御幸一也はハメられた

 ハメられた。この仕事を始めて何度となくそんな機会に陥ったが、今日ほどやられたと思った日はない。御幸の言い分としては、油断はなかったはずだ。バラエティ番組の収録の打ち上げであれば、特定の個人と二人きりになることはないと思っていた。出演者は山ほどいるのだから、と。だが、見通しが甘かった。まさか何人かがグルで、打ち上げ会場と案内された先に会員制のバーで、アイドルだか女優だかも覚えていないような女と二人きり、個室に案内される羽目になるなんて。

「嬉しい! 私、御幸選手の大ファンなんです!」

 顔だけは整った女にそんなことを言われても、血の気が引くばかり。凪沙への申し訳なさで、この場から脱兎の如く逃げ出せてしまえたら、今シーズンの年棒ぐらいは差し出してもいいとさえ思った。

「……あの、困ります、こういうの」

 誰の思惑か知らないが、御幸にとってはただ迷惑なだけ。失礼のないよう最低限の礼節を以てそう告げれば、女は不思議そうに首を傾げるだけだった。

「ええ? なんのことですかあ?」

「だからっ、ただの打ち上げって聞いてたのに、個室に二人きりとか──誤解されるような真似されたら、球団にも迷惑です」

「誤解だなんて。ただの接待ですよお、接待。何も言わずに接待帰っちゃう方が、球団に迷惑がかかるんじゃないですかあ?」

 くすくすと笑いながら、女はそんなことをのたまう。理性がなければ一発ぶん殴ってやるところだ。だが、そのセリフで、背後には自分の上層部が絡んでいることが分かる。ふざけている。御幸にはとっくの昔に結婚を決めた相手がいるというのに。そんな相手との『約束の日』までようやく二年切ったのだ。今まで多少のトラブルはあれ、上手くやってきていたのに。

 だが、首脳陣が絡んでいるとしたら、この女の言うように無言で帰ってしまうと後が面倒だ。相手方の顔に泥を塗るなとかなんとか、うるさく言われかねない。数秒の逡巡の後、御幸は嫌々頷いた。

「……分かりました。ただ、ちょっと電話してきていいですか」

「いいですよ。その間に注文してますので。御幸さん何飲みますか?」

「車なんで、ウーロン茶」

 こんな場で酒が飲めるか。そう思いながら御幸は荷物を手に部屋を出る。車で来たのは嘘ではないし、そういう相手にアルコールを勧める非常識さがあればすぐに帰ってやる。

 そうして適当な場所で携帯を手に凪沙にコールする。この時間帯は大体家にいるはず。案の定、数秒も待たずして凪沙のハッキリとした声が聞こえてくる。

『ハイハイモシモシ。まーたトラブルですかー?』

 いつもと変わらないその声を聞くだけで、すっと心が和らぐ。不思議なことにその声を聞くだけで、ささくれ立っていた感情が、少しずつ落ち着きを取り戻していくのだ。

『ん−、なになに。どうかしたの?』

「悪い、またハメられた……」

『また!? え、大丈夫?』

 察しのいい彼女の声に、怒りはない。寧ろこちらを慮るその言葉が、本当に嬉しかった。

「ただの番組の打ち上げだと思ってたのに、店に行ったら知らない女と二人きりだぜ。冗談じゃねえよ……これが詐欺罪じゃなくてなんなんだよ……」

『ここまでくると人間不信になりそうだね……』

「ほんとにな……」

 心底同情した声が聞こえることだけが、御幸にとって唯一の僥倖だった。彼女は御幸の不貞を疑わない。その信頼感だけが、御幸と理性をこの場に留めてくれる。

「だから悪い、店の近くに車停めてっから迎えに来てくんね?」

『いいけど、私もうあんな高い車運転しないからね!』

「運転は俺がするって。迎えって形だけでいーから」

『ならばヨシ! 場所どの辺?』

「今送る。多分電車で三十分もかかんねえと思う」

『分かった。お店は私でも入れそう?』

「俺の名前出せば入れると思う」

『ん、承知〜』

 電話の向こうで、がさごそと物音が聞こえる。もうすでに、準備を進めているのが分かる。こういう時の為ではないが、車の合鍵を持たせておいてよかったと心底思う。

「……俺には、お前だけだよ」

『うん。信じてる』

「いつも悪いな、色々と」

『いえいえ、彼女ですから』

 朗らかに告げる恋人の声に、ほっと胸を撫で下ろす。その信頼が、愛情があるだけで、過る不安や苛立ちが溶けていく。大丈夫、こんなトラブルぐらい、涼しい顔でこなして見せる。自分には凪沙がいる。どんなことがあっても信じて、愛してくれる恋人がいるから。

