御幸一也は見惚れた

 青道高校は六月に球技大会を実施する。種目はサッカー、バスケットボール、ドッジボールの三種類、自身が所属する部の種目には参加できない──地域や学校ごとに種目の差はあれど、さほど目新しさもないイベントの一つだ。一応優勝チームにはささやかながら人数分の学食無料券が贈呈される。たかだか千円に満たない商品ではあるが、高校生たちの財布事情を考えれば中々に魅力的な景品で。やる気のあるチームやお祭り騒ぎが好きなチームは中々の気迫で試合に臨んでいる。とはいえ、全学年全クラス強制参加でトーナメント制の為、優勝賞品は遠く、ほとんどの生徒にとっては『一度敗れれば顔見知りの応援だけで一日を潰せる』という認識でしかない。普段の授業よりは楽だと、上級生たちは格好のサボり日だと語っていた。しかし、それが許されるなら寮でスコアブックを眺めていたい、という御幸の意見には多くのチームメイトがドン引きした。出席に関わるため、体育館かグラウンドにはいなければならない、と聞いた時にはなんと面倒なイベントかと辟易したものだ。

 景品に魅力を感じないではなかったが、御幸は野球以外のスポーツに本気を出して怪我をする気はさらさらなかった。そのため、突き指の可能性がより低いサッカーを選択した。超高校級の捕手とはいえ、野球以外のスポーツはさほど得手としない御幸のチームは一回戦で敗退し、体育館の二階席でドッジボールとバスケの応援することに。とはいえ、興味のないスポーツの応援など退屈なだけ、せいぜい顔見知りや先輩が出てる戦いはぼんやり視線を落としたりしたが、結局午前中はただ欠伸を噛み締めるだけで終わった。

 種目は三種、男女で分かれてゲームを行う。男子はどうしても上学年になるほど体格が良くなるため、午後まで勝ち残ってるクラスは大体三年生で、野球部員すら顔見知りはごくわずか。一方女子は体格差はさほどないためか、一年生チームもちらほら勝ち残っているようで、チームメイトに誘われるがままに一年女子の試合を観戦する。彼らは可愛いあの子を見たいだとか委員会で一緒の子がいるとかあれこれ話していたが、お世辞にも人当たりがいいとは言えない御幸に、一年女子の顔見知りなどいるはずが──。

「(──いたわ)」

 いた。普通にいた。バスケットボールを手に、三年女子と対戦している一年女生徒が。天城凪沙。野球部のマネージャーだ。同じコートにはマネージャーの梅本幸子もいる。あいつら同じクラスだったのかと、独り言つ。他のチームメイトたちは学年一の美少女がドッジボールのコートにいるためそっちに集中しているが、顔見知りが二人いる試合の方が見ごたえあるだろうと、眠気交じりでその試合を見ていたの、だが。

「……マジ?」

 思わず、独り言が零れる。四方八方から応援の声が飛び交うため御幸の声は悪目立ちすることはなかったが。

 御幸の目下では、三年女子と凪沙たち一年女子たちが白熱した試合を繰り広げていた。いや、白熱した──とは、この場合言わない。記憶に過るのは、野球部二・三年合同チームVS一年生チームの紅白戦。たった一年二年早く生まれて、この部活に入っただけ。だというのに、スコアボードに並ぶ凄惨な点数差。爆発する打線を抑えられず、攻撃は全く通らない。一イニング乗り越えるだけでもチーム全員が疲労困憊するほど。御幸は、彼女たちの試合を見てそんなことを思い出したのだった。

「ナイッシュー!」

「キャーッ!! 凪沙すっごーい!!」

「天城かっこいい〜〜〜!!」

「抱いて〜〜〜!!」

 前の座席で観戦している女子の集団は凪沙の同じクラスか友達か。黄色い声を上げて凪沙の名を呼び、声援を送っている。だが、その声援も頷けるほどの活躍を、天城凪沙はしていたのだ。

「(あいつ、あの見た目で足あんのかよ)」

 否、足だけじゃない。走る、跳ぶ、打つ。そのどれを取っても、他の生徒と一線を画している。凪沙は誰よりも素早くボールを奪ってドリブルしてコートを駆け抜ける。きゅっきゅとフィットネスシューズが悲鳴を上げ、ボールを手に一歩、二歩、三歩とステップを踏んで跳び上がり、ボールをそっとゴールに添えるだけで、ゴールネットがひらりと揺れ、観客席は爆発した。

