或るネイリストの偏愛

 プロ野球選手の捕手は、投手にサインを伝えやすくするためにネイルをすることがある。サイン盗み対策で行わない選手も多いが、昼夜・屋内屋外を問わずにプレイを行うのだ。サインミスなんて下らない失策のために、投手陣の防御率を下げるのは、御幸としても本意ではない。なので御幸は自分の爪に蛍光色のネイルを施しているのだが。

 結婚してしばらく。御幸にとってその習慣は、憩いの時間になった。

「かずやー、塗るー?」

「おー、頼むわ」

 学生の頃は、自分が誰かと付き合い、愛し、結婚するなんて想像もしていなかった。だが、出会いというものは野球だけに全てを捧げた御幸の足元にも転がってきたのだから、人生とは分からないものである。

 愛する人として、人生のパートナーとして歩み始めたその人は、とても手先が器用だった。料理が得意で、趣味は編み物や水彩画という、御幸から見ると芸術家肌の人間だった。そんな彼女が、慣れた手つきで自分の指を彩る御幸の姿を見て、言い出したのだ。私がやりたい、と。

『サインのために模様書いたりしないんでしょ?』

『んな複雑なサインを読み取れる脳があいつらにあればよかったんだけど』

『こらあ』

 ぺし、と叩かれるも、爪の手入れはそれなりに時間がかかる。色を塗るだけでなく、ボールに触れた際に割れないよう切りそろえておく必要があるし、ネイルガードをで保護してやることも必須だ。爪の手入れ中は常に爪を見ていなければならないが、人に任せていればその時間は試合を見返したり、仮眠を取ったりすることができる。ただ、パートナーを召使いにするつもりはないと最初御幸は難色を示したが、彼女はにんまりと笑みを浮かべてこう言った──対価は頂きますから、と。

 爪をやすりにかけ、磨き、丁寧にネイルガードを塗る。ボールを投げる手には、蛍光色を乗せていく。ソファに腰を下ろす御幸に傅き、妻はせっせと奉仕する。その間に御幸は昨日の試合を見返す。捕手といえども、ある程度はバッティングを要求される。御幸はクリーンナップを任せられるほど期待されている。今週はあまり打撃が振るわなかった。しっかりと対策を取らねばと、自らのフォームをチェックする。

「はい、おしまい」

「サンキュ」

 気付けばあっという間に爪は整えられていた。流石、手際がいい。おかげでタスクを並行処理できる。これだけじゃない。家の掃除だの洗濯だの料理だのも任せっぱなし。おかげで御幸は仕事に集中できるも、負担ばかりで──本人は全くそんなことはないと笑ってくれるが──申し訳がない。だからこそ、ここからは彼女の時間。対価を支払う番が、やってきた。

「じゃ、こっちに足乗せて」

「へいへい」

 そう言いながら、フットレストに足を乗せる。彼女はウキウキと隣の部屋から大きなプラスチックケースを抱えてきた。ケースには親指サイズの色とりどりの瓶が、理路整然と並べられていて。

「今日は何色にしよっかな」

「お前も飽きねえなあ」

「こんな大きなキャンバスがあるのに、何もしないなんてできないよ!」

 愛する人はとても嬉しそうに笑いながら、ケースから白や青色の瓶を取り出す。きゅ、とボトルを捻れば、強烈なシンナー臭が立ち込める。相変わらず、この臭いは好きじゃない。けれど彼女は慣れたように白いその液体をブラシに纏わせて、御幸の足の爪を彩り始めたのだ。

 彼女と出会って、御幸は人生で初めてペティキュアという名称を知った。器用な彼女は、所謂セルフネイルが得意で、手も足もいつもカラフルで、キラキラしている。だが、彼女の飽くなき芸術心はそれだけで満足できなかったらしい。何せ、爪というのは人体に二十枚しかない。様々なデザインを思いついても、自身の爪にはすでに先客が居座っている。そこで、がら空きの夫の爪に目を付けた、というのが最初だ。流石に手は商売道具なので貸し出せないが、足なら基本的に誰に見せることもない。だから彼女のアート魂を発散させるべく、好きにさせることにしたのだ。

