。傍から見たら、俺たちはやっぱどっか歪んでると思う。でも、生まれも育ちも違うような人間が二人、顔を突き合わせるんだ。別段、アンバランスのままでもいいのかもしれない。常に天秤が動かないことが理想じゃないんだ。傾いた天秤を、二人であれこれ相談して、悩んで、時にはぶつかり合いながら、バランスを取っていく──そうやって二人で一緒にバランスを守っていければ、それでいい。その頃にはきっと、天城の言うように練習の成果が出るだろう。

 いつか彼女から、『練習の甲斐あったね』なんて言われるために。

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