ラブストーリー・ダービー

 御幸一也にはシニア時代、バッテリーを組んでいた人がいた。

 その人は女の子で、けれど周りの誰よりも背が高くて、そして誰よりも野球が上手かった。球威こそないものの、伸びのあるストレートに、打者の手元ですとんと落ちるフォークが魅力的な投手で、チームのエースナンバーを背負っていた。一つ年上の彼女を見上げながら、いつか彼女に並び立つぐらいの捕手にならんと、懸命に練習に励んでいた。

 そんな人が高校進学と共に野球をやめると告げた時は、流石にショックを隠せなかった。

『女の子はね、甲子園には行けないのよ』

 理由を訊ねる御幸に、彼女は物悲しげにそう告げた。今は男子と共に戦えても、その先はない。賢い彼女にはそれが分かっていたのだ。だから数多の惜しむ声を振り切って、彼女は公立の高校に進学した。シニアの仲間伝いに、マネージャーの道すら選ばなかったと聞いて初めて、御幸は彼女が好きだったと気付いた。けれど、悔いたところで時は巻き戻らない。御幸はそんな淡い初恋をタンスの奥にしまい込んで、日々練習に明け暮れた。せめて彼女が立つことのできないその場所に、辿りつくために。けれど。

「あれ? もしかして、かずくん?」

「……せん、ぱい?」

 二年の夏、夏大の開会式の会場で、突然その人と再会した。

「わあ、久しぶり! 元気だった?」

「え、あ、はい、先輩、こそ」

「私? 元気元気! 頑丈だけが取り柄だもの!」

 くすくすとたおやかに笑う仕草は、数年経っても変わらない。誰もが認めた自慢のエースであり、そして淡い恋を育てた彼女だった。ドクン、と心臓が戦慄く。今でも、彼女のそんな笑顔に惹かれているのだと。けれど、久々の再会を喜ぶには、些か余分なパーツが多すぎて。

「先輩? どうしました? ナンパっすか?」

 彼女の背後からひょっこりと顔を覗かせる男がいて、御幸も内心穏やかではない。気付かぬふりなどできやしない。彼女が身に纏っているジャージは、その男と同じのものなのだから。

 そんな男に、彼女は頬を膨らませて振り返る。

「違うわよ! シニアの相棒!」

「へえー相棒。相棒、ねえ」

 そうやって意味ありげに頷きながらキッチリ彼女の隣をキープするのは、薬師高校のジャージを身に纏った男。名前は確か、真田俊平。薬師のエース、だったか。

 公立に進学したとは聞いていたが、薬師に進学していたとは知らなかった。まあ、あまり野球で有名な高校ではなかったので、納得はできる。だが、この状況には全く納得がいかない。内心苦虫を噛み潰したような気分で、真田に御幸を紹介する彼女を見下ろす。そして、気付く。

 ──ああ、たった数年で、彼女の身長を追い越してしまったのか、と。

「あら。……ふふ、かずくん、大きくなったわね」

 そんな御幸の心を読んだかのように、大きな瞳が弓形になり、御幸を仰視する。いつだって見上げていたはずの目線は、あっという間に逆転していた。遠い視線にもどかしい思いばかりしていたのに、いざこうして彼女を見下ろすと、何とも言えない複雑な感情が芽生える。

「……先輩、野球辞めたって聞きましたけど」

「うん?」

「マネージャーも、やらなかったって。なのに、なんで」

 彼女の身長を追い越すうちに、心変わりをしたのだろうか。それはそれで喜ばしいことなのだが、その蝋燭に火を灯したのは自分ではないと思うと、手放しには笑えない。きっと、自分は今、とんでもなく凶悪な目付きで彼女を見つめているのだろう。八つ当たりにも程がある。けれど、彼女はどこか悪戯っぽく微笑むと、何故か真田を振り返った。

