御幸一也と電話する

『センバツ出場! 勝てるって信じてました!』

 ……すいすいと指を動かし、文字を消す。

『おめでとう! 御幸くんあっての勝利だね!』

 ……これも違う、と文字を消す。

『お疲れ様でした。怪我の具合はどうですか?』

 ううん、と少女──天城凪沙は唸ってスマホに打ち込んだ文字を消す。彼以外にはとんと使わなくなったメール画面には、未だ送るべき言葉は刻まれていない。

 その日、青道高校野球部は秋大を制し、センバツへの切符を手にした。マネージャー選手問わず大歓声に包まれ、誰もが込み上げる涙を流し、笑い、叫び、グラウンドの選手たちを称えた。だが、その代償としてキャプテンである御幸一也が早々に病院に担ぎ込まれ、祝勝会には顔を出さなかった。その負傷を見透かしてなおグラウンドへ送り出したとはいえ、試合中は本当に気が気ではなかった。無茶なプレイをするたびに涙が込み上げ、喉から悲鳴が漏れそうだった。だが、御幸の精神力は凪沙の想像以上だった。最後の最後まで、その傷を隠し通して見せた。誰にも悟らせなかった。ともすれば凪沙自身でさえ忘れていたほどに、彼のプレイは普段と何ら遜色のなかった。内野安打、スチール、逆転ホームイン──惚れ惚れするとはまさにこのこと。そんな興奮を、喜びを、一番に告げたいその人に、凪沙は今日会えずじまいのまま帰路についた。だが、凪沙には文明の利器がついている。それを行使して問題ない権利も、ある。そもそもいつも、朝と夜にメールを送り合っているのだ。何ら不自然なことはないはずだ。

 だが、いざメールを送ろうとすると、言いたいことが山盛りで全く打ち込めないのだ。メール程度じゃとても語りつくせる気がしない。しかし、あまり長々としたメールは送る方も送られる方も面倒だ。相手は怪我人なのだから尚更。けれど、『さっと目を通せる内容を』と思えば思うほど、最適な言葉を見出すことができないまま刻々と時間だけが過ぎていく。そろそろ二十三時、青心寮の就寝時刻だ。入院したとは聞いていないため、恐らく病院からは帰っている時間だろうが、起きている保証もない。

『おめでとう! 信じてた! 怪我大丈夫ですか!』

 雑すぎる文字が並ぶ。欲張り三点セットだ。もっと恋人として、マネージャーとして、或いは一人の野球部員として送るべき言葉があるはずなのに、無難な言葉しか選べない自分の語彙がこの時ばかりは憎らしかった。もっと現国を真面目に学ぶべきだったと悔いながら、凪沙は渋々とそのメールを御幸に送った。スマホをベッドに投げ、ぐっと伸びをする。既にパジャマ姿の凪沙はおやすみ三秒前だ。寝る前にメールを送り、今日一日が終わる。それがルーチンワークと化して、数か月。勝利の余韻に浸りながら、部屋の電気を落としてベッドに潜り込む。ああそうだ、スマホを充電しなければ。そう思ってスマホに手を伸ばして──震えるそれに、思わずびくんと肩が震えた。

 ブーブーと震えるスマホ。画面には『着信:御幸一也』の文字。見間違いではないかと目を見開きながら、慌てて指を滑らせて電話を受ける。

「も、もしもし!! 天城ですが!!」

『はっはっは、知ってる』

 耳元から流れてくる、御幸の声。普段と変わらぬ、穏やかな声音。それだけでじわじわと涙が込み上げてくる。よかった。生きてた。元気そう。死地に赴いたわけでもあるまいに、そんなワードがいくつも脳裏をよぎる。

「お、お元気そうで、何よりです……っ!」

『なに、お前泣いてんの?』

「泣いては──ううん、今まさに涙が出たとこ……」

 ぽろぽろと、頬を伝う涙を誤魔化すのは無理だった。鼻の奥がつんとし、声はどんどん涙色に染まっていく。すん、と鼻を啜りながらそう答えれば、からかいがちだった御幸が途端に大人しくなる。

『えーと……悪い』

「謝ること、ないよ」

『けど』

「嬉しくて、泣いてるだけだから」

 そうだ、これは紛れもない歓喜の涙だ。試合に勝って嬉しい。御幸が元気そうで嬉しい。何より、電話をもらえたことが嬉しい。怪我をして、病院に連れ込まれ、勝利の礎となったキャプテンは寮であれこれ揉まれていると思っていたのに、こうして自分に時間を割いてもらえるのが、何よりも嬉しくて。

