御幸一也と結婚する

『伸びた伸びた伸びていく──!! は、入った──っ!! 逆転二ランホームラン〜〜〜!! 四時間にも及ぶ激闘は、御幸一也のバットが終止符を打った──!!』

 アナウンサーの興奮に満ちた声を聞きながら、天城凪沙は自宅で先ほど球場で見た光景をテレビ越しに見直す。何度見ても惚れ惚れする弾道でボールは観客席に吸い込まれていく。御幸がプロ野球選手になって初めて、日本シリーズを制した決定打。これは向こう数十年忘れられそうにない。プロ野球選手も五年目、安定して一軍の試合に出れるようになり、野球選手としては順調にキャリアを積み上げている、といったところか。

 そんな凪沙も、この春から社会人になった。無事希望の企業に就職し、毎日社会の荒波に揉まれながら、御幸を応援する。覚えることも身に付けることも多すぎて御幸とは疎遠に──とはならず。そもそも大学時代の方が土日もバイトを入れ、サークルだの球場観戦だの勉強だのでスケジュールがみっちみちに詰まっていた。寧ろ社会人になることで土日は必ず休みになり、自由な時間が増えたほどだった。強いて言えば運動をする機会が少なくなってしまったぐらいか。御幸に倣ってジムに通うべきか。しかしスポーツは好きだが筋トレはそこまで好きじゃない凪沙は、自宅に着実に増えていく筋トレグッズを見ながら嘆息したのだった。

 その時、玄関で物音がして凪沙は弾けるように立ち上がった。

「え、あれ?」

 ダッシュで玄関まで飛んでいくと、そこには愛しい恋人の姿。つい数時間前まで球場にいたはず──おまけに日シリを制したばかりだというのに──何故此処にいるのだろう。

「おかえりっ! けど早くない?」

「早く会いたかったもんで」

「毎日会ってるでしょ、もー」

 マスコミの対応などもあるだろうに、それでも自分会いたさに飛んで帰ってきてくれるのだから、これほど嬉しいことがあるだろうか。同棲を初めて半年以上経過するが、それでも御幸の愛情に陰りはない。喜ばしいことだと、両腕を広げる御幸の胸に飛び込みながら凪沙はそんなことを考えた。

 就職を機に引っ越しをしたい、という凪沙の要望に対して『じゃあ俺も寮出る』の一言により、二人の同棲はつつがなくスタートした。最初は『家を買う』とか言い出したのだから、ひとまず同棲からお願いしますと頭を下げる羽目になった。引っ越しの手間を考えればそれも悪くない手ではあったが、彼の年棒を考えると──考えなくてもだが──安い買い物にはならない。もっと時間をかけて、自分たちに必要なものをゆっくり考えたかった。それで、結局凪沙の月収ではとても払えないようなマンションに越す羽目になったので、どっちがよかったのか未だに悩むほどだ。

「おかえり。今日もかっこよかったよ!」

「ただいま。いつも応援、ありがとな」

 けれど当たり前のように『おかえり』と『ただいま』が言い合える。それだけで、まあいいか、なんて思ってしまうのだった。

 腹減ったと言う御幸の為にキッチンに向かうも、御幸はノコノコと凪沙についてくる。座っててもいいと言っても、凪沙の背後にぴったりとくっついて夕食を温め直すだけの作業を凝視してくる。広いキッチンだからって、火を扱うのだから離れて欲しいものである。

「つーか、寝ててよかったのに」

「いやあ寝れないよ。あんなの見ちゃったら目が冴えちゃう」

「仕事は? 明日休みだっけ?」

「うん、在宅だったけど休みにしちゃった。御幸くんも?」

「あー……オフの予定だけど、多分取材あるから昼ちょっと出るかも」

「はいよお」

 野球選手の生活サイクルは常人とは異なる。夜の試合が長引けば帰宅は日付が変わるか変わらないかといった時間。ミーティングやらトレーニングがなければ二十三時前後には帰れるが、そんな日は滅多になく。ましてや球場が関東圏外であれば、帰宅にもっと時間がかかる。そこから夕食を取って試合の振り返りしてから就寝なのだから、それに付き合っていたら凪沙も仕事にならない。とはいえ明日は休みだし、そもそも在宅勤務メインなので出勤時よりは遅くまで起きていられるので、こうして夕食時に緩やかな時間を過ごすことにしているのだが。