「そういや、降谷がコレ見て喜んでたぜ」

 ふと、先日チームメイトであり、高校からの相棒である降谷の言葉を思い出した。これ、とはペティキュアのことだ。普段隠されている場所だが、遠征先でシャワーを浴びたり、ホテルでくつろいだりと、靴を脱ぐ場面は決して少なくない。チームメイトに見られることもまた、決してゼロではない。

「降谷くんが? どうして?」

「お前が描いたシロクマが可愛くて癒されるんだと」

 野球以外で何考えているかイマイチ分からない相棒だが、どうやら動物が──主にシロクマが好きらしく、彼女が悪ノリで施したシロクマの顔や尻尾が愛らしく描かれた御幸の足の爪に大層興奮し、バシャバシャと写真を撮っていたほどだ。因みに、それを見た降谷は何に火が点いたのか、球団史上数十年ぶりのマダックスを披露したのだった。俺の爪で遊ぶな、という小言は飲み込まざるをえなくなったわけだ。

「じゃあ今度降谷くん連れてきてよ。描いてあげるから」

 妻は真剣に御幸の爪に絵を描きながら、軽々しくそんなことを言う。前に傅き、まるで恭しく手を取って忠義でも誓うかのようなポーズを、他の男に。彼女は一切気にしていないようだが、少なくとも御幸はそれを受け入れられるほど、心は広くなかった。

「いーよ、別に」

「なんで一也が答えるの」

「なんでも」

 いまいち分かっていない彼女はフウンと鼻を鳴らして、再びネイルに集中し始める。普段ゆっくりと話す時間もなく、すれ違う日々が続くのは、名にも御幸夫婦に限った話ではない。多かれ少なかれ、野球選手の結婚生活とはそういうものである。だからこそ、この時間は夫婦にとって大切な憩いの場だった。いくら長年の相棒とて、それを奪われるわけにはいかない。

「んで、今日は何描くんだよ」

「どうしようかな。球団のマスコットはどう?」

「絶対見られないってわけじゃねえし、あんま可愛くはすんなよ」

「仰せのままに、ダーリン」

 そう言いながら、結局爪に施されたのはデフォルメされた球団マスコットたちの顔だった。除光液を手に買い物に飛び出してしまった妻に頭を抱えながら、しばらくシャンプーのたびにこの愛らしいマスコットと目が合う羽目になるのだった。



***



 物の見事な芸術も、肉体に施せば色褪せるのもまた早く。二週間もすればキャラクターたちの顔が歪み、剥げ、消えていく。徐々に無残な姿になっていくマスコットたちに、降谷は『可愛くない……』と、残念そうに肩を落とす。早く次の愛らしいアートを見せろとせがんでくるが、生憎と妻は仕事で出張に向かっており、しばらく穏やかな『憩いの場』はお預けになっていた。何でどうしてと聞いてくる降谷を見たチームメイトたちは、面白おかしそうに笑い飛ばす。

「なんだぁ、御幸。嫁さんに逃げられたのか?」

「仕事で出張だっつの」

「え、御幸先輩、離婚してたんですか……?」

「してねーっつの!!」

 好き勝手言い始めるチームメイトに、御幸は吠える。ネイル一つで離婚危機だとからかわれては堪ったものじゃない。彼女の仕事が落ち着いたら、早急に別のデザインに塗り替えてもらおうと、御幸は心に決める。

 それから数日後。西へ東へ飛び回っていた彼女の仕事がようやく落ち着いたようで、爪の上の無残な姿になったマスコットたちを見るや否や『塗り直すね!!』と道具一式を携えてすっ飛んできたのだった。そうして久方ぶりの夫婦団欒の場が、訪れた。除光液でしっかりとマスコットたちを拭い取り、やすりやプッシャーで爪を整えていく。