 意外、あまりに意外な特技に目を丸くした。天城凪沙は一見するとスポーツとは無縁そうな文系少女。どちらかといえば大人しそうな印象を受ける彼女が野球部の新入生自己紹介の際、全くの恥じらいなく大声で挨拶していたのが印象に残るほど。なので勝手に運動は苦手そうだというイメージがあったが、そんなイメージは物の見事に吹き飛んだ。

「っ、あの七番! マーク!」

 凪沙と対戦している女の先輩が叫ぶように言う。七番は凪沙がつけているゼッケンの番号だ。だが、マークする程度じゃ凪沙は止まらない。ブロックされても易々とその脇を潜り抜け、ドリブルしながらくるりとロールターンをしてあっさりと追っ手を振りほどく。数人に囲まれればその場でチームメイトにパスを回す。そして秒で戻されるボールをアッサリ受け取って彼女は再びゴールを目指して跳躍する──。

「一也、誰見てんの?」

「え。あれ、もしかしてマネージャー?」

「天城と梅本だ」

「あいつら午後まで勝ち残ってんだな」

 やがて御幸の視線に気付いたのか、チームメイトたちが次々にバスケの試合を見始める。どうやらお目当ての子が出ている試合が終わったらしい。現金なことだと思いながら、御幸は力ない返事を一つ。

 結局、三年女子たちはほとんどボールにすら触れられないまま、十八対零という圧勝で凪沙たちのチームは決勝戦に勝ち進んでいた。勝利の立役者である凪沙は女生徒たちから囲まれてもみくちゃにされた後、いそいそとゼッケンを脱いで別の生徒に明け渡していた。

「天城、あんなに運動できる奴だったんだ」

「意外だよな。見た目鈍くさそうなのに」

「あいつめちゃくちゃ運動神経いいんだってな」

「持久走とか陸部に並んで女子トップクラスって聞いたぜ」

「マジで!? 見えねー!」

「なんでマネージャーやってんだろうな」

「あいつ、中学何部っつってたっけ」

「文化部だってよ。もったいねー」

 好き勝手言い合うチームメイトたち。あれこれと知らぬ情報が耳に流れ込んでくる。別段、よくある雑談だ。同じ部活のマネージャー、更には彼女と同じクラスの者もいるのだ。男相手にも気兼ねなく話せる凪沙のことを知ってる者は、御幸が思うよりもずっと多い。それが分かっていてなお、胃の奥がむかむかとする。その理由に心当たりがあるだけに、御幸は面倒極まりないと顔を顰める。ああ、全く。面倒だ。

「お、来たぞA組の英雄が!」

「天城ー!! 抱いてくれェー!!」

「すっごいかっこよかった!!」

「アンタなんでバスケ部入んなかったの!?」

「次、決勝戦だよね、頑張って!!」

 なんて考えている間に、凪沙たちが二階の観客席へとやってきた。クラスメイトなのか、多くの生徒が彼女たちにエールを送っている。野太い声から黄色い声までを一身に浴びながら、凪沙は見慣れたニコニコ笑顔を浮かべている。あれで矢のようにボールに飛びついてゴール目指して突き進むのだから、にわかに信じがたい。

「あれ、野球部ご一行」

 へらへら顔を見つめていると、急に凪沙と梅本がこちらを振り向くのでぎょっとした。だが凪沙はあくまで御幸たち全員を見つめていたからか、一人動揺する御幸など誰も目もくれなかった。

「みんな暇そうだね。負けたの?」

「それでも青道高校野球部か!」

「勝てるわけねーだろ、どんだけ体格差あると思ってんだよ」

「ラグビー部の先輩とまともにぶち当たって見ろ、骨折れるわ」

「俺らは怪我するわけにはいかねーしさ」

「情けないな、一年」

「あ、小湊先輩」

 手厳しい言葉に振り替えれば、二年生野球部員たちがぞろぞろと現れた。男子一同はデカい声で挨拶し、マネージャー女子二人はこんにちはと軽く会釈している。

「うちのマネージャーがバスケ部の面目潰してるって聞いてさ」

「潰してないですよ、人聞き悪い!」

 小湊の傍には結城、増子、丹波、伊佐敷、楠木と、錚々たる面々が揃っている。どうやら彼らも凪沙の活躍を聞きつけて応援に来たのだろう。御幸以上にずばずば物を言う小湊相手にも物怖じしない凪沙は、先輩たちからも可愛がられているらしい。本当に羨ましい限りのコミュニケーション能力だ。

