御幸一也は焦っていた。自分の人生においてこれほどピンチだったことは他にないと断言できるほど。理由はシンプル、恋人からの連絡を絶って欲しいと言われたまま音信不通になってしまったからだ。 あの悪夢のような打ち上げから二週間ほど経過した。それまでは毎日欠かさず来ていた凪沙からの連絡は、一切ない。メールボックスはいつまで経っても新規メールを受信しないまま、ただいたずらに時だけが流れていく。御幸はどうしてこんなことになっているのか、まるで理解ができない。恐らく、凪沙にとって何か思うところがあるとしたら、それはあの日の打ち上げ。確かに、彼女は怒っていた。薬を盛られていたため記憶は定かではないが、珍しく怒りを露わにしていたような。けれどそれは御幸に薬を盛った女に対してであって、御幸自身に対してではなかったはずだ。 ただ、御幸は病院で目を覚ましてから凪沙と会っていない。御幸が気を失っている間に何かあった可能性もなくはないが、凪沙に接触したと思われるマネージャーに聞いても特にそれといったトラブルはなかったという。御幸を病院に連れ込み、マネージャーと合流し、御幸を預けて彼女はタクシーで帰っただけ。寧ろ学生とは思えない冷静さで、マネージャーは凪沙を高く評価していたほどだ。話を聞く限り、トラブルが起きたようには思えない。凪沙に聞くのが一番早いとは分かっている。分かってはいるが、向こうから直々に『連絡してこないで欲しい』と釘を刺されてしまったのだ。どの面を下げて会いに行けと言うのか。だから御幸は身動きが取れないまま、一日一日と日が過ぎていくのを待つ他なかった。 「はあ……」 もともと、オフシーズンだからといって毎日彼女に会っているわけじゃない。シーズン中は月に一度会えるか会えないかという頻度が、二週に一度に縮まる程度。それでも、メールだけは毎日欠かさず来ていたのだ。高校時代からずっと、続いてきたルーティンがぷっつりと途絶えてしまった。それだけで心がざわつく。こんなにも長く凪沙と接しなかったのは、出会って以来無かったほどだ。 単刀直入に言えば、不安で仕方がない。理由も分からず、凪沙が距離を置き、そのまま彼女の心まで離れてしまうのではないか、と。焦燥と不安が入り混じり、トレーニングにもろくに集中できないほど。先の事件のおかげでメディア演出や取材は『体調不良』を理由に上が断ってくれているのは、不幸中の幸いか。いや、そもそも先の事件がなければ凪沙とこんな気まずい空気にならなかったはずだ。何が不幸中の幸いだ。ふざけるな。 「……で、だからってなんで俺に泣きつくんだよ」 「そりゃもう、経験豊富な倉持くんのアドバイス聞きたくて?」 「わりーな、人違いだったみてえだわ」 「だーっ、帰るな帰るな!」 そこで一番頼りになる──御幸にとって弱味を見せられる相手、ともいう──倉持を個室の居酒屋に呼びつけたわけだが、話を聞くなり席を立とうとするのだから御幸は慌てて引き留める。経験豊富は流石に言い過ぎだが、それでも倉持の人を見る目や場の雰囲気を読み取る力には敵わないと思っている。けれど予想に反し、倉持は諦めたように首を振るだけだった。 「つっても、天城とは春の同窓会以来会ってねえぞ」 「連絡も?」 「しねえよ。用事もねえし」 倉持にしてみれば、凪沙は良き同期ではあるものの、同級生の恋人である。変にちょっかいをかけるのも、と思う程度には気を遣っている様子。故に倉持には事の経緯を洗いざらい話す羽目になった。番組の打ち上げでバーの個室に連れていかれたこと、凪沙には連絡を付けたものの一服盛られて前後不覚になり、あわやというところで凪沙に助けられたこと、彼女の運転する車で病院に連れていかれたこと、それから連絡を拒絶されたこと──。 「……やっぱ、俺が悪い?」 御幸自身もそうだが、凪沙は滅多なことでは腹を立てない。怒りを抱き、怒鳴っている姿を想像するのが困難なほどだ。だからきっと、御幸が悪いのだ。