イマジン・ブレイク

 ある日、学校の行事で興味もないのに暑い中野球部の応援に行かされた。だるい暑い疲れると友人たちと文句を垂れながらスタンド席から試合を見下ろしたその時、私はダイヤモンドで輝く正捕手に恋をした。

「かっっっっっこいい……っ!!」

 選手の名前を御幸一也。御幸選手を知ってから、私の世界は一変した。野球なんか一ミリも興味なかったのに、彼の応援がしたくて細かいルールまで覚えたし、試合は必ず応援に駆け付けたし、その姿が躍動するたびに歓声を上げた。とにかくかっこいい、すき、ヤバい。何かもうオーラが違う。あれが同じ学校の同じ学年の生徒だなんて信じられない。アイドルよろしくうちわを作って、彼の活躍が激写された新聞の切り抜きを持ち歩き、世界はまるでバラ色に満ち満ちた。受験失敗して私立に決まった時は親に殺されるかと思ったけど、入ってよかった青道高校。

「そんなに俺のこと好きなら、次の古典の宿題見せてくんね?」

「うるさい御幸! 私は『御幸一也』選手の話をしてんの!」

「俺がその御幸一也なんですけど」

 私の後ろの席でぶつくさ文句を言う男に、振り返って噛みついた。頬杖付いてスコアブックを広げるそいつとは、一年からずっと同じクラス。図体も態度もデカく、口を開けば失礼千万の数々。これがあの『御幸一也』選手と同一人物だなんて、冗談じゃない。だって全然雰囲気違うじゃん、コイツ。眼鏡だし、眼鏡だし。一方で、手元の新たな新聞のスクラップには真剣な眼差しで打席に立つ御幸一也選手の姿。今日も溜息が零れるほどかっこいい。

「ほーんとかっこいい……世界の宝だよ、ありがとう御幸家……!」

「そりゃどーも」

「あんたには言ってない! 勘違いすんな自惚れ野郎!」

「御幸選手に向ける情熱の五パーセントでいいから俺にも向けてくれよ」

「ええい喋るなあ! 幻想が壊れる!!」

 ばっと耳を塞いで机に突っ伏す。私は信じたくないのだ。三年間もこうしてギャアギャア言い合っていたクラスメイトが、私が恋焦がれるあの人と同一人物だなんて。幸か不幸か背後の男と御幸一也選手は一見全然違う。姿格好も違うし、そもそも雰囲気が全然違う。教室にいる時は空気の抜けた風船のようなツラなのに、ひとたび防具を纏ってグラウンドに立つとそこには天才捕手がいる。机に広がる彼のスクラップに視線を注ぐ。はあ、かっこいい。

 すると、背後のクラスメイトが立ち上がって、机に広がる宝の山から切り抜きを一枚手に取った。

「じゃあ聞くけど、コイツのどこがいいわけ?」

「かっこいいとこ、すごいとこ、最高なとこ」

「顔だけかよ」

「顔だけじゃないわよっ! プレイも雰囲気も! 全部すきなの!」

「……ふーん?」

 御幸は心底興味のなさそうに鼻を鳴らす。そんな姿でさえ、写真の彼とは全然違う。やっぱり別人だ。そうに違いない。同姓同名の双子の兄弟がいるに違いない。だってこんなに、かっこいいのに。御幸の手にある切り抜きをバッと奪い返して、きちんとファイリングする。

 そんな私を、御幸は奇妙な生物でも見るかのような目付きで見下ろしてくる。煩い男である。こうなると御幸は梃子でも動かないのはこの二年嫌ってほど分からされてきたので、私はやむなく古典ノートを胸元に押し付けた。

「さっさと返してよね」

「へーへー、毎度どーも」

 ほんと毎度毎度である。御幸は別に成績悪いわけじゃないんだから、宿題ぐらい自分でやってくればいいものを。一年の頃からこうして都合よく利用されてはいるが、お礼にジュースやお菓子をくれるのでWinWinだと思うことにしてる。

「はあ……ほんとすき……最終的に一緒の墓に入りたい……」

「最終過ぎるだろ」

「煩い! あの人と同じ声で余計なこと喋んないで!」

「お前ほんと理不尽だな」

 そう言いながら、御幸は何が楽しいんだかケラケラ笑っている。それが、なんかよからぬことを企んでいる時の顔に見えて、身震いした。そうして、その予感は翌日になって的中したのだった。



***



 次の日、いつものように野球部の練習風景を眺めながら図書室で自主勉強をする。遠くに聞こえる御幸選手の通る声をBGMにすれば朝の眠気なんか秒で吹き飛ぶ。今日も自主学習が捗ったと、ウキウキしながらノートやタブレットを片付けて、購買の自販機で飲み物を買ってから教室に向かう。すると、教室の前に人だかりができていることに気付いた。女の子たちが集まって、きゃあきゃあと何か色めき立っている。あの眼鏡男のファンだろう。何故か彼女たちにはあの男と御幸選手が同一人物に見えているらしい。不思議なことだと思いながらその間を潜り抜けて、座席に腰を下ろす。ホームルームの後は数学だ。朝から重たい授業だと思いながら、教科書を準備していると──。

