風呂掃除に、眩暈

 思えば、頼んでもないことばかりする女だった。

 幼馴染といってしまえば聞こえはいい。しかし、だからといって私生活まであれこれ口出し、時にはなりふり構わず家にまで上がりこんでくるような女に、尾形はほとほと参っていた。死んだ祖母の遺言だからと、一人暮らしを始めてからは頼んでもないのに家に来ては勝手に掃除をし洗濯をし料理をし、尾形が健康で豊かな生活を送れるよう付きまとった。朝になれば洗濯機の音が煩くて目を覚まし、微睡む暇もなく、カーテンを開けられ布団を引っぺがされた。掃除機やモップがフローリングを忙しなく行き交い、風呂場からはジャージャーという水音とブラシが床をこする音が聞こえるような日々。そうして落ち着ける場所を失い、自分の家なのに行き場のなくなった尾形に食材の買い出しを頼むような、そんな図々しい女だった。

 ただ、頼んでもないながらに、尾形は尾形なりにそんな幼馴染を許容していた。何も言わなくとも飯が用意され、清潔な部屋で生活ができる日というのは、そういった宣しさを差し引きしてなお有り余るメリットだった。早起きしろ自炊しろ風呂は掃除しろ洗濯ぐらい自分でしろ、耳にたこができるほど言い聞かされた言葉だが、尾形はまるっきり無視をした。そんな尾形に、幼馴染は怒ることなく、「しょうがないなあ、今回だけね」と何度となくふにゃりと笑う横顔は、なんとなく好ましくもあった。

 通い妻じゃん、ヒモかよ、彼女ちゃんカワイソウ、などと周りの人間から散々言われたが、大学生から社会人になってなお、二人の関係は変わることはなかった。流石に学生の時ほど頻繁には訪れなくなったにしろ、週末にはほぼ必ずと言っていいほどお抱えの家政婦がやってくる。そして一通りやることやってから、今日も一日いい仕事をした、とばかりに清々しい顔で帰っていく。それだけだ。別段どこかへ遊びに行くことはしなかったし、ましてやキスだのセックスだのという、年頃の男女らしい流れにもならなかった。尾形にはさほど、そういった欲がなかったことも大きい。寧ろ、求めてこないなら楽だとさえ思った。
 とはいえ、向こうは一仕事終わるとすぐ帰り支度を始めるので、報酬代わりに外食に連れ出すこともあった。百之助くんの著りだあ、とニヤニヤ笑う女は子どもの頃散々見た顔の面影を、今尚残していた。いつかはその面影は子へ、孫へ遺伝するのだろうか、尾形にはまるで想像できない。女が求めなければ、自分から敢えて求めることはしないだろうと思った。だが、頼んでもないことばかりする女だ。きっと尾形が欲さなくとも、子なり何なりを求めるに違いない。それならそれでいいとも思う。その程度の甲斐性はあるわけだし。そんな風に流れさに流されて、人生は進んでいくのだと。

 そう、思っていたのに。

「百之助くん、わたし、恋人ができたの」

 そう言って、女はその日を境にこの家に足を踏み入れることはなくなった。

 いったい何を誤ったのか。尾形には理解できないまま、家の床に埃が積もるだけの日が続く。これからは自分でちゃんとするんだよ。何を言っているのか。お前がいなくなって、台所はカビだらけだ。わたしがいなくても大丈夫でしょう。意味が分からない。お前が来なくなって、床は毛と埃塗れだ。もう大人なんだから、何故そんなことを言うのか。何故、何故どうして、何故、何故。

 疑問は終ぞ発することはできなかった。幸せいっぱいとばかりに微笑んで、出ていく女を引き留める言葉さえ持たない男だったのかと、愕然とした。そうして女は来なくなった。もう二度と、この場所で忙しなく駆けずり回ることはない。部屋も、キッチンも、風呂も、彼女の手が離れた途端に黒ずんで、色褪せて異臭を放つようになる。理由が分からない。尾形にはずっと、ずっと、ずっと。

 ふと、彼女の面影をなぞるように、掃除を始めてみた。布団を干し、掃除機をかけ、モップで埃を払いキッチンを片付ける。何も考えていない。そうすることで彼女が戻るとも思っていない。ただ何かを求め、脳裏で笑う彼女を追いかける。風呂場へ向かう。赤カビやら黒カビで清潔感のかけらもない風呂を、一心に磨く。そうして排水溝をかぽりと開けたその時、長い長い髪の毛が一本、引っ掛かっているのが見えた。それが誰のものだったのか、悟るよりも先に吐き気と眩暈が襲った。

 安アパートの風呂場に響く男の慟哭は、きっともうどこにも行けない。



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