「んー、口説かれた、から?」

「は?」

「体育の授業でソフトやってた時にね、たまたま経験者だってバレちゃって。ぜひマネージャーにって何度も何度も拝み倒されて、仕方なく?」

「のわりに、先輩ノリノリで引き受けてくれたじゃないっスか」

「根負けしただけよ、もう!」

 そう言いつつ、彼女はどこか恥ずかしそうに頬を赤らめていた。ふーん、と御幸は真田をねめつける。真田もまた、含み笑いを浮かべたまま御幸と対峙する。なるほど、なるほど。経緯は分かった。でも、面白くない。全く以て面白くない。自分でも珍しく、そんな不機嫌さが顔に出る。空気を悪くすると分かってなお、それを態度に出さなければ気が済まない程度には、彼女に未練があった。

 けれど、そんな御幸を前に、彼女はあくまで穏やかに微笑むだけ。

「だって、かずくんたちとの野球が、楽しかったから」

「先輩……?」

「野球とはもう関わらないって決めてたのにね。なのにあなたたちとの野球が楽しくて、その思い出がキラキラしてたせいで、もう一度この場所に戻ってきたいって思っちゃったのよ」

 そうして、彼女は御幸の前髪に手を伸ばして、さらりと撫でる。昔、試合で負けた時、こうして慰めてくれていた。子ども扱いされているようであまり好きではなかったけれど、この指先も、温かさも、野球を愛する気持ちも、あの頃と何一つ変わっていないと伝えてくれているようで。

「私の球を捕逸しないのは、かずくんだけだったなあ」

「……また、捕りたいっスね。先輩の、お化けフォーク」

「ええ、ぜひ。まだまだ、衰えちゃいないんだから!」

 ぐ、と拳を握り締めて笑っている。ああ、よかった。彼女の熱を繋ぎ止めたのは、自分たちでもあったのか。あの日々は、先輩にとって哀しくも寂しい思い出じゃなかった。それが分かっただけで、眉間に込められていた力がするすると解けていくのが分かる。単純にも程がある。でも、御幸はこの人の、野球を愛する横顔に、誰よりも惹かれたのだから。

「……先輩、そろそろ行かねーと」

 その時、少しばかり低い声が、この穏やかな空気を引き裂いた。邪魔をするなと睨みつけるも、向こうも同じように御幸を睨みつけてくるのだから、お互いどんな感情を抱いて彼女を見ているかなど一目瞭然。

 だが、今の彼女は薬師高校の生徒。どちらを選ぶかなど、言うまでもなく。

「そうね、みんな、待たせちゃってるかしら」

「そうスよ。監督たち寂しがりますよ」

「テキトーなこと言わない! じゃあ、かずくん、また」

 そう言って、ちょこんと会釈してから、彼女はパタパタと人混みの中に消えていく。けれど真田はその場から動かず、御幸を睨んだまま。

「……なに?」

「いや、知らねーなら教えとこうと思って」

「は?」

 まるで彼女の秘密を知ってますとばかりの態度に、御幸の声のトーンがガクッと下がったのは言うまでもなく。しかし、真田は表情を強張らせるどころか、どこかくたびれたような顔で口角を釣り上げた。

「いや、お互い前途多難だからさ」

「なんだ、それ。どういう──」

「監督ッ!!」

 その時、人ごみの向こうから今しがた去って行った彼女の声がして真田共々振り返る。そこには、恐らく薬師高校の監督だろう。青道の監督と違って威厳はなく、どちらかといえば親しみやすそうな壮年の男。そんな男に、彼女は必死にぺこぺこと頭を下げていた。

「す、すみません! お待たせしてしまって!」

「いーっていーって。それより、あの男前とはそういう関係なのか?」

「違、い、ま、す! シニアの相棒ってだけですよ!」

「ほーんなるほど。いやー、青春青春! ってか!」

「だからッ、違うんですって、もう!!」

 必死に抗議している先輩の頬は真っ赤に染まっている。あそこまで露骨に否定されるとは思なかったが、それ以上のその様子がおかしいことに気付く。すると、真田はがっくりと肩を落とす。

「先輩、誰に口説かれたとは、言ってねーよな?」

「……おま、まさか」

 愚痴のように零す真田に、この手の話題が疎い御幸でさえ全てを理解した。誰が彼女の心に再び火を灯したのか。彼女は今、誰に夢中なのか。顔を引き攣らせる御幸に、真田は再びヘラリと力ない笑みを浮かべた。

「ライバルが同学年、って方がマシだったんだけどなー」

 なんでこうなる。御幸はその場で頭を抱えて蹲った。



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