「そういや、コレのせいで離婚したのかって言われたぞ」

「え、なんで?」

「そりゃ、日に日にネイル剥げていくのに、直そうともしなかったからな。やってる奴がいなくなった、って解釈じゃねえの」

「それは失礼。まだ『緑の紙』は必要ないかな」

「まだってどういう意味だよ」

 冗談めいた会話に、二人して笑う。この穏やかな時間に、思いのほか癒されている自分がいたことに、御幸は今更ながらに気付いた。緑の紙なんか目にしないよう、努力しなければ。そんなことを思いながら、何でもない話を続けていくと──。

「あ、そうだ」

 すると、細い絵筆のようなものを手に取って、彼女がそんなことを呟いた。どうかしたと聞けば、何でもないと首を振って、彼女は再び御幸のつま先に覆いかぶさるのだった。そうしてたった十数分で、御幸の爪は白をベースとした赤の模様が描かれたアーティスティックなペティキュアが完成した。

「今日は可愛いのじゃねーんだ?」

「ええー、可愛いの描いたつもりなんだけど」

「そうか? どっちかっつーと、キレイっつーか……」

 まあ、感性など人それぞれだ。ただ、降谷はこれを見ても大して喜ばないだろうと、御幸は何となく思った。

 さて、足元の装いを新たに今日も試合に赴く。内容は、まあまあといったところか。脳内で反省しながらミーティング前にシャワーを浴びて着替えていると、隣でじっと足元を覗き込む降谷の姿があった。なので、御幸は先んじて牽制する。

「残念、今日はお前好みのデザインじゃねーよ」

 だが、降谷は真面目な顔でしげしげと御幸の足元を見つめている。降谷の気を引くようなデザインではないと思うのだが、どうしたのだろう。不思議に思いながらタオルで頭をがしがし拭いていると、膝を抱えて御幸の足元を覗き込む降谷を不審に思ったチームメイトたちがぞろぞろと集まってきた。

「どうしたあ、降谷」

「御幸、ついに離婚したかー?」

「なんだよ、そんな変な爪に──され、て……」

 そして何人かが興味本位で御幸の足元を覗き込むや否や、全員が全員ぴしりと固まった。そうして、降谷以外の全員が全員タオル一枚で吹き出したのだ。

「ブッ──ダハハハッ、御幸お前っ、すげーな!!」

「な、なにが?」

「ひえー、すっげえなあ。心配して損したわクソが!」

「心配? なんの?」

「やー、強かな嫁さんだとは思ってたけど、中々やるなあ!」

「嫁? え? 何の話?」

 話の飲み込めない御幸だけが置いてけぼりで、チームメイトたちはゲラゲラとロッカールームで笑い転げる始末。足元に目を落とすも、御幸の目には赤いラインで何かしらの模様が描かれている、としか思えない。一体何が、と困惑する中で、一人冷静な降谷がパシャリとスマホで御幸の足元を撮影する。

「多分……先輩からは、見えてないんだと思います」

「見えてないって、なにが──」

 そう言いかけた御幸に、降谷は静かにスマホを突きつけた。そこには、今しがた収めたであろう、御幸の爪先の写真が表示されている。ただ、向かい合う降谷からの視点。つまり、御幸から見えているネイルの模様の向きが逆になっているのだ。それを見て、御幸はようやく気付いたのだ。模様だと思っていたそれは、レタリングされた文字だったことに。

 そうして十本の爪にそれぞれ文字が描かれているのだ。右の小指から順に読めば──『I Love You』と、読めるように。

「可愛いネイルですね」

 淡々と告げる降谷の声に、御幸は声なき声を上げながら顔を覆ってその場に崩れ落ちた。脳裏に、してやったりとばかりに微笑む妻の顔が見えた気がした。なるほど、しばらくは『緑の紙』に怯える心配はなさそうだ。



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