だが、彼女が何に怒ってるのかが分からない。女優と二人きりで飲んだから? けれど彼女には電話もしたし、電話した時は怒っていなかった。薬を盛られたから? けれどそれは盛った方が悪いのであって、御幸は被害者だ。面倒事に巻き込んだから? 言ってはなんだが、彼女は似たようなトラブルには何度も巻き込まれている。それが理由とは思い難い。 だから第三者の意見が聞きたかった。凪沙に聞けない今、どうにかして彼女が機嫌を損ねた原因を推測する他ないからだ。だが、話を聞いている倉持はビールジョッキを傾けながら、どこかぼんやりとした表情で。 「聞いてんのかよ」 「知らねーよ。俺は天城じゃねえ」 「し、知らねーって……」 それはそうなのだが、その回答はあんまりではないか。凪沙に聞けるならとっくの昔にそうしてる。それができないから倉持に相談しているというのに。 「お前はどう思うんだよ。やっぱ……俺が悪い?」 「そりゃ悪いと言えば悪いだろ。彼女いんのに他の女とサシ飲みなんてよ」 「仕方ねえだろ、上がセットしたんだから……」 「そういう『仕方ない』を、お前は何回天城に飲ませたんだか」 「……」 それは──と、反論しようとして、御幸はウーロン茶と共に言葉を喉奥に流し込んだ。倉持の言う通りだった。仕方ない、どうしようもない、今回限りだから。そんな言い訳と共に、何度彼女に無理を強いただろう。そういう道を進んでいくと決めたから、なんて免罪符に有効期限があると、どうして気付いてやれなかったのか。 「いいか、女の怒りは『ポイントカード制』だぞ」 「ポイントカード制?」 「溜まる一方、ってことだ。おまけに失効もしねえ」 何か思うところがあるのか、ジョッキ片手にそう語る倉持の顔はどこか説得力があった。彼もまたポイントを溜めまくってトラブルを起こしたのだろうか。流石にそこまで聞く気にはなれなかった御幸は、もう一度ウーロン茶を呷る。 凪沙もそうだったのだろうか。色んな『仕方ない』が溜まりに溜まって、爆発してしまったのだろうか。ならばなぜ、それを口にしてくれないのか。昔からそうだ。もっとワガママになっていいのに。もっと怒ってもいいのに。もっともっと、欲を見せてもいいのに、彼女はそうしない。そうしてあの小さな身体に不平不満が積もってしまうくらいなら、殴られてでも凪沙の口からそう聞きたかった。 「……別れたくねえ」 「んじゃ死ぬ気で謝るんだな」 「連絡すんなって言われてんだけど」 「素直に聞いてる余裕あんのか?」 「……どうしたんだ、って聞いたんだよ」 無論、御幸だって突然『連絡をしてくるな』と言われてノーモーションだったわけじゃない。そのメールを見た瞬間電話をしたのだ。どうかしたのか。何かあったのかと。けれど彼女は答えなかった。電話を即座に切られ、代わりに、いつものような飾りっ気のないメールが一通届いていて。 『ごめん。自分でも何に嫌なのか分かんないの。だから、少し考える時間をください』 これを見て、御幸は完全に打つ手を無くしたと思ったのだ。何か思うところがあるのに、本人すらそれを言語化できないというのに、一体何を問い詰めればいいのか。無論、これが嘘だとは思わなかった。彼女はどこまでも誠実だ。例え御幸に対して憤ることがあったとしても、嘘だけはつかないという信頼と確信があった。だからこそ御幸は待ったのだ。彼女の考えがまとまるまで、待とうと決めたのだ。なのに一週間、二週間と過ぎても音沙汰がない。 「俺だって、あいつからの連絡待つつもりだったよ……けど、二週間も連絡ないんだぜ。流石に焦るだろ……」 「三日経って解決しない問題が二週間かけりゃ解決すんのか?」 「だったらどうしろってんだよ……家に押しかけるのが正解なのか?」 「知らねーよ。いつも喧嘩した時どうすんだよお前ら」 「喧嘩したことねえし……」 「はァ!?」 この時初めて、倉持が怒りにも似た感情を露わにした。