「なあ、数学の宿題どこだっけ?」

 ほらきたよ。後ろの席に座す眼鏡がタカりに来やがった。つんつんとシャーペンのようなもので背中を突かれ、私は苛立ち半分でぐるりと振り返る。

「だから昨日も言ったでしょ、四十八ページの──」

 声を荒げながら振り返って、目の前に広がる光景に言葉を失った。喉が砂漠と化したように乾き切っていて、声が出ない。だって、なんで、そんなの。

「四十八ページの、どこ?」

 いつものように頬杖付いて、人をおちょくったような笑みを浮かべて、見覚えのない誰かがそんなことを訊ねてくる。その声も、顔も、三年間眺めてきたはずだった。でも、記憶の中の男と合致しない。だって、こいつのトレードマークともいえる眼鏡を、していないのだ。

「な──なんで、あんた、めがね」

「練習中はずっとコンタクトだし?」

「で、でも、いつも、眼鏡でっ」

「練習上がるの遅れてさ、コンタクト取る暇なくって」

 嘘だ、絶対嘘。だって以前、自分で言ってたじゃないか。コンタクトのままだと目が疲れるからって、周りに騒がれるからって、だからどんなに時間なくても普段は眼鏡にしてるって、教えてくれたじゃないか。何より、からかうようにニタニタ笑うそのツラが、嘘だと如実に語っている。

「ほら、教えてくれよ。いつもみたいに」

「え、あ──う、うん……」

 いつも、そう、いつもの通り。そうだ、目の前にいるのはただのクラスメイト。三年間いいように使ってきた眼鏡男だ。そう言い聞かせて、教科書を手にニヤケ面した御幸に向き合う、でも。

「──〜〜〜っ無理!!」

 ごんっ、と御幸の机に額を打ち付ける。無理無理無理無理だって! だってあの人なんだもん! 顔面が御幸選手なんだもん! いや分かってたけど、同一人物であることぐらい! でも、だって、信じたくなかったの! そうじゃなきゃ、これから御幸とどんな顔して話せばいいか、分かんなくて。

「無理ってなんだよ」

 御幸は相変わらず楽しそうだ。ムカつく、惚れた弱味に付け込みがやって。そう睨みつけようと顔を上げると、そこには恋焦がれた選手がいるだけ。目を合わせられずにサッと視線を逸らしてしまう。どうしたらいいの、何を話せばいいの。声も手も震えてろくに機能しないのに、いつものように授業の解説なんかできっこない。だというのに、御幸は追い打ちをかけるように、震える私の手をするりと撫でるもんだから、飛び上がった。

「な、なによぉ……っ」

「んー、別に?」

 ニタニタしながら、御幸の硬い手のひらが私の手の甲をすりすりと撫ぜる。この顔面じゃなければぶん殴っているのに。逃げるように拳をぎゅっと縮こまらせるも、御幸の手は完全に私の手を覆ってしまう。逃がさないとばかりに机に縫い付けられ、いよいよ泣きたくなってきた。何でこんなことになってるんだろう。

「……お前さあ、いい加減気付けよ」

 無言になる私に、御幸の呆れたような声が注ぐ。気付くって何。あんたと御幸選手が同一人物ってことに? そんなのとっくに気付いてる。認めたくなかっただけ。この関係が壊れるのが、怖かっただけ。私はただ、あんたの活躍に熱上げながら、あんたと教室でギャアギャア騒ぐだけで、よかったの。よかった、のに。


「毎回宿題すっぽかすほど、俺不真面目じゃねえからな」


 ──息、止まるかと思った。ほんと、ただでさえいっぱいいっぱいなんだから、これ以上混乱させないで欲しいのに、どうしてそんなことを言うの。泣きそうになりながら勇気を振り絞ってニヤケ面を睨みつけると、御幸は少し驚いたように目を丸くして、緩やかに瞳を細めた。レンズ一枚無いだけで、表情が全然違って見える。

「ようやくこっち見たな」

 目が合って、ニヤケ面がふわりと柔らかく微笑む。いつもの御幸でも、御幸選手でもない姿に、頭がぐちゃぐちゃになる。私の知らない誰かにしか見えないのに、それでも姿かたちは御幸のもので。

「──やっぱ、五パーセントじゃ足りねえわ」

 こっそりと囁かれたその一言に、白旗を上げる以外に何ができただろう。何言ってんの、今更。もうとっくに、百パーセント、全部が全部、御幸一也に捧げてるって知ってるでしょ、ばか!



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