「……どうかした?」

「あー、いや」

 どうしたことだろう。今日の御幸はどうにも落ち着きがない。入団初めてもたらした『優勝』に、興奮冷めやらぬといったところだろうか。御幸はこう見えてテンションが上がると言動に現れやすい。いくつになっても可愛いものだと思いながらビーフシチュ―の鍋の火を止める。

「座ってていいよお。持ってくから」

「えー、と……」

 だが御幸はその場から動かない。視線を泳がせ、何か言いたげな表情のまま凪沙の行く手を阻むようにキッチンの入り口で立ち尽くしている。流石に様子が可笑しいと、ミトンしたまま御幸に向き合う。

「お腹空いてない?」

「いや、すっげえ減ってる」

「先お風呂する?」

「や、向こうで入ってきたし」

「……そ、それともわ、た、し、的な……?」

「それは後で頂くけども」

 頂かれるらしい。真顔で返す御幸にモジモジとしながら頷く凪沙。そんな凪沙に対し、御幸は未だ言葉を選びあぐねている。辛抱強い凪沙は御幸の言葉の続きを待ちながら、その端正な顔をじっと見上げる。気まずさを感じさせない、不思議な沈黙が続くことしばらく。トースターからパンの焼ける匂いが漂ってくる頃、ようやく御幸は口を開いた。

「……それ」

「これ?」

 御幸の指差す先は、凪沙の手だった。赤いミトンがすっぽりと被さっている。ただ、昨日今日買ったようなものではなく、引っ越す前から凪沙の家にあったものだ。

「取っていい?」

「……いいけども?」

 疑問は浮かぶも困ることはないので否定はせず、両手を差し出す。御幸は素早く左手のミトンを引っこ抜く。冷えた空気に触れた指先が丸くなるも、熱の籠った御幸の手がそれを防ぐ。瞬きしながら繋がれた手を見ていると、試合の時ぐらい神妙な表情を浮かべた御幸がポケットから何かを取り出して──。

「あ」

「五年、待ったぜ」

 左手の薬指に光るそれに、思わず呼吸が上ずる。ピンクゴールドのリングに、眩いばかりのダイヤモンドが乗せられた指輪をじっくりと見たいところだったが、それ以上に凪沙は御幸の目に吸い寄せられてしまう。

「サヨナラホームランをお前の為にー、とか言うつもりはねえけどさ」

「……うん」

「でも、この指輪はお前の為に買ったから」

 ぎゅ、と指先を握られる。あの約束の夏から五年と数か月。ほんの少しだけ大人になった自分と御幸は、ついにここまでやってきた。これまでも色々なことがあった。きっとこれからも、色々なことが起こるだろう。それを望むための約束が、五年の月日を経て果たされる。

「あんま気の利いたこと言えねえからさ」

「うん」

「単刀直入に言うな」

「うん」

「俺と、結婚してください」

 答えなど決まったも同然。涙を零しながら御幸に飛びつく。片手にミトン、片手に婚約指輪。エプロンつけたまま、今は日付も変わろうかという時間帯で、ここはビーフシチューとパンの香りで満たされたキッチンで。あまりロマンもお約束もないようなシチュエーションだけれど、それでよかった。これが、彼らしいと思ったから。

「そう言うと思って、明日休み取ったんだよ」

「なんだそれ、どういうことだよ」

 くしゃりと笑う声が耳元をくすぐる。首元にぎゅっと手を回しながら、滲む視界をそのままに凪沙は笑う。

「明日、役所に行こ!」

 予感はあった。だから、先週のうちに役所に行って婚姻届けを貰いに行ったし、明日も休みをもぎ取った。まさか優勝までもたらすとは思わなかったが、忘れるはずないだろう。五年と少し──より正確に言えば、就職した後のシーズンが終わるまで──という歳月は、凪沙が御幸に課したのだから。

 そこまでお見通しなのかよ、どこか悔しげな御幸の声を聞きながら、凪沙はまたけらけらと笑った。



***



 夕食後、紙一枚に名前や住所を綴る。判を押し、あとは証人にも自署押印の上で役場に届ければ、晴れて二人は夫婦になる。紙切れ一枚で御幸はもう今後愛する人の存在を隠さなくて済むようになる。メディアに出すつもりはさらさらないが、それでもどこへ行くにも凪沙の存在をひた隠しにするような日々とはおさらばだ。

「そういやさ、苗字どうする?」

 ふと、ペンを走らす手を止める。御幸は当たり前のように彼女が嫁入りするものと思っていたが、本人の確認を取っていないことに気付いた。自分が婿入りする想定はしていなかったので、そうなったら球団にどう話をつけたものか。登録名はまだしも、ユニフォームも変えるとなれば手間だ。グッズも全部作り直しになるのだろうか。旧姓のグッズは転売が横行しそうだな、そこまで考えた御幸だったが、凪沙はきょとんとするだけだった。