『じゃ、ついたら連絡するね』

「ああ。頼む」

『はいはーい。それまではゆっくりご歓談を〜』

「しねーよ」

 不機嫌そうな御幸の声にくすくす笑ってから、凪沙は電話を切った。コンシェルジュに『天城凪沙という女が来たら通してほしい』と言伝をし、店の場所を凪沙に送ってから御幸は意を決して個室に戻る。これは接待。これは仕事。この女はただの仕事相手。絶対にご歓談などしてなるものかと、運ばれてくる料理や飲み物に手を付けた──。



***



「(ハメ、られ、た……ッ!!)」

 もう何度目か分からぬその言葉が脳裏を過る。だが、言葉は出ず、意識は朦朧とし、ろくに腕を動かすこともままならない。テーブルを挟んで座る女が、意味深な笑みを浮かべているその光景に、見縊った己の甘さを知る。

 最初こそ、個室で二人きりごく普通の食事会だった。無駄な接触もなく、テーブルを挟んでただ会話がなされるだけ。ずっと御幸のファンだったこと、甲子園の応援にも来ていたこと、運よく番組で共演できたこと、などなど色々言われた。ファンは大事にしろと凪沙にも言われている手前、御幸も御幸なりに当たり障りのない会話を続けていた。だが、三十分ほどしてから、身体に妙な異変が生じた。まず食べ物の味が分からなくなった。そして違和感を感じるより先に強烈な眠気、ひどく目を回したかのような眩暈が襲った。指一本動かすのでさえ億劫になる。まるで酩酊したかのようだ。けれど、御幸はこの場に来てからアルコールを一滴も飲んでいない。口にしたのは食事と、頼んでいたウーロン茶だけ。だから、答えなど一つしかない。

「(くそ、何入れやがったんだ……っ!?)」

 飲み物か、或いは食べ物──同じ食べ物を口にしている以上、前者だろう──に、何らかの薬物を混ぜられたのだ。それが合法の物か、非合法の物か定かではないが、焦燥感だけが脳裏を支配する。なのに、身体は少しも動いてくれなくて。

「……別にぃ、彼女にして欲しいなんて言いませんよ」

 女が何かを言っている。気付けば名も朧気な女が隣にいる。御幸の腕を取り、ぎゅっとしがみついてくる。邪魔だ。なのに、振り払う力が出ない。

「でもね、チャンスぐらいは平等に与えられるべきだと思うんです」

「ふざけ、んな……ッ!!」

「いいじゃないですか。御幸さんはなぁんにもする必要ないですよ。ちょっと気持ちよくなって、そういうとこを誰かに撮られれば、ウチとしてもそれで十分っていうか」

 何か言っている。けれど、理解ができない。脳みそがまるで静止しているようだ。理解できることは身の危険と、ハメられたということだけ。最後の力を振り絞り、身を捩るって女から離れて立ち上がる。けれど、足に力が入らず、そのまま崩れ落ちるように床に倒れ込んでしまう。

「ああ、危ないじゃないですか。動かないで……大丈夫……楽にしててください……ああでも、こんなに強力だなんて。あたし一人でも運べるかなあ……最悪ココでもいいのかな、どうせ誰も来ないし……」

 困ったような女の声が、耳障りだった。早く、早くここから逃げ出さないと。恥も外聞もなく、御幸は床を這いずりながら出口を目指す。せめて、せめてこの部屋から出られれば、店員の誰かに見つけてもらえれば。一瞬でも気を緩めれば意識を失いそうな中、生来備わった御幸の強靭な精神力だけが、自我を繋ぎ止めていた。

