Give + Take →

 確かに、投手陣に対しては私生活に気を付けるよう言い聞かせている。

 本人たちも分かっているだろうが、投手というポジションを担う以上、肉体のケアは人の五倍は気を使う。特に指先は顕著だ。突き指でもすれば、下手したら抹消から調整、二軍での試合を経て一軍に変える咲くまで数か月要する。故にこそ御幸一也も女房役として、彼らに口煩く言い聞かせている。鬱陶しく思われようとも、これが彼らの、ひいてはチームのためになるのだと憎まれ役を買ってまで、だ。しかし。

 言われる側に回って気付いた。確かに、これはめんどくさい、と。

「いや、お前だって仕事帰ったばっかだろ」

「い、い、の! 私より一也の方がよっぽど疲れてるんだから! それに、野球選手に包丁なんか持たせられるわけないでしょ!」

 そう言って、二十一時過ぎに仕事から帰宅した妻にキッチンから追い出され、御幸は一人広いリビングで所在なさげに立ち尽くす羽目になった。

 彼女との付き合いは、一言では言い表せないほど波乱に満ちていた。しかし、紆余曲折を経てこうして同じ屋根の下で暮らせるようになったのは、純粋に嬉しく思う。ただ、困ったことに、御幸一也が生涯の伴侶として定めた相手は──なんというか、少々過保護だったのだ。

 たまには昼食でもと包丁を握れば悲鳴を上げて卒倒されるし、買い出しの荷物持ちすらさせてもらえず、デートは決まって個室がある場所。人混みで風邪でももらったらどうするの、と心配してくれる気持ちは嬉しいし、御幸だってさほどサービス精神旺盛な方ではないからありがたいとは思う。とはいえ、ものには限度があるわけで。家事の分担などほぼできず、重たげな米を担いでヘロヘロ歩く妻に手を差し伸べることも許されず、旅行へ行こうと言っても渋られる。そのうち赤ちゃんが生まれても抱かせてもらえなさそうっスね、と呆れたのは高校時代の後輩だったか。

「(笑えねーんだよなあ、実際)」

 分かっている。身体資本の仕事だ。この身体で御幸は数億もの金を稼ぎ、多くの人々を熱狂させ、そして経済の歯車を回してきた。それぐらい気を使うべきだという彼女の言い分も尤もであり、寧ろ理解のある妻だとチームメイトからの評判も高い。けれど。

 彼女は何が楽しくて、自分と結婚したのだろう。

「昨日ね、大学の友達の家に遊びに行ったの」

 けれど、彼女はいつも穏やかに笑っている。何の不満もないような顔で、御幸との会話を楽しみながら選択を畳んでいる。流石にこれは手伝わせてくれるので、御幸も粛々とふかふかになったタオルの山を積み上げる。

「お酒も入ってたからかな、女子だけでパワー自慢大会が始まっちゃって」

「なんだそりゃ」

「最初は腕相撲対決だったんだけど、左利きの子が不公平だって言い始めて、それで最終的にお姫様抱っこ対決になったの。これがもう大変で」

「お前らいつも楽しそうだよな」

 人の話を聞くのは、嫌いじゃない。愛する人が笑っているのだから、なおさらだ。お姫様抱っこ対決はどうすれば勝敗を決するのか見当もつかないが、きっと楽しかったのだろう。ケラケラと思い出し笑いしながらタオルの山に囲まれるこの人が、今日も愛しく思う。これからずっと、幸せに、笑って、過ごしてほしいと。

「だーれもお姫様抱っこなんかできなくて、その場に崩れ落ちそうになってたんだけど、一人だけすんごい体幹強い子がいて。その場にいた全員お姫様抱っこして、優勝掻っ攫っていっちゃった」

「へー、意外にも勝負あったわけだ」

「そうなの! ふふ、お姫様抱っこされたの、生まれて初めて! 夢だったのよね、あれ」

「……ふーん?」

 何気なくそう言いながら、彼女は畳んだタオルや洋服を抱えて立ち上がる。聞き捨てならないと、御幸もそのまま立ち上がる。

「なあに?」

「いや、そんな憧れてんなら俺がやったのに、って」

 その一言に、彼女はひどく機嫌を損ねたように顔を顰めた。

「だめよ。腕や腰痛めたらどうするの!」

 想像通りの答えである。そんなヤワな鍛え方をしていない、と何度言っても彼女は聞く耳を持たない。御幸はムッとして食い下がる。

「俺がしたいっつっても?」

「じゃあ、あと十キロ痩せたら頼むわね」

 これ以上痩せたら骨と皮だ。つまり、その提案は実現しないと案に言っている様子。確かに、負荷のかかる体勢ではあるし、万が一は百パーセント起こりえない、とは言えないのだが。

 ──けれど、もういい加減限界だ。

「いーからいーから、ほら」

「ちょっ待って何して──ひっ!?」

 そちらの聞く耳がないのなら、こっちだって用意する筋合いはない。御幸は彼女を抱き寄せると、膝裏に手を回してしゃがみ込み、そのまま一思いに抱き上げた。彼女の手にしていたタオルの山がばさりと床に散る。情けない悲鳴を上げながら、下ろしてともがく妻は、十キロ減量せずとも、羽根のように軽い。

「こらこら、暴れたらそれこそどっか痛めるだろー」

 もがく彼女はその一言でぴたりと動きを止める。不安げな瞳をゆっくりと御幸に向けて、か細い声が「下ろして」と懇願するも御幸は黙ってその頬にキスをした。

「お前が俺のこと大事に思ってくれんのは分かってるけどさ」

 その徹底した態度は、全て御幸のためなのだ。そんなこと誰よりも理解している。けれど、その献身は時として御幸をいたずらに傷つけた。この献身に報いるだけの何かを、彼女に返せているのだろうか、と。与えられたから与えたい、のではない。そんな義務的な何かなら、姓を同じくするもんか。

 それはもっともっと、単純な答え。

「お前のこと大事にしたい俺の気持ちも、そろそろ汲んで欲しいんだけど?」

 与えられたものを返すのではない。御幸だって無償の愛を、溢れんばかりに注ぎたいのだ。こんな些細なことだって、彼女の夢なら叶えてやりたい。ただそれだけの、下らぬプライドが腹を立てただけのこと。

 ギブ&テイク──それが意図せずできる関係に、愛が生まれるのだ。真っ赤な顔を手のひらで覆ってふにゃふにゃと意味の分からぬ言葉を発する愛する人を見て、御幸はそう確信したのだった。



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