提出不可レポート

 二月某日、私はかねてからの計画を夫に持ちかける。

「一也、明日から一か月えっち禁止にしよう」

「え、なに、俺なんかした?」

 私の素晴らしき計画に、一也は目を点にして問い返してきた。

 別に、愛すべきダーリンが何か粗相をしたとかそういう話ではない。プロ野球選手として日々活躍する御幸一也は私の誇りである。無論、夜の方に不満があるわけではない。ではなぜこんな計画を持ち掛けたか。それは他でもない、一也の為なのである。私の作った渾身のふわとろオムライスを突きながら、全貌を語る。

「よく言うじゃん。試合前は禁欲した方が良いって」

「……まあ、昔はそうだったみたいだけど、今はヤッた方がいいって聞くぜ」

「そう、それなのよ。そこで実験ってわけ」

 昔の野球選手はとにかく禁欲禁欲の生活だったらしく、それに耐え切れない若い選手たちはこっそりホテルに女を連れ込んでいたとか現地妻作ってたとか、まあよく聞く話であった。ただ最近ではパートナーとの性行為は翌日のパフォーマンスにいい影響を与える、なんて研究結果も出ているようで。ただ、そんなん人に寄ると思う。なので。

 一也とはよっぽどのことがなければ週に一度は身体を重ねている。特別性欲の強いタイプではないはずだけど、一か月もレスだった記憶はない。だから気になったのだ。パートナーとのセックスは本当にパフォーマンスに影響するのか、と。

 鼻息荒く語る私に、一也は怪訝そうに眉を顰める。

「実験ねえ……何で急に?」

「どうってわけじゃないけど、強いて言えば捕手の三冠王とかいう歴史的快挙が見たいなーと」

「へーえ、打点王だけじゃ満足できねーと」

「誰かさんに似て貪欲なもので」

 そう告げれば、机の下で一也の長い足が私の足を小突く。行儀が悪いと咎めれば、へいへいと一也は肩を竦める。

「でも、それで影響出たらどうするんだよ」

「好影響なら続けて良し、悪影響なら戻せばいいし」

「……来週からシーズン始まるし、悪影響出たら困るんですけど」

「っつっても、オープン戦じゃない」

 どうせって言うのもなんだけど、ペナントレースには関係ないのだからあれこれ試せばいい。だからこそ、この時期に計画を持ち掛けたのだ。そう告げると、一也はオムライスを咀嚼しながら数秒考える素振りを見せてから、こくりと頷いた。

「実験あるのみか」

「そうそう、その意気その意気」

「我慢できなくなっても相手しねーからな」

「そっちこそ、我慢できずに襲ってこないでよ」

 挑発的な笑みに、こちらも挑むように返す。

 下らない実験かもしれないけれど、これで打率が上がるなら安いものである。プロ野球選手の選手生命は短い。一也にはその短い時間をめいっぱい、後悔なく過ごしてほしいのだ。家族との時間はそれからでもいいと、私は一也のプロポーズを受けたのだから。

 で、それから禁欲生活がスタートし、何事もなく最初の一週間が過ぎる。特に変化はない。急に打率が跳ねるわけでもないし、二塁への送球タイムが縮まるわけでもない。本人曰く、

「別に、いつもと変わんねえけど」

 らしいので、まあ最初はそんなものかと私も納得した。普段からあんまりイチャつく関係でもないし、シないならシないで平気なタイプなのだろう。それはそれでパートナーとして寂しく思うべきなのか、それとも浮気の心配はなさそうだと安心すべきかは迷いどころである。

 まあそんな感じで二週間、三週間が過ぎていくも、試合には影響でなかった。相変わらず得点圏では打つくせに、ランナーがいないと途端に三タコこさえる男である。打線の切れ目を考えて三番に置いた方が機能するのでは、なんて思いながら何事もなく禁欲生活は続いていく。流石にそろそろ一也が恋しくなってきたけれど、私もさほど性欲旺盛なタイプではないから困ってはいないし、一也もいつもと変わらない。毎日元気に野球して、帰ってご飯食べて試合を振り返って寝て起きて球場に向かう。その繰り返しだ。

