あっち向いてダーリン

「沢村ずるい」

「何が?」

 そう言いつつ、じいい、と睨みつけるのは当の沢村ではない。我らがキャプテンにして恋人である御幸一也のご尊顔である。

「ずるいって何が?」

「私は一也に抱っこしてもらったことないのに」

「は?」

 馬鹿かこいつ、とばかりの視線が飛んでくる。だが、今日という今日は譲らない。いくら理解ある彼女と言えども、物には限度という物があるのだから。

 先日、青道高校は悲願の夏の大会を制覇し、甲子園の切符を手に入れた。昨年度のリベンジマッチには私も胃を捩じ切らせながらも見守り、応援したし、投手陣のふんばりでなんとか辛勝をもぎ取った時には大歓声を上げた。だが、輝くダイヤモンドでエースナンバーを背負った沢村が、私の恋人と熱いハグをしている姿を見て思ってしまったのだ。

 ──私、一也に抱っこしてもらったことないな、と。

「ずるい」

「ずるいって言われても」

「私にもやって」

「やだよ、こんなとこで」

 こんなとこ、と言うけど、今は夜の二十時。ロケーションは寮を出てすぐの人気のない道。甲子園に向けてマネージャーたちも忙しく駆けずり回っているので、恋人である一也に送ってもらおうとしている、まさにその瞬間。ここがだめなら、どこならOKだというのか。

「じゃあどこならいいの」

「どこってそりゃ……」

「沢村とは人前でハグして写真まで撮られたくせに!」

「その言い方すげえ語弊あるからやめろって」

 羨ましい。彼らにその気がなくても、その写真は彼らの一生の思い出どころか、下手したら後世にまで残る記録となるのだ。羨ましいことこの上ない。ぎゃんぎゃんと訴えるも、一也はしきりに気まずそうに眉を顰めるだけ。うう、寂しい。

 一也とは紆余曲折を経て付き合うようにはなったはいいんだけど、彼は愛情表現というものを全くしてくれない。スキンシップはせいぜい頼めば手を繋いでくれる程度、好きだの愛してるだのなんて言葉は以ての外。玉砕覚悟で告白した時の『俺も付き合いたい』が、一也から引き出せた最高潮の愛情表現である。独り相撲にも程がある。やばい、泣けてきた。

「うっ……」

「な、泣くなって!」

「泣いてない!」

 ちょっと目の奥がじわっとしただけだ。顔を見られないよう俯きながら、零れる溜息を止めることができない。別に、イチャイチャラブラブ、みたいな甘ったるいものを一也に求める気はない。そういうのが恥ずかしいって人もいるだろうし、無理矢理どうこうしようとは私も思ってない。だけど、一也は割とストレートな感情表現をする方だ。主に投手陣には。褒めるところはちゃんと褒めるし、それこそ戦い抜いたエースを称えて抱き上げる、なんてベタなこともしてる。要は、一也はそういうことができる人なのだ。私相手に、やらないだけで。

「……じゃあ、背中貸して」

「背中?」

 恥ずかしいのか、面倒なのか、理由は定かじゃない。一也は何も教えてくれないからだ。故にいつも、私が妥協点を探しに行く。ほんとはもっと、好きって言ってほしい。態度でも示してほしい。だけど、それが敵わないならせめて、私から伝えたい。私は今、こんなにも一也が好きなんだって。

 そんな思いが伝わったのか。或いは、私があんまりにも泣きそうな顔をしていたからだろうか。一也はキョロキョロと辺りを見回し、大きく溜息を吐くと私にくるりと背中を向けた。

「……これでいい?」

 よくはない。ほんとは正面から抱き締めてほしいよ。だけど、これ以上我儘言って、困らせたくない。どこか惨めな思いで「うん」と頷いて、私はその広い背中に突撃するように抱き着いた。

 背中はしっとりと汗ばんでいて、夏はまだ続くのだと語っているかのようだった。身じろぐも何も言わない一也を良いことに、私はその立派な腹筋に腕を回して、ぎゅうっと密着する。そのぬくもりに、匂いに、じわりとまた涙が滲む。一也が好き。どんなに惨めな思いをしても、この人から離れたくないと、思ってしまう。

「すき」

「……っ」

「すき、だいすき。ずっと、すき」

 悲願だった、夏大会優勝、甲子園出場。一也は野球で、頭がいっぱいなのは分かってる。それでも、付き合いたいって言ってくれたその言葉が嘘でないなら。何も全てが全て、同じものを返してなんて言わないから。せめてこれぐらいは許してよ、一也。

 その瞬間、ずしっ、と両腕が重たくなった。

「あー……お前ほんとさあ……」

 なんと、一也がずるずるとその場にへたり込んできたのだ。当然、背後から抱き着いてる私が、筋肉だるまの高校球児の体重を支えられるはずもない。思わず手を放してしまった。そ、そんなに嫌がられるなんて、ショック過ぎて涙も出やしない。