そう、叱られたり咎めたり、そういった些細な口論はあれど、連絡を絶つほどの喧嘩をしたのは初めてだったのだ。だから、喧嘩した時どうすればいいのか分からないのだ。何故なら御幸にとっても凪沙にとっても、付き合う相手は互いが初めてなのだ。こういった緊急事態における対応策がまるでない。 「……お前ら付き合って何年だ?」 「四年と半年」 「それで喧嘩初めてってお前らなんなんだよ。気持ち悪りぃ!」 「しなくて済むならそれに越したことねえだろ」 「そんで天城の不満が爆発しちゃ世話ねえだろーが」 ぐうの音も出ない反論である。今まで喧嘩にならなかったのは──無論、御幸だってあまり喧嘩腰にはならないよう努めたが──、やはり一番は凪沙の努力の賜物である。何度も面倒事に巻き込んでも、彼女は笑ってそれを許した。大変だね、信じてるよ、大丈夫、御幸にとってそんな耳障りのいい言葉を並べてくれた。それが嘘だったとは思わない。だが、本人も気付かぬうちにその不平不満が溜まって、結果がこれである。 「じゃどうすりゃいいんだよ……俺もう限界なんですけど……」 「本人に聞く以外ねえだろ」 「当の本人も理由が分かってねえのに?」 「オメーも一服盛ればいいだろ、あいつが素直になるように」 「はあ!?」 事もなげに語る倉持はイカのぽっぽ焼きに箸を入れ、食欲をそそる匂いが部屋いっぱいに広がる。だが、箸を伸ばす気にもなれない御幸は倉持をねめつける。 「どういう意味だよ」 「薬は薬でも、『百薬の長』を頼るんだよ」 そう言いながら、空っぽになったビールジョッキを手にする倉持。何を言いたいのか察した御幸は、まさかと顔を引きつらせる。 「春の同窓会、忘れたとは言わさねーぞ」 *** 倉持の作戦はこうだ。まず、凪沙をべろべろに酔わせる。酔った凪沙は自分でも驚くほど正直になる。その状態の凪沙に何が原因で腹が立っているのかを聞く。以上。とてもシンプルな作戦である。シンプル過ぎて、そんな方法すら思いつかなかったと感心半分、そう上手くいくかと呆れ半分であった。とはいえ他に方法を思いつかない御幸は、倉持の案に乗っかることにした。 ただ、困ったことに御幸と違い、その失敗を記憶していた凪沙に酒を飲ませるのは困難極まりなかった。なにせあれ以来、自宅以外の場所でアルコールを口にしなくなったほどで、友人たちとの集まりでも頑なにノンアルコールを貫いているという。御幸は拒絶されており、倉持だって凪沙と飲むほどの仲ではない。というわけで、倉持は助っ人を用意した。夏川と梅本だ。彼女たちにも事情を説明し──恥の上塗りでしかないが、背に腹は代えられない──、次回の青道同窓会の飲み代は全て御幸が持つことを条件に、元マネージャー二人も協力に応じた。 作戦はシンプルだ。夏川と梅本が凪沙の家に遊びに行き、酒盛りをする。酔いが回った頃にマネージャー二人が御幸に連絡し、御幸とバトンタッチする、というもの。凪沙も家でなら酒を飲んでくれる上に、凪沙は普段家はチェーンをかけているので、協力者なしには合鍵を持っている御幸でさえ家には入れない。これ以上ない作戦だと思った。全員のスケジュールを調整し、女子会という名の仲直り会は凪沙の知らぬところで計画は進められたのだった。 そして、倉持との相談からわずか一週間で、Xデーを迎えた。 『じゃ、凪沙が出来上がったら呼ぶから』 「りょーかい。お前らもつられて飲みすぎんなよ」 『あー、凪沙結構強いからな〜……酔い潰れてたらごめん』 「こらこら」 なんとも頼りない梅本の言葉を最後に電話を切って、御幸は車内で伸びをする。御幸は凪沙の家の近くのジムの地下駐車場で、梅本たちから連絡があるまで待機を命じられた。暗い車内の中、御幸はただ凪沙がべろんべろんに酔っぱらうまで待つ。今頃、何も知らない彼女は二人の友人を出迎えている頃だろうか。 早く会いたい。不満があるなら、声に出してほしい。どんなことでも、受け止める。こんな思いをするのは二度と御免だ。