「電話、ほんとに大丈夫?」

『一応怪我人だしな。寝かせろって言ったらアッサリ解放されたわ』

「木村くんは?」

『一年は夜通し祭りだーっつって連れ出されてったところ』

「じゃあ、今部屋に一人なんだね」

『そ。寂しくてさあ、つい電話しちゃった』

「よく言うよ」

『ほんとだって』

 凪沙の知る限り、御幸は一人部屋で寂しくて寝れないようなタマではない。軽いノリの声は、久しく見ていなかった彼のおどけた顔が容易に想像できる。どんな理由があったかは知らないが、話し相手に選出してもらえたことに喜びを隠しきれず、鼻を啜りながらへらりと微笑む。

『天城こそ、もう寝るところだったんだろ。まだ平気?』

「勿論。メールじゃ喋り足りないなって思ってたとこ」

『なんだよ、だったら電話してくれればいいだろ』

「もう寝てるもんだと思って」

『眠れねーよ。まだ興奮で手ぇ震えてるぐらいだし』

「そっか、そうだよね。……私も、しばらく寝れそうにないや」

 暗闇の中目を閉じると、今も鮮やかに思い浮かぶ昼の光景。爆発するような歓声と、噎せ返る汗のにおい、そして涙の味と、抱き合う選手たちの笑顔。この光景は、生涯忘れないだろうと思った。この先何年、何十年生きても、きっとこの日の喜びだけは鮮明に思い出せるだろうと、凪沙は確信していた。

「……おめでとう。本当に今日の試合、すごかった」

『おー。自分でも出来すぎって思ったぐらい』

「最後よく盗んだね。あれなかったらホームイン間に合わなかったでしょ」

『バッター勝負してたの分かってたしな、あれは走らねえと、だろ』

「監督からスチール指示出てたっけ?」

『いーや、独断』

「惚れ惚れするよほんとさあ……!」

 そうやって、試合を振り返りながら熱く語る凪沙の目には、いつの間にか涙はなかった。感動した、ただそれだけを一心に伝えようとする凪沙の声を聞き、御幸もまたその思いに応えんと語る。そうして二人して時間を忘れるほど語り明かして、しばらく。凪沙はあることを思い出した。

「そういえば、さ」

『なに』

「忘れてた。怪我どうだったの?」

 御幸があんまりにも普段通りだったので、すっかり忘れてしまっていた。試合後、彼は一人で立つのも儘ならずふらふらで副キャプテンたちに肩を貸されてタクシーに担ぎ込まれていた。この様子なら今後の試合には響かないとは思うが、よくまあ忘れていたもんだと自分で呆れた。案の定、電話越しの御幸も笑い飛ばしていた。

『お前ひっでーな、忘れてたのかよ!』

「いや、あまりに御幸くんがいつも通り過ぎて……そ、それで? どうだったの?」

『大したことねえよ。脇腹の肉離れ、全治三週間だと』

「全治三週間……骨は?」

『問題なし。だから言ったろ?』

「素人判断は信用できませんので。でも、よかった……」

 スイングに影響が出ていただけに、肋骨でもやったのかと心配していたが、杞憂に終わったらしい。ほっと一息胸を撫で下ろすと、また安堵で涙が込み上げてくる。今日の涙腺は本当にどうかしている。

「三週間だと、神宮大会微妙だね」

『大丈夫だろ。肉離れぐらい、十日もあれば治るって』

「御幸くんは医師免許持ってるんですか?」

『……』

「自分の身体は自分が一番分かってるって、あれ嘘だよ。だったらみんな、故障しないでしょ。高校球児も、プロも、みんなみんな」

 自分で分からないから、みな故障するのだ。そうして涙を呑んでプレイヤーとしての道を断念せざるを得なかった人が、これまでの歴史に一体何百人、何千人いただろう。好き好んで故障する者などいないのに、怪我人が後を絶たないのはみな己に過信するからだ。

「もうあんな無茶しないで──とは、言わないけどさ」

『そこは言わねえんだ』

「言ったでしょ。御幸くんの人生なんだし、御幸くんが決めればいいって」

『そうだな。そう言ってもらえる方が、嬉しいわ』

「でも、正直もう無茶するとこは見たくないかな……心臓に悪いよ……」

 御幸は怪我を庇うことなく、本当に普段通りに試合に臨むのだから、本当にヒヤヒヤした。最後のホームインなどヘッドスライディングかますもんだから心臓が止まるかと思ったほどだ。万が一骨を痛めていたらどうするつもりだったのだと、スタンドから叫んでやりたくなったのを抑えた自分はえらいと、凪沙は自らを褒め称えた。そんな凪沙の声に、ふーんと御幸が鼻を鳴らす。