「一年で決勝行くなんてすげーなあ。頑張れよ!」

「「ありがとうございます!!」」

 楠木の純粋な応援に、凪沙も梅本も嬉しそうにお礼を言っている。流石野球部で一、二を争うイケメンだ。そんな同級生のエールを見て、先輩たちも口々に激励を飛ばす。

「マネージャーちゃんたち、応援してるからな!」

「気負いすぎるなよ」

「ああ、普段通りにやればいい」

「お前ら二人、野球部の看板背負ってるってこと忘れるなよ」

「邪魔する奴は全員ぶっ殺してけ」

「先輩方、プレッシャーえぐいです」

 特に後半二人、と凪沙は引き気味だ。梅本も困惑したまま乾いた笑いを浮かべており、この人らは女子相手にも容赦ないのかと一年全員漏れなく言葉を失う。だが、校内放送で女子バスケ決勝戦を行うからコート内に集合しろとアナウンスがかかる。凪沙はすっくと立ち上がり、野球部全員を振り返る。

「じゃあ皆さん、たまにはマネジの応援、よろしくです!」

 にっこりと爽やかな笑みを浮かべて、梅本と肩を組んで凪沙は再び歓声の渦中に飛び込んだ。再びゼッケンをかぶり──今度は一番だ──、相対する相手は二年生女子チーム。ジャンプボールは当然のように凪沙が立つ。そうしてけたたましいホイッスルの音と共に誰よりも高く跳び上がる。

 ボールがタップされ、受け取ったのは梅本。すぐさま凪沙にパスを回し、ガードの縫い目を潜り抜けるように駆け抜ける姿に、前の座席の生徒たちはキャーキャー大騒ぎ。梅本や他のチームメイトとも華麗にパスを回して相手を翻弄し、最初のシュートは梅本が放つ。だが、ゴールリング勢いよく弾かれてしまい。

「リバンッ──」

 誰かが叫ぶ。誰もが落ちてくるボールに手を伸ばす。しかし、そんな腕を振り払うようにボール下に駆け込んできた凪沙が思いっきり地面を踏みつけてジャンプする。誰よりも高く跳んだその手はリングから落ちかけたボールに手を添えて──支えを得たボールはそのまま、リングをくぐって、床にだあんと跳ねた。

 一瞬の硬直、隣のコートはドッジボールで白熱していたが、こちらのコートは水を打ったように静まり返って。そんな中、たんっ、と華麗に着地した凪沙が呆然とする梅本にニッコリ笑ってピースサインを決める。

「さっちん、ナイッシュー!」

 その瞬間、観客席ごと爆発したような歓声と悲鳴、野太い雄たけびが凪沙の名を叫んだ。ハーフコートのバスケットゴールは多少低めに設置されているとはいえ、もはやダンクシュートもさながらの跳躍だ。そうまでして華々しく叩き込まれた先制点だが、凪沙は少しの迷いなく梅本を褒め称えている。御幸たちは流石にそこまで騒がなかったものの、声を失うとはまさにこのことで。

「あいつ、かっこつけすぎじゃない?」

「だからいいんだろう。味方の士気が高まってる」

「今日日漫画でも見たことねーよ、あんなプレイ」

 先輩たちが口々にそんなことを言いだす。だが、あの小湊さえ褒めるのだから、どれほど彼女の存在が際立っているかは言うまでもない。魅せるプレイ、とはまさにあのことだろう。分かりやすすぎるぐらいの活躍に、当人はあくまで控えめな態度で再び試合に戻る。

「(すげーな、あいつ……)」

 まさに、チームの主柱とはこのこと。バスケの背番号の意味を知らぬ御幸には、ゼッケンにでかでかと描かれたエースナンバーが眩しく映る。あんなのがチームにいたら士気は爆上がりするし、敵チームからしたらたまったもんじゃないだろう。捕手として、あれほど頼りになるエースがいたらと思わずにはいられない。エースナンバーを与えられている丹波をちらりと見ながら、そんなことを考えてしまった。もはや一種の職業病だ。