「(凪沙……凪沙……っ!!)」

 声なき声で、優しい恋人の名を叫ぶ。そうすれば少しだけ、意識がクリアになる。彼女だけは裏切れない。何があっても信じてくれるその人だけは、その信頼だけは冒してなるものか。血が滴るほど唇を噛み締めながら、どうにか女から遠ざかる。せめてもの抵抗を示す、そのために。

 けれど、女は嗤う。御幸の無様さを、見下すように。

「無駄ですよお、御幸さん。ここ、会員制のバーなんですよ? 誰も助けに来ませんよ。コンシェルジュには誰も通すなって言っておきましたし──」

「──そんなことないですよ」

 その時、声を聞いた。夢か幻かと思った、優しい声を。はっと目を見張って顔を上げる。そこには、恋人が見慣れぬスーツ姿で部屋の前に佇んでいた。その横にはコンシェルジュが立っており、室内の異様な光景に目を見張っていた。何せ大の男が顔面蒼白で床に這い蹲っているのだから。

「ちょっ──誰!? ここには誰も通すなって!!」

「私はこの人のマネージャーです。迎えに来るよう頼まれてましたので」

「御幸様からこの方は通すよう言伝を預かっていて──い、一体何を……!!」

 三者三様の反応。怒りに顔を真っ赤にさせる女を無視し、凪沙が御幸を助け起こす。柔らかな手のひらが、今尚夢のように思えてならない。御幸の目には、凪沙の顔がはっきりと見えないのだ。

「……っ、っっ」

「……何飲ませたんですか? この人、そんなにお酒弱くないですよ」

「ま、まさか! このお部屋にはアルコールは運んでいません!!」

 周りが騒ぐ。でももう、何も分からない。煩い、眠い。

「──ああ、薬でも盛ったんですか?」

「違う!! あたしじゃない!!」

「では店側が?」

「とんでもない!! そんな、店の信用にかかわります!!」

「でしょうね。じゃあ、あなたがやったとしか考えられない」

「ふざけないで! 何の証拠があってそんなこと──!!」

「それはプロに確かめてもらえばいいでしょう。これからうちの人間が来ます。それまでは現場保存しておいてください。私はこの人を病院に連れて行きます」

「待ちなさいよ!! あんた、何の権利があって──!!」

「マネージャーです。この人が十全に野球ができるようサポートするのが、私の仕事です」

 ああ、煩い、煩い。寝かせてくれ。もう限界だ。

「御幸くん、立てる?」

 けれど凪沙がそう訊ねるから。御幸は力を振り絞って、こくこくと頷く。彼女の小さな身体を支えに、なんとか立ち上がる。青ざめた女と、混乱したコンシェルジュが見える。でも、世界が回ってる。ぐわんぐわんと脳が揺れる。

「プロ野球選手に薬を盛るだなんて、正気の沙汰とは思えない。この人の身体に何かあったら、何十億の損失です。それをあなたが、償えるのですか?」

「な、な──!!」

「……この人を愛する資格は、誰にでもある」

 凪沙の冷たい声がする。それはきっと、怒りだ。けれど、彼女は何に怒っているのだろう。分からない。もう、なにも。


「でも、あなたにはない──あなたにだけは、ない!」


 視界が揺れる。足が進む。凪沙が歩く。御幸はそれを支えに進む。店を出る。エレベーターに乗る。凪沙は喋らない。黙々と御幸の杖として歩く。

 気付けば御幸は、何かに腰かけていた。目の前には大きなフロントガラス。新車独特の匂い。ああ、自分の車だ。凪沙が運転席に座って初めて、御幸はそんな単純なことを理解した。預けた鍵でエンジンをかけながら、凪沙は御幸のポケットをまさぐる。球団から持たされた携帯を引っ張り出すと、御幸に差し出す。

「ほんとのマネージャーさんに電話して」

「凪沙……っ」

「早く!」

 急かす声に、震える手で携帯を操作する。そうしてお世話になっているマネージャーの名前をなんとか検索して、電話をかける。すぐにスピーカーから「御幸さん?」と、初老の男性の声がした。それを聞くや否や、凪沙はすぐにその携帯を奪い取る。

「夜分遅くに失礼いたします。わたくし、御幸一也の──あー、高校の同級生の天城凪沙と申します──あ、いえ、その、こちらこそ、はい。それで、ですね。御幸くんが──どうやら一服盛られたみたいで、ひどく酩酊してるんです。ああ、アルコールは一切口にしてないそうで──はい、はい」