『無茶したら、また泣く?』

「多分、ね」

『へえ、そっか』

「なんで嬉しそうなの」

 顔が見えていないため分からないが、御幸の声色はどことなく弾んでいる。そういう趣味があるのかと引き気味に聞けば、御幸はこらこらと諫めてくる。

『天城の泣いてるとこ、見たことねえなと思ってさ』

「そう? 私、結構泣いてると思うけど……」

 確かに涙もろい方ではないが、夏に負けた時は悔しさのあまりスタンドで泣き崩れたし、今日の勝利は嬉しさの余り先輩である藤原にタックルせんばかりに泣きついた。首を傾げる凪沙に、御幸は静かに告げる。

『泣いた後の顔は何度も見たけどさ、お前すぐ泣き止むから』

「……そう、かな?」

『今日はやっと見れると思ったのに俺病院に連れてかれるし、今も泣いてると思ったら電話で顔見れねえし、間が悪いっつーかなんつーか』

「なんでそんな人の泣き顔見たがるのかね、御幸くんは」

『なんでって……』

 一瞬、電話口で声を詰まらせる御幸。すぐに、なんでだろうな、と呟く声がする。すん、ともう一度鼻を啜ってから、凪沙はからから笑う。

「変な御幸くん。私の泣いてる顔なんか見ても、いいことないですよー」

『──……あー、いや、違うな。逆だわ、逆』

「逆、とは?」

 いまいち御幸の言うことを呑み込めず、凪沙はただ首を傾げた。言い淀む御幸に、どうしたものかと言葉を待つ。やがてごそごそと何か布が擦れるような音が聞こえてきて、御幸の声がほんの少しくぐもった。

『泣いてるとこじゃなくて、泣き止むとこが見たかった』

「──え、」

『俺が泣かせてんなら、俺が泣き止ませたかった』

 それこそ──涙も止まるような、一声だった。ほんの少しだけ音質が悪くなったその声は、真剣そのもの。きざなセリフ、だなんて笑い飛ばす余裕もなく、布団を蹴っ飛ばすぐらい体温が一気に急上昇する。

『俺のために泣いてくれるのは嬉しいけど、一人で泣かれんのは困る』

「こまる、て……」

『こういう時、寮生活だと不便だな。会いたい時に会えねーの』

 会いたい。そんなストレートな一言に飛び上がりそうになる。御幸一也から告白され、付き合うことになって早数か月。たった一度でもそんなことを言われたことはなかった。なんだこれ、怪我した上に熱でも出したのかと、照れと心配が一緒になって凪沙に襲い掛かる。

「み、御幸くん、どうしたの今日……なんか変だよ……?」

『……そりゃ、今日の今日だし、変なテンションにもなるって』

 そう指摘すれば、少し照れたようなくぐもった声が返ってくる。どうやら、御幸自身も今日の勝利にどことなく浮かれているらしい。上機嫌になれば口数が増えるタイプだなとは常々思っていたが、こんな方向に吹っ切れるタイプとは思わず、凪沙は火照る頬を手の甲で冷やす。

『天城の顔見て、話したかった』

「……うん。私も」

『こういう時、映画なら『窓の外見て』なんて言うんだろうなー』

「それは流石にキメ過ぎだって」

『えー。そこは『キャー素敵!』とか言うとこじゃねえの?』

「そんなんされたら、かっこよすぎて倒れちゃうよ」

『お、言ったな』

「なに、やる予定? 怖いよー、彼氏がかっこよすぎて怖いー」

『惚れ直してくれていーんだぜ』

「今日の試合で何十回惚れ直したと思ってるのー」

 そんな、所謂馬鹿馬鹿しい会話を続けて、二人はどちらからともなく笑いを漏らす。照れと恥じらいは、今日ばかりはゴミ箱行きだ。勝利の余韻は長らく続かない。来るセンバツに向けて練習はより厳しく、過酷なものになっていく。故にこそ、若き恋人たちは束の間のやり取りを、心の底から楽しんだのだった。

(Act1の46巻後のお話/2年秋)


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