「──そういや、そろそろ一か月だっけ」

 そうして開幕戦も近付く中、禁欲生活から一か月経過したことに気付く。今日は打線が爆発して二桁得点する一也のチームに拍手を送り、夕食の支度を済ませ、私は一人ベッドで寝っ転がりながらゲームをしていた。今日は日曜なのでデーゲーム、夕食時には帰ってくるはずだ。それまでゲームで時間を潰していると、玄関から物音がしてきた。

「おっかえりー」

 私は寝室から声をかける。試合で疲れた旦那を甲斐甲斐しく世話するような可愛げは結婚一年で飽きてしまった。ゲームが今いいとこなので手放せないのだ。どうせ一也は帰ってすぐ着替えて洗濯回すし。うつ伏せになってゲーム画面を睨み、某狩りゲームをしていると、寝室のドアがガチャリと開いた。だが、私の目線は画面に注がれたままで。

「ひええっ回避回避!」

 狩るか狩られるかの瀬戸際を楽しんでいたその時だった。背中にとんでもない質量の何かが乗っかってきて、ぐええとカエルが潰れたような声が漏れた。

「な、なにっ!? おかえり!?」

 当然、それは一也だ。うつ伏せの私に重なるように乗っかってきている。重い。野球選手の体重舐めてるのか。何をするんだとゲームを一時停止して振り返ると、がしりと顎を掴まれた。

「え、ちょ──」

 そのまま、抵抗する間もなく唇を喰われた。荒い息を流し込まれ、呼吸する隙も無いような口付け。ちらりと見えた一也は着替えてすらおらず、帰ってそのまま寝室に直行してきたらしい。

「ちょ、なに、どうし──んっ」

 いつもと明らかに様子の違う一也の肩口を押し退けようとするも、黙れと言わんばかりに再び口を塞がれた。もう片方の手は服の上からやわやわと胸を揉みしだいてくるので、何事かと目を白黒させる。こんな余裕のない一也、見たことない。

「なにっ、どうしたの、何が──」

 あったのか、そう訊ねるつもりだった。けれど一也は答えないまま、ムスッとしたような顔で律動するようにベッドを揺らす。そうしてようやく気付いた。臀部に、硬く熱い塊が押し付けられていることに。

「な、なん──なに、なんで?」

 勃ってる。それは分かる。理由は。性的興奮を覚えたから。それも、分かる。だけど、どうして『今』なのか。試合終わって帰ってきて、嫁はベッドでゲームしてるだけ。服装だって、パジャマでもなければセクシーな下着でもない、いたって普通の格好。興奮する要素が、一体どこにあるというのか。

「……余裕だと、思ってたんだよ。俺だって」

 困惑する私の上に乗っかったまま、一也が低く唸る。今朝の今朝までいつもと変わらず、飄々と球場に出発したとは思えないぐらい、溶けるような熱の籠った瞳が私を見下ろす。


「──なのに、お前だけ平気な顔してっから」


 言い出せなかった。そんな言葉が続いて聞こえた気がした。じゃあ、なに。まさか、一也はずっと、シたかったのに、我慢して。一か月も?

「い、言ってよ、それぐらいっ!」

「……今、言った」

「遅いよこの負けず嫌いっ!」

 どうせ一也のことだ。負けた気になるとかなんとかで、一か月頑張って耐えてたのだろう。どこでそんな意地張ってるんだか。そりゃ良かれと思って持ち掛けた実験だけど、我慢を強いるつもりなんかなかったのに。一也ってそんな熱烈なタイプじゃないし、大丈夫だと思っていたから、私。

「いーよ、今更」

 結婚して、二年──出会ってからは、何年経っただろう。なのに、一度たりとも見たことない、飢えた獣のような、けれどどこか楽しそうな笑顔が私に絡みつく。

「一か月分、頑張ってもらうから」

 ──数時間後、宣言通りに一か月分頑張ることになった私は、脳内のレポートに『マンネリ解消には最適』とだけ綴って、今回の実験の幕を閉じたのだった。



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