そりゃあ、この道を諦めることはできない。彼女にはきっと、これからも『仕方ない』と飲み込んでもらう他ない瞬間が何度も訪れるから。何度でも謝って、何度でも償って、何度でも、何度でも、何度でも──。 それから二時間ほど経過した頃だろうか。ポケットに仕舞った携帯が振動した。 「──!」 この携帯に連絡できる人間はそう多くない。ディスプレイに浮かぶ梅本の文字を見て、御幸は迷いなく電話を取った。 「上手くいったか?」 『ばっちり。でも、凪沙に焼酎は飲ませない方がいいかもね』 「そんな酔ってるのか」 『ワインも日本酒も平気なのに、焼酎一杯で撃沈よ』 「撃沈したら困るんですけど」 『大丈夫大丈夫、受け答えはできる程度には意識保ってるから』 そんな電話をしながら御幸は車を降り、足早に凪沙の家に向かう。電話の向こうで、『おつまみ買い足してくるね!』という夏川の明るい声とごそごそと外出の準備をする物音が聞こえる。そして。 『はあーい、りょおかあ〜い』 その時、久々に聞く凪沙の声に一瞬足が止まる。次の瞬間、御幸は駆け出していた。会いたい、早く。一秒でも早く。そんな思いで彼女のマンションに駆け込み、慣れた足取りは考える間もなく彼女の部屋まで向かう。すると御幸が凪沙の家に辿り付いたタイミングで、コートを着た梅本と夏川が出てきた。 「悪いな、女子会中に」 「いえいえ。仲直りしたらちゃんと報告してね!」 「あとはよろしく!」 そう言いながら帰る二人がエレベーターに乗り込むのを見届けて、御幸は凪沙の家に上がり込む。家ではテレビでも見ているのか、賑やかな音楽が廊下の向こうから流れてくる。この家に訪れるのも久々だ。そんな逸る気持ちを押さえながら部屋に入れば、御幸が贈ったコタツに潜り込む恋人の姿をすぐさま見つけた。 「あれえ、帰るの早いね──」 そう言いながら酒に赤らんだ顔を上げた凪沙は、御幸を見るなり表情を凍り付かせた。まるで酔いが醒めてしまったかのようだ。しまった、それは流石に想定してない。二の句が継げずにいる御幸に、凪沙はきゅっと唇を噛み締める。そして。 「みゆ、く……な、なんで……」 「……納得できねえよ、メールだけじゃ」 そうだ、彼女の言う通りちょっと時間を置く程度で解決するならそれでよかった。だが、倉持の言うように長い時間を置いたからと言って解決するとも限らない。何より、これ以上凪沙を断つのは無理だ。なのに彼女は、気まずそうに視線を逸らすだけ。 「……あいたく、なかった」 ぐさり、とナイフで心臓を抉られたような気分になる。ふにゃふにゃと酔っぱらっている凪沙は何故か本当のことしか言わなくなると、知っていればなおさらだ。だから御幸は、震える唇を噛み締め、膝を抱えて丸くなる凪沙の頬に手を当て噛みつくような口付けをした。 「言うなよ、そんなこと」 「みゆ──んっ」 「嘘でも、聞きたくねえ」 酒気を帯びた吐息を飲み込み、ひたすら貪るような口付けを繰り返す。身を捩って逃げ出そうとする細い身体を抱き寄せる。嫌だ、離したくない。そんな子どものような我儘が御幸を支配する。 「なん、で……っ」 アルコールにふやけた身体ではろくに抵抗もできないのか、凪沙は御幸を押し退けようともがくもこの逞しい腕からは逃げられない。けれどぽろりと流す涙に、脳みそがさっと冷水を浴びせられたような気分になる。 「泣くほど、俺のこと嫌になったのかよ」 「そうじゃない、そうじゃない、けど」 「けど、なに」 「……だって、」 ぽろぽろと、静かに涙を零す恋人の顔は心臓に悪い。去年、風邪を拗らせた時の彼女も、こんな顔をして泣いていた。御幸を思うがあまり、己を押し殺した彼女は、こうなってしまうのか。 「けんか、したくない」 「していいんだよ」 「おもにに、なりたくない」 「軽すぎて不安になるぐらいだっつの」 「やだあっ……」 ぐずる子どものようにしゃくりあげながら、御幸にしがみついて涙を流す凪沙。