「そ、そんなに、嫌……?」

 声が、震える。嫌だ、と言われたら立ち直れないかもしれない。どうしよう、どうしよう。慌てる私の前で、一也はゆらりと力なく立ち上がる。一也は、何にも言ってくれない。やっぱり、無理だったのかな。一也は野球が一番で、二番目でもいいからなんて、虫が良すぎたのだろうか。私一人なら、どれだけ傷付いても凹んでもいいって思っていたけど、でも、もし一也の邪魔だったら、いっそ、いっそ──。

「嫌なら、わ、別れ、る……?」

 震える声。気丈に振る舞おうとすればするほど笑顔が歪む。じわり、と目の前がまた熱くなる。それでも、彼の邪魔になるなら、覚悟しなきゃ。私はマネージャーとして、一人の野球ファンとして、御幸一也を好きになったのだから。拳を痛いぐらい握り締めて、迷いを振り切る。せめて、終わりぐらいちゃんとしたいから。

 すると突然、ぐるりと一也が振り返った。

「──あー、クソッ、そういうことじゃねえよ!」

 そう叫ぶや否や、私をぎゅうっと抱きしめてきた。一瞬ちらりと見えた顔は真っ赤で、怒ってるようにも恥ずかしがってるようにも見えた。でも、一也がなにを考えてるのか全然分からない。だから、こんなにも待ち望んでいた一也からの『返答』が、ちっとも嬉しくない。

「わ、分かんない──そういうって、どういう、こと?」

「だから、それは──」

 声を詰まらせながら、なんとか冷静なふりをして会話を続ける。けれど一也は多くは語らず、ますます力強く抱きしめてくるだけだった。痛いぐらいの抱擁。ぴったりと身体が密着して、熱いぐらい。熱くて、熱く、て──。

「──え?」

 下腹部にその熱さの『正体』を感じ取った時、今度こそ頭が真っ白になった。身体がくっついててよく見えないけれど、熱くて、硬いそれが、ぐぐ、と私の下腹部を圧迫する。ハッとして顔を上げると、一也はますます気まずそうに顔を逸らした。

「……こういう、こと、です」

「こう、いう、って──」

「──〜〜〜っだから!! お前にひっつかれるたびにコーフンしてんだよ!! いちいち言わせんなっ、この馬鹿!」

 一也のとんでもない告白に、私は夢かと唖然とした。だって、そんな、何も言ってくれなかったのに。興奮、って。なに。それって、そんな、うそ。そんなそぶり、今まで一度も。

「ダセーし今はそんな余裕もねえし、夏終わるまではこういうことしないよう必死に耐えてたのに、お前勝手に勘違いして別れるとか何とか言い出すし……勘弁してくれよ……」

 勘弁してくれはこっちのセリフだ。今まで一ミリだってそんなこと言わなかったし、態度でも示さなかったのに。必死に耐えるって、なにそれ。そうでもしなきゃ、冷静でいられなかったってことなの。それぐらい──その、私に対して、その、好意的、って、こと?

 困惑する私に、これが答えだとばかりに一也は私の後頭部を掴んで自分の胸に押し当てる。すると、ドクドクと大きな鼓動を鳴らす心臓の音が耳に飛び込んでくる。うそ、うそ、一也、ねえ、ほんとに?

「……長い夏になるからな、今すぐってわけにはいかねーけどさ」

 ぎゅう、と汗が滲むシャツを掴む。一也はびっくりするぐらい柔らかな声で、私を宥める。けれどその声とは裏腹に、鼓動はどんどん早くなっていく。私の心臓と、同じぐらい。こうしてくっついていると、どっちがどっちの音色か、もう、分からない。


「全部終わったら、お前の番だから」


 だから待ってろ。そんな大嘘に、私はまたじわりと目の前が熱くなる。うそだ、絶対、そんなの嘘。だって夏が終わったって、一也の野球は終わらない。それどころか、もっともっと遠くへ行くんでしょ。そこに私の入る隙なんか、一ミリだってないくせに。

「だからもう、別れるなんて言うなよ」

「……また背中、貸してくれる?」

「背中と言わず何だって」

「なら、もう言わない」

 それでも、ねえ、一也。そこへ向かう一也の傍にいてもいいんだって、許してくれるなら。一分、一秒でも私の番が来るって信じてもいいのなら。

 そんな大嘘だって、私、飲み込んであげる。

「予約、したからね」

 私だけの大きな背中に、そっと腕を回して抱き締めた。一也もまた、私をきつくきつく抱き締める。痛いぐらいの抱擁は、今はこんなにも、涙が出るぐらい嬉しくて。二人の体温も鼓動も感情も、一つになってしまうぐらい強く抱き締め合ったのだった。

 翌日、暢気な顔して歩く沢村を捕まえて、私はこう言った。

「前はあんたに譲る。けど、後ろは私のだから」

「???」

 哀れ沢村は、訳も分からず首を傾げたままランニングに向かい、それを清々しい思いで見送る私は「投手を困らすな」と一也に叩かれる羽目になった。こういう時だけこっち向いてなくていいのに、全くもう!



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