御幸一也はデートしたいE

 年始のデートを楽しみに地獄の冬合宿を何とか乗り切り、実家に帰った俺は思いもよらぬ危機に瀕していた。

「(服が……入らねえ……!!)」

 去年に比べて身長はそこまで伸びなかったが、体重が増えたせいだろうか。ケツや太腿周りがキツい。ギリギリ着れなくはないものもあったが、しゃがめない。絶対裂ける。成長期は非常にありがたいが、舞踏会に来ていく服がないって嘆くシンデレラの気持ちが痛いほど分かる。まずい、Xデーまであと数日。流石にジャージや制服で赴くわけにはいかない。助けてくれインターネット。ってことで、親には着る服がないということで小遣い&お年玉を前借りし、ネットで服を注文した。一応サイズは確認した上で購入したが、試着もせず服を買うのは初めてだったので不安しかない。まあ、今手元にある服よりはマシだろうと判断し、祈る思いで年始を迎えた。

 年末年始だろうが頼んだ荷物は即時配達なのがネット通販の、そして二十三区内在住のいいところだ。届いた服を試着したところ、サイズ的に問題はなかった。ジーンズも裾上げの必要はなさそうだ。この時ばかりは百八十近くまで伸びた身長に感謝した。センスがどうとかは俺には分からないので、所謂『マネキン買い』をした。似合うかどうかは分からないが、絶望的センスではないはずだと、鏡の中の自分を見ながら思う。多分、いや大丈夫だろう。うん、多分。

 そんな苦労の甲斐あってか、買ったばかりの私服は恋人である天城には大いにウケたようだ。物珍しいとばかりに目を輝かせている。

「御幸くんの、私服ッ……!!」

「そりゃ、ジャージで来るわけにいかねーだろ」

「か、っこ、いいね……!」

「……ドーモ」

 天城は今まで見たことないほど大興奮していた。そう言う天城の私服も、俺にとっては物珍しく映る。すげー女の子っぽい格好をしてる。いや、普段だって十分女の子っぽいけど、私服だと一段とそう感じる。ロングのスカートに、白いセーター、あったかそうなコート、ブーツ。何もかもが新鮮だ。ファッションセンスとか全然わかんねーけど、天城に似合ってると思う。可愛い、とも。ただ、天城ほど馬鹿正直になれない俺は、愛想いい返答すらできないまま。あー、クソ、だっせえ。

 親父のメシを作るついでに天城との昼食用にタッパーにありったけのおかずを詰め込んで、手土産の一つでもと持たされた洋菓子を片手に腹を据えて西国分寺駅に辿り着いたのは約束の三十分前。遅刻するぐらいならと早めに家を出たが、流石に逸りすぎたと思った。しかし、考えることは同じだったようで、天城はすぐに現れた。それだけでも胸がいっぱいになるってのに、にこにこと近付いてきた天城に、俺はあることに気付いてしまった。

 こいつさては、風呂入ってきたな。

「(勘弁してくれ……!!)」

 傍に寄るだけで、桃っぽいフルーツの匂いに包まれたような気分になる。天城を抱き締めた時に香る匂いが、隣で歩いてるだけで漂ってくるのだから、童貞には些か刺激が強すぎる。何で風呂入るだけでこんなんなるんだよ。俺も朝ロード行ってきたから軽くシャワー浴びたけど、こうはならねえぞ。風呂一つとっても男女の違いを如実に見せつけられた気がする。おかげで、道中色々当たり障りのない会話を挟んだけど、ほとんど記憶がない。まさか朝っぱらから理性と戦う羽目になるなんて思わなかった。

 だが、俺の戦いはまだまだ続く。ついに天城の家に足を踏み入れ、しんと静まり返る階段を上って天城の部屋に入った時脳みそが沸騰するかと思った。天城の匂いしかしない。マジで気が狂いそうだ。

「──女の子の部屋って感じ」

「そ、そう……?」

 おかげでのっけから馬鹿丸出しの発言をしてしまった。女の子の部屋なんだから当たり前だろ馬鹿か俺は。器のでかい天城は大して気にした様子はなく、お茶を淹れてくると言う。なけなしの理性を総動員させて作ったおかずと手土産を渡し、俺はぽつんと一人部屋に残された。天城はいないってのに、そこかしこから天城の匂いがする。助けてくれ。