 そんな先制点が起爆剤になったのか、凪沙たちのチームは留まるところを知らず。チームメイトたちも次々に得点を決めていく。その中でもやはり凪沙の活躍は目覚ましいもので、パスされたボールには必ず飛びつき、フリースローを決めた時には前の観客席は失神寸前の大声援を上げていた。

「──!」

 そんな声援を受け、腕で額の汗を拭いながら凪沙が観客席を見上げた。ぱっと目があったような錯覚──正確にはクラスメイトを見たのだろうが──、それからふわりと微笑んでぐっと控えめにガッツポーズを見せた。ぎゅっと心臓が縮み上がり、御幸はそんな自分自身に驚いた。ファンサービスにも似た仕草に、前の座席はギャアアアアと雄叫びを上げており、御幸の不自然な動揺に気付いた者は恐らくいない。

 そうして試合が終わる頃には両チームとも汗だくで肩で息をしている状態だったが、点数差は十二対三という圧倒的な結果。悔し泣きする生徒もいる中で、凪沙たちのチームは互いに抱き合い歓声を上げた。凪沙の弾けるような笑顔を見下ろしながら、御幸は自らの心臓がいつもより早く鼓動を鳴らしていることに気付く。

「(……いやいや)」

 漫画じゃあるまいし、と御幸は自分の単純さに心底呆れた。



***



「あなた、どうして野球部に入ったの?」

 球技大会後、いつものように部活を終えて夕食時のことだ。今日も今日とてレシート片手にPCにダカダカと入力している凪沙に、副部長の高島礼がそんなことを尋ねた。彼女もまた、凪沙の活躍を見聞きしたのだろう。疲れた体に鞭を打って食事を進める部員たちも、思わず耳を大きくして声を潜めてしまう。御幸もまた、そのうちの一人で。

「あれからバスケ部、陸上部、バレー部──色んな部の顧問の先生から話があったのよ。『野球部のマネージャーさんを、ぜひ我が部に体験入部させてくれないか』って」

「高島先生、私のこと売るつもりですか!?」

「まさか。うちの大事なマネージャーですので、って丁重にお断りさせてもらいました。でも、気になるじゃない。運動神経、精神力、そしてチームの主柱となる存在感──あなたならどの部活でもレギュラー入りできるはずよ」

 選手のスカウトも仕事である高島がそう言うのだから、彼女のポテンシャルは相当なものだろう。だが、当の凪沙は困ったように眉尻を下げるだけ。

「あなた、中学が何部だったの?」

「囲碁将棋チェス部です。運動部はちょっと、家庭事情もあって……」

 囲碁将棋チェス部。ばりばりの文化系の部活である。勿体ねえ、と話を耳にしている部員たちは誰もが思ったことであろう。だが、その理由を聞くともはや何も言えず。高島も意外そうに目を丸くした。

「あら、今は平気なの?」

「はい。でも中学で何もやってないだけに、高校で始める気もなくって。茶道部とか放送部に入ろうかなーと思ってたんですけど、さっちん──クラスメイトの梅本さんに誘われて、野球部の見学に来たんです」

「なるほどね」

「プレイヤーじゃなくてサポート側に回るって発想がなくて、目からウロコ落ちた気分でした。しかも、やってみたらこれが楽しくて楽しくて!」

 それが入部の決め手です、と凪沙は少し照れたようにはにかんだ。梅本の誘いがなければ、凪沙はこうして野球部員のさばる食堂でPCと向き合うことはなかったのか。そう考えれば梅本にお礼を言いたいような。しかして今尚積もるこの感情を思うと、何てことを言いたくなる自分もいて。

「囲碁将棋チェス部──だったのか」

 そんな声がかかり、誰もが声の主を振り返る。結城哲也がいた。それはもう意気揚々としたオーラが見えるほど。

「俺は将棋が趣味なんだが、中々相手がいなくてな──天城、打てるのか?」

「人並みには、って感じです」

「では一局、どうだ?」

「これだけ入力しちゃっていいですか? その後なら大丈夫です!」

 にこにこと人当たりのいい笑顔を浮かべて快諾する凪沙に、結城は満足げに頷いた。結城の将棋好きは部内でも有名だ。御幸もたまたまルールを知ってたばかりに何度も何度も勝負を挑まれる羽目になった──ただ。