「どっちでもいいけど、希望ある?」

「そりゃまあ……俺としては嫁入りしてくれる方が嬉しいけど」

「珍しい苗字だもんねえ。守っていきたいよね」

 いいよいいよと笑う凪沙にほっと胸を撫で下ろす。確かに彼女の言う通り『御幸』は東京圏ではかなり珍しい苗字だ。全国に数十人いるかどうかという規模である。先祖代々続くその姓を守りたい──という理由ではなく。

「婿入りでもいいんだけどさ、そうなったらお前一生俺のこと『御幸くん』呼びしそうだから」

「……」

 そう告げた瞬間、凪沙の動きがぴたりと止まる。そう、付き合って六年にもなるというのに、凪沙は未だ『御幸くん』呼びである。たまに、ほんのたまーに名前で呼べと言えば恥ずかしそうに呼ぶようにはなったが、未だにその癖は治らない。だが、それも今日で最後。この紙にサインをしたら最後、もう『御幸くん』はご法度である。

「お前も『御幸』になるんだから、いい加減観念しろよ?」

「……や、やっぱ婿入りして欲しいなあ〜……仕事も軌道に乗ってきたしクレカとか通帳の名義変更めんどくさいしうちも女家系だし、それから──」

「他に言い訳ねえの?」

 相変わらず妙な理屈をこねくり回す凪沙。今に始まったことではないので、御幸は気にせず婚姻届けを埋めていく。そうして全て書き切ってから、それをくるりと凪沙の方へと向ける。

「ほら、もう逃げられねえぞ」

「に、逃げてるわけじゃないけどお……」

「ほら書いた書いた。明日もはえーんだから」

 うぐ、と呻きながら、それでも凪沙は婚姻届を受け取ってペンを走らせる。見慣れた癖のある文字が御幸の名前の横に綴られていく。それを眺めているだけで、胸が温かくなる。この光景を、この日を五年も夢見てきたのだから、その達成感たるや。

「あ、証人欄どーすんの」

「明日御幸くんが──」

「凪沙」

「しゅ、取材受ける前に実家帰れればな、と……」

「凪沙」

「……か、かず、くんのおうちにも、その後行こうかな、などと……」

 これが明日には妻となるのだから、先は思いやられる。この調子だと恥ずかしがって名前を呼ばなくなりそうなので、うまくコントロールする必要があるなと御幸は一人腹を据える。普段は聞き分けのいい彼女だが、名前を呼ぶという行為だけはどうにも頑固だ。全く、と思いつつ、それもまた嫌ではないのだから驚きだ。

 この先何十年と時間はある。ゆっくり慣らしていけばいいのだから。

「これからよろしくな、凪沙」

「う、うん。これからよろしく、み──えと、一也、くん」

 照れたようににこりと笑う恋人が、明日から妻になる。関係性が変わるだけで、御幸たちを取り巻く何もかもが変わっていくだろう。球団にも報告しなければならないし、マスコミにも結婚ぐらいは言っておかないと変にすっぱ抜かれても面倒だ。結婚はしたらしたで騒がれることも多いし、SNSも荒れるだろうとフロントは苦言を呈してた。事実、イケメン選手の結婚はグッズの売り上げに響く。グッズの売り上げは年棒の査定に関わるのだから、敢えて結婚を発表しない人だって少ない。

 それでも、御幸と凪沙の関係は変わらない。この何でもないような穏やかで、緩やかな時間が何十年先も続いていくよう努める。この六年互いに歩み寄ってきたように、この先もそうしていく。変わるのはきっと、彼女の名乗る名前と、彼女が御幸を呼ぶ名前だけ。そうであればいい、と思う。そうであり続けよう、とも。この手を取ってくれた彼女を、後悔させないためにも。

 ──ただ、それでも思うところがないわけではなく。

「……あのさ、やっぱ『くん』は無しにしねえ?」

「う、う……前向きに検討させていただきます……」

「お前それ無茶振りされた取引先にも同じこと言ってるだろ」

 時折彼女の仕事部屋から聞こえる声と全く同じことを言うのだから困ったものである。だが、それでもいいと御幸は思っていた。前途多難な方が燃える、御幸一也はそういう男だからだ。

 そういうところもきっと、今までも、これからも、変わることはない。

 二人で決めた速度で、変わることなく、歩き続ける。

(結婚するお話/プロ5年目秋)

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