 いやまあ、そういうコト込みであることが同意の上で実施されたデートだ。そりゃこっちとしてもそのつもりなのだが、現在時刻は朝十時。会って早々そういう邪な気持ちで一杯なんです、とは流石に言えねえ。自分でも引くわ、そんな最低男。だというのに、部屋の匂いを嗅ぐだけで頭の中はAVさながらの欲望が溢れ返る始末。だめだ。じっとしてると煩悩しか浮かんでこない。何か気を紛らわすものないか。何か。縋るような思いで天城の部屋の本棚を見る。

「(──お、スコアブック)」

 本棚見てていいって言われたし、何か適当に読んで気を紛らわそう。それしかない。本棚には少年漫画もあれば少女漫画もあり、レシピ本や練習用に購入したと思われるスコアブック、試合のDVDから動植物の図鑑、果ては児童書などが所狭しと詰め込まれている。誰とでも会話が尽きない天城の人となりを現してるような本棚だと思った。ひとまず一番興味を引かれたスコアブックに手を伸ばす。日付から入部当初に練習を始めたことが分かる。色もなく、修正の痕も多く、見辛いことこの上ない。これがたった一年と少しであそこまで成長するのか。我が子の成長とは違うだろうけど、不思議な感慨深さを覚えた。おかげで邪念が少し薄まった気がする。いいぞ、その調子だ。せめてあと十時間は踏ん張れ、俺。

「お待たせー」

「……おー」

 しかし、天城がお盆に急須と湯飲み、お茶請けを乗せて帰ってきた途端、俺の防波堤は脆くも崩れ去った。ニコニコと無邪気な笑みを浮かべる天城に理性が限界だと警鐘を鳴らしまくってる。耐えられる気がしない。

「……御幸、くん?」

 湯呑にお茶を注ぎながら、天城は訝しげにこちらを見てくる。でも、緑茶の香り程度じゃこの煩悩は静まってくれない。必死で押しとどめようとしても、濁流のような欲と熱が腹の底から湧き出てくる。

「えーと……具合悪い──わけじゃ、ない、よね?」

 天城は遠慮がちに言う。少し赤くなった顔を見るに、変なところ鋭い。だめだ、隠し通せる気がしない。こんなの押さえつけながら楽しくお茶なんて絶対無理だ。これから夜まで十時間以上あるってのに。

 ──いや。もういっそ、察されてるなら、大人しく白状してしまおうか。サイテーにも程があるが、ひょっとしたら天城なら笑って許してくれるんじゃないかという一縷の望みもあり。そんなの期待してる時点で、俺は言い逃れ出来ない程度にはサイテーなんだろうけど。

「……天城さあ、朝風呂入った?」

「え? ああ、うん。ちょっと寝ぐせ酷くて……それがどうかした?」

 柔らかそうな髪を指に巻き付けながら、天城は照れたようにはにかむ。いつも朝練の時に顔を合わせてるけど、こんな匂いさせてたことはないと思ってたが、そういうことか。そればっかりが原因じゃねえと思うけど、もう駄目だ。何してても頭の中はエロ一色だ。

「最低かもしんねーけど、全然集中できる気がしないから白状するわ」

「う、うん……」

 正座したまま、急須をテーブルに置いた天城の前に腰を下ろす。ぱちぱち瞬く目はどこか居心地悪そうに、けれど俺から視線を逸らすことはない。黙ったまま、俺の言葉を待つ天城。お互いの膝が触れ合う距離。心臓はかつてないほどドクドク脈打っており、深呼吸するだけで内臓が出てきそうだ。

「ごめん。も、我慢できない」

 それだけ言って、天城の細っこい肩を掴んで抱き寄せた。肩口に顔を埋めるだけで、これでもかってぐらいあの匂いが肺いっぱいに流れ込んできて、色んなものが爆発するかと思った。そんな衝動を逃がすように薄っぺらな背中に回した腕に込めれば、天城は苦しそうに身を捩った。

「み、御幸くん……!」

「嫌なら、殴るなり蹴るなりして逃げろ」

 ずるい言い方だ。天城はそんなことしねえって分かってて、気遣いは口ばかり。それでも、散り散りになった理性をかき集めた最後の砦だ。押し倒さなかっただけ、案外冷静なのか。或いは、臆病なのか。