ぎこちない手であやすようにその背を撫でれば、凪沙はますますしがみついてくる。 「みゆ、くん、は、やきゅう、で、いっぱいで」 「だからって、こんなことされたら身が持たねえよ……」 「ヤなこと、言いたくないぃ……っ」 「お前と話せない方がよっぽど野球に集中できねえって」 「うそだあ……みゆきくんはそんなよわくないぃ……」 「弱えよ。この三週間、ろくにトレーニングもできてねえんだぞ」 「そんなのかいしゃくちがいだもんんん……」 ああ言えばこう言う女である。こんなに面倒な性格だったのか、と四年付き合って初めての発見だ。めんどくさい。普段の聞き分けの良さはどこに行ったのか。けれど、不思議とそれが不快じゃない。寧ろ、得も言われぬむずむずとした気分になる。泣きじゃくる彼女の顔はあまり見たくないけれど、この面倒くささは、寧ろ。 「俺はお前が思うほど強くねえよ。だから、もう限界なわけ」 「私は、みゆき、くんを、思って!」 「俺のこと思うなら、ちゃんと話してくれよ」 「みゆ──くんの、わがまま……っ!」 「お前がそうさせたんだろ」 その一言に、凪沙はハッとしたように目を瞠った。まるで夢から目が覚めたような、そんな表情だった。 『──御幸くんは、さ。自分が思ってるよりずっとすごくて、強くて、ちゃんとしてる人だから、人に、期待しない。だから、我儘に、なれない』 いつか彼女は、御幸にそう言った。当たらずとも遠からず、と思っていたその一言は、いつしか御幸を変えていくには十分すぎた。凪沙と共に過ごすうちに、どんどん我儘になっていく。人に──彼女に、期待してしまうようになった。凪沙がいなくては、人生を捧げた野球すら集中できなくなるほどに。でも、その変化は御幸にとっては心地のいいものだった。だから。 「言ったろ。ちゃんと、謝らせろって」 会いたくなかった、なんて言われるぐらいなら。こんな顔で泣かれてしまうぐらいなら、その咎を一心に引き受ける。どんな責め苦も、彼女の声なら何だって受け止めるから。それで何ができるのか、何が改善がするのか、分からない。だが、二人でなら、乗り越えられる。そう思ったから、この小さな体を強く強く抱き締める。離す気なんてさらさらないのだと、告げるように。 その抱擁に、ついに堅牢な城壁は崩れ去っていったのだろうか。ぐずぐずに泣いていた彼女から、徐々に不平不満が零れ落ちていく。 「みゆ、くんの、あほお……っ」 「ごめんな」 「じぶんのみりょくを、じかくしろー……」 「ん、ごめん」 「おとこだからって、ゆだんしすぎぃ……」 「反省してる」 「わたしぐらい、けいかいしろー」 「勉強させてもらいます」 「……おねがい、だから」 ひと際大きくしゃくりあげながら、彼女は涙に声を濡らしながら懇願する。 「だいじょうぶだなんて、おもわないで」 それは凪沙自身のことなのか。或いは、御幸自身のことなのか。もしくは、その両方か。ぐずる凪沙を強く抱きしめながら、思う。こんなの全然、重荷にはならない。こんな柔らかな嘆きのどこが、御幸を歩みを止められるのだろう。こんなものを溜めこんで、『会いたくない』だなんて言われる方が、よっぽど毒だ。 「約束する」 酒と泪でぐちゃぐちゃになった彼女にそう告げて、濡れた瞼に口付ける。何度も何度も、その涙を拭い取るようにキスをして、その背中をさする。何度でも慰めるからと。何度でも謝るからと。何度でも償うからと、誓うように。言葉のない誓いに、凪沙の潤んだ瞳が緩やかに細められる。 「やくそくだよ」 そうして、友と酒の力を借りてではあるものの、二人の仲は無事修復されたのだった。泣きながら眠りに落ちた彼女が目を覚まして、酒は卑怯だ友達を使うなとぐちぐち文句を言ってきたが、終わり良ければ総て良し。困った時は焼酎だな、と笑う御幸に凪沙は生涯焼酎だけは口にしないよう心に決めるのだが、この後も何故か事あるごとに摂取する羽目になるのだった。 (ちゃっかり元鞘に収まるお話/プロ3年目冬) |