「あー、天城」

 話が終わり、仕事に戻る凪沙に部員たちもまた食事を開始する。そして食堂には未だ食事に慣れない一年ばかりが残る。御幸もそうだ。上級生たちはさっさと食事を終えると自主練やミーティング、或いは入浴に向かい、誰もいない。そんな隙を見計らって凪沙に声をかける御幸に、彼女はいつも通り朗らかな笑顔を浮かべる。

「ん? どうしたの御幸くん、おにぎり?」

「あー、いや。今日は平気。そうじゃなくて、哲さんのこと」

「結城先輩?」

 話ながら凪沙はカチカチとパソコンを操作し、画面が暗くなる。ちょうど作業が終わったらしい。ぐっと伸びをする凪沙に言おうかどうしようか迷いはしたが、一応先輩だし、俺ら後輩だし、と内心誰にするでもない言い訳をして、続きを話す。

「哲さん、趣味だって言ってるけど、あれで将棋、めちゃくちゃ弱ぇーから」

「え、意外。うわどうしよ、手加減できるほど私も得意じゃないんだけど……」

 やはり凪沙も似たような発想になったのか、参ったなあと苦笑する。そう、結城哲也は無類の将棋好きであったが、その熱意に反比例してその腕前は小学生レベル。御幸も何度となく勝負を挑まれ、何度となく負かしてきた。仮にも先輩、連戦連勝するのも気が引けるので、御幸は結城との勝負を可能な限り避けるようになった。凪沙も同じような考えだったらと思っての助言だったが、どうやら正解だったようだ。

「だから、あー、まあ、適当にいなしていいと思うぜ。あの人、再現なく『待った』するし、そんなんに付き合ってたら、帰る時間も遅くなるだろ」

「うーん、それは困るなあ……」

「最悪、打てる奴に押し付けて帰っていいから。……俺、とか」

 言ってて何だか変な気分になり、御幸の言葉はだんだん尻すぼみになる。なぜこんな気分になるのか。おかしい。これは断じて嫉妬ではない。断じて、結城と凪沙の接近にどうこう思ったわけではない。自分と同じように、弱いのに勝負勝負と挑んでくる結城への対応策を助言しただけだ。同じ立場の人間に対し、慮っただけ。ただ、それだけだ。だというのに、『俺を頼れ』とほぼニアリーイコールの発言をしてしまった気がする。いやこれは不可抗力だ。自分に言い聞かせる御幸に、凪沙は朗らかに微笑んでお礼を言った。ありがとう、と。その顔に、むずむずとした感覚が湧き上がってくる。

「てことは、御幸くんも打てるんだ」

「ルールぐらいは、ってレベルだけどな」

「じゃ、いつか御幸くんとも一局お願いしたいな」

「部活でやってた奴には敵わねえよ」

「私、専門はチェスなんだけどな。しかもほぼ幽霊部員だったし……」

「チェスできるなら将棋もいけるって」

「いやー、どうだろ。御幸くんあったまいいからなあ、相手になるかどうか」

「んなことねーって。まあ、哲さんには二枚落ちでも勝てたけど」

「結城先輩のそんなウィークポイント、知りたくなかった……!」

 頭を抱える凪沙に、御幸はケタケタ笑う。それから風呂上がりの先輩たちが戻ってきて、凪沙と結城の対決が始まった。それを見守りたい気もなくはなかったが、一年生の入浴時間が差し迫ったので渋々その場を離れる他なかった。

 一日の疲れを癒すように、夏場だろうが湯船には肩まで浸かるのがルールだった。チームメイトとあれこれ話しながら、御幸はゆっくり湯船に沈む。今頃、凪沙は結城の弱さに頭を抱えながら、相手の気を悪くしないよう、一手一手を選んでいる頃だろうか。容易に想像できる横顔を思い、突如御幸はハッとしてかぶりを振る。そんなつもりはない。そんなつもりは、毛頭ないのだ。だというのに、今日だけで様々な凪沙の一面を見てしまった。汗を流しながらクラスメイトと共に駆け抜ける姿、まっすぐ伸びた白い腕、ボールを見据える真剣な目、弾けるような笑顔、御幸に語り掛ける時の、柔らかな眼差し──ただの、ただのチームメイトだ、ただの、景色、ただの、光景だ。そう念じながら御幸は口元までお湯まで浸かる。

 ああ今日もまた、季節外れの雪が積もる。

(球技大会のお話/1年夏)


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