 凪沙の厳しい声が車内に響く。御幸はシートに身を預けて、荒く呼吸をすることしかできない。

「ええ、まだ警察には連絡していません。あまり騒ぎにするのもどうかと──ひとまず現場保存するよう頼みましたが、相手方には逃げられているかもしれませんが……とにかく御幸くんの状態がひどかったので──ええ、はい。店の場所は後程。ひとまず病院かどこかに連れて行きたいのですが、行きつけの場所は──ああ、助かります」

「凪沙……」

「今、麻布十番駅のあたりで──そうですね、そこなら車で十分もかからないかと。はい、はい、よろしくお願いいたします。いいえとんでもない、私はこんなことしか──いえ、そうですね。今は一刻も早く診てもらわないと。はい、では失礼します」

 そう言って、凪沙は静かに電話を切る。それから何かの操作をしてから、御幸のポケットに携帯を戻し、シートベルトを装着させて来る。

「これから病院行くから。気分悪くなったら、すぐ言って」

「あ、ぁ……」

 きびきびと告げて、凪沙は慣れない手つきで車を発進させる。ハンドルを握る彼女の横顔は、今まで見たことない。怒っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。真剣な眼差しはあらゆる感情をまぜこぜにしているように見えた。

 ただ、ようやく安堵した。もう、大丈夫だと。それだけを確信し、緩やかに進む車の振動の心地よさにあっさりと負けた御幸は、繋ぎ止めていた意識をふっと手放したのだった──。



***



 結局、御幸に盛られたのは即効性のある睡眠薬──所謂、デートレイプドラッグと呼ばれる薬だったのだろう、という話をマネージャーから聞かされた。代謝速度が速く証拠も残りにくい、おまけに警察の検査キットにも反応しないため摘発もされ辛い。故に、被害が後を絶たないという。だが、幸い後遺症はないという。綿密な血液検査の末にそれが発覚し、御幸は心底胸を撫で下ろした。

 結局、証拠不十分かつ騒ぎにはしたくないという相手方の事務所と球団首脳陣の意見が合致し、示談で事が片付いたらしい。御幸には二度と近付かないという誓約付きで、だ。曰く、『相手方の事務所にどうしてもと押し切られた』とのことで、当人たちも本意ではなかったという。だが、御幸に被害が出てしまい、笑って済ませることはできなかったのだそうだ。

「でもまさか、女に一服盛られるとはなあ」

「俺たちも気を付けねーと……」

 見舞いに来た先輩たちは御幸の脇の甘さを笑いはしなかった。当然だ。睡眠薬程度で済んだからよかったものの、これが麻薬だのなんだのと反応が出たら? それが、マスコミにバレたら? 人に盛られたのだと証明できなければ、球界追放だって免れない。こういうハニートラップが横行したって不思議ではないのだ。誰もが明日は我が身と震え上がった。信用のない相手と食事をする際は口にするものに気を付けるよう、わざわざお上から指示があったというのだから、尻の軽い先輩たちにもいい薬になったかもしれない。

「いやしかし、ワンコいて助かったなあ、お前」

「こうなること想定して呼んでたのか?」

「まさか。偶然ですよ」

「マネージャーも言ってたぜ。いい彼女さんだ、ってな」

 御幸が目が覚めた時、凪沙は傍にいなかった。変に誤解されてもいけないから、とタクシーで帰ったこと。たまたま就職説明会に備えてスーツを着ていて、その足で御幸の元に飛んできてくれたこと。そんな話をマネージャーを通して聞いたのだ。賢い恋人だ、あれが二十代の学生とは驚かされる、と褒められて、御幸も悪い気はしなかった。だから、それでいいと思ったのだ。

 そして後遺症もなく、一日足らずで御幸は病院から退院できた。先輩たちにもいい薬になったようだし、御幸や球団のイメージも損なわずに済んだ。とんでもない目に遭ったが、ひとまずそれで事が収まる──はずだった。

『ごめん、御幸くん。しばらく連絡してこないで欲しい』

 退院直後、凪沙からこんなメールが来なければ。

(ちょっとまずいことになったお話/プロ3年目冬)

*PREV | TOP | NEXT#