 その時、天城がもごもごと動き出す。マジで殴るつもりか、と一瞬身を強張らせる俺の不安を吹き飛ばすかのように、天城の腕は俺の背中に回される。ぎゅっと、控えめな力で抱き寄せられる。

「私、嫌じゃない。寧ろ、嬉しいよ!」

「……でも、こんな、身体目当てみてえじゃん。会って早々、とか」

「悪い人は自分のこと、『悪い人』って言わないよ」

 慰めるような、柔らかな言葉。ぽんぽんと小さな手が俺の背中を優しく叩く。そりゃ、天城なら嫌がらないって、受け入れてくれるだろうって、思ってた。でも、改めてこいつの優しさに触れると、今すぐ押し倒したいほど嬉しいはずなのに、不安にもなる。こいつの優しさに付け込んでるだけなんじゃないか、って。

「ただ一個だけ、教えて欲しいんだけど」

「なに」

 思いの外真面目な声のトーン。名残惜しさを残しつつ、天城の肩口から顔を上げる。困ったように微笑みながら、天城は俺の胸元に顎を押し付けるように見上げている。

「──カレー食べたことない人って、『カレー食べた過ぎて死ぬ!』って思うことないよね?」

「は?」

「そりゃ、『一度ぐらい食べてみたい』、とは思うかもだけど、『あの味が忘れられない!』って衝動はきっと生まれないよね。カレーが美味しいって知識で知ってても、味が分かんなきゃそこまで想像できないと思うし」

 突然カレーの話が出てきて、沸騰寸前だった鍋の火をそっと消されたような気分。何急に、何の話されてんの、俺。困惑する俺に、つまりね、と天城は少し恥じらいながら言う。

「これから先、こういうことするタイミングってあんまりない、よね?」

「──ああ、カレーって、そういう……?」

「そう。そりゃ、私は我慢しようと思えばできるけど、御幸くんは──男の子的にはその辺どうなのかなあ、って。私ら、これからも部活で毎日顔合わせるわけだし、大丈夫なのかなと、ちょっと、今更ながら……」

 何の例え話かと思った。要はセックスの味を占めた俺が、この先何度も二人きりになれる機会もないのに我慢が利くのか、という点を心配しているらしい。何で今、このタイミングでそんな心配し出すのか。そこが天城って感じはするけど。そりゃ、会って早々こんなこと言い出すんだから──ああ、そういうことか。

「つまり、俺が所構わず発情するんじゃねえかって心配?」

「そ、そこまで言ってないよ!?」

 ぎょっとしたように顔を赤くする天城の顔を見て、ふつふつと笑いが込み上げてきた。それと同時に肩の力がゆるゆると抜けていくのを感じた。どんだけ緊張してたんだ、俺。

 しかし、改めて問われると、答えとしては『そんなこと考えたこともなかった』だ。正直、今日を乗り切れるかでいっぱいいっぱいなのだ。来週こいつと部活中に顔を合わせて何を思うかなんて、想像すらできない。ただ、天城の言うように、今後こういったチャンスが訪れるのは極めて稀である、というのもまた事実かつ問題点なわけで。

「あんま期待させたら悪いから先に言っておくけど、うちは親が不在じゃない限り、御幸くんをお呼びするのは難しいと思う。親が──というか、お父さんがそういうの、ちょっと、厳しくて」

「言っちゃなんだけど、今時珍しーね」

「だよねー。でも、昔お姉ちゃんが恋人関係でトラブル起こして……それでちょっと、お父さんがそういうのに過敏になっちゃってて……」

 そういえば、家を出た姉がいるとは聞いたことがあったが、そんな背景があったとは。何があったかは分からないが、天城がかなり言葉を濁してる辺り、よっぽどのことがあったのだろう。ただでさえ父親にとって娘は目に入れても痛くないとか聞くし、先の戸締りの様子を見るに、大事にされてるのはよく分かるわけで。

「だから今後、うちを当てにされると辛いと言いますか……」

「そりゃー……別に入り浸るつもりはねえけどさ」

「うん……」

「まあ、そういう時は一人で何とかするって。ほんとにやばかったら、最悪──」

「最悪?」

「……寮で、トカ」

「おお……思ったより最悪なパターンだあ……」

 天城は苦虫でも思いっきり噛み潰したような顔をしている。言っておいてなんだが、俺も嫌だ。寮の壁薄いし、万が一天城が部屋出入りしてるところを見られたらからかわれる、なんてレベルの話じゃすまなくなる。それに、万が一バレたら、監督に何言われるか分かったもんじゃない。だが、背に腹は代えられないという言葉があるわけで。

「鍵かけられるだけ、空き教室よりはマシじゃね?」

「いやあ、どっこいどっこいだよ……木村くんどうするの……」

「そこはまあ、気を利かせて出てってもらって」

「ひええ……そんな気ぃ使われたら、今後会わせる顔ないよ……っ!」

「でも、先輩とか彼女連れ込んでたりしたぜ?」

「ウソーッ!?」

「ほんとほんと。去年とか、『部屋戻れねえから泊めてくれ』って人、結構いたし」

「た、爛れている……!! 風紀が乱れているよ御幸くん……!!」

「……今、そういうこと言っちゃう?」

「今はオフだからいいの!」

 自分たちのことを棚に上げて爛れているだの風紀が乱れてるだのちゃんちゃらおかしな話だ。天城は頬を膨らませて異を唱えるも、それが益々図々しくて、二人してけらけら笑いだす。さっきまでの爆発的な性欲が消え失せたわけじゃないのに、いつもみたく笑い合えるのが、不思議で、でも嫌な気はしない。

「うーん……ひとまず、寮はほんと最悪の最悪の手段ってことで……」

「だな。っていうか、そんな先のこと考えられるとか、天城案外余裕だったりする?」

「ないよ、余裕なんて……でも、後悔、させたくないから」

「するわけねーじゃん」

 天城らしい言葉だと思った。後悔『したくない』じゃなくて、『させたくない』──か。どこまでいっても、天城は相手、というか俺本位だ。俺がどんな我儘を言っても、笑って受け入れてしまいそうで。それを嬉しく思う自分もいるが、天城にばかり負担をかけてしまいそうで怖くもある自分もいて。

「お前は、後悔しない?」

「しないよ」

 気持ちいいくらいの即答だった。うっかり、次何言うか一瞬忘れる程度に。

「……あのさあ、嫌なことはちゃんと嫌って言えよ?」

「うーん、普段から言ってると思うけどなあ」

「さっきだって嫌がる割に『寮では嫌』とは一言も言ってねえし」

「他に選択肢ないからね……」

 そりゃそうなんだけど。こいつの全肯定具合には時々怖さすら覚える。特に、これからそういうことするのに、何でもかんでも大丈夫・平気・嫌じゃない、とか言う姿が容易に想像できてしまう。それが怖い。その優しさに慣れ切って、天城をぞんざいに扱ってしまうかもしれない自分が──一番、怖い。

「嫌なことはちゃんと言えるよ、私」

「……ほんとに?」

「御幸くんには、言える」

 でも、そんな不安をかっ飛ばすほど、真っ直ぐな天城の言葉。俺には──俺には、か。こいつは、すごい。信頼、或いは愛情、そういったものがなきゃ、出てこないセリフだ。たったそれだけで、舞い上がりそうになる。俺ってこんなに単純だったのか。

 俺を見上げる天城に、顔を近づける。鼻先を掠めるぐらいの距離に、天城はびくんと肩を震わせたが、ゆるゆると目を閉じる。睫毛一本一本が、はっきり見える。ちょっと震えてる。かわいい。眼鏡のフレームが当たらないように、少しだけ首を傾けて天城の唇と重ね合わせる。ふにっとした、今までに触れたことのない感触。ちょっと冷たくて、甘い匂いがする。ただ皮膚と皮膚がくっついただけなのに、全身心臓にでもなったのかってぐらい、鼓動が鳴り響いてる。

 ゆっくりと、唇を離して顔を遠ざける。ズレた眼鏡を戻すようにブリッジを押し上げると、片腕の中で天城がへにゃりと微笑んだ。

「……カーテン、閉めていいかな」

 それが多分、合図だった。

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