ごめんねシグナル

 がら、と冷凍庫を開けると、買った覚えのないアイスが二つ、コロリに転がった。コンビニでも買える、某有名なちょっとお高めなアイスである。とはいえ、大人になってそれなりの賃金を貰えている今、買おうと思えばいくらでも買えるものである。けれど何だかんだ特別感のある、不思議な食べ物だ。

「あれ? 一也、アイス……」

 この家に住むのは私と一也しかいない。だから購入者であろう男を呼ぼうと振り返ると、仏頂面した一也がいつの間にか私の背後に立っていた。

「……買ってきた」

「それって──」

 その続きを紡ぐより先に、暗い顔をしたまま一也は私をぎゅうっと抱き締めた。プロ野球選手になって、ただでさえ大きな身体はもっともっと逞しくなり、柔らかな胸筋にむぎゅっと潰される。

「ごめん」

「……昨日のは、私も悪かったのに」

「それでも、ごめん」

「わ、私も、ごめん」

 昨日のは、本当に大人げなかった。仕事が上手くいかないせいで八つ当たりなんて、いい歳した社会人のやることじゃない。それでも、こうしてちゃんと謝り合える関係を築けて、心底よかったと思う。一也もまたほっとしたように胸を撫で下ろし、自分の分である抹茶味のアイスを手に取り──甘い物が苦手な彼が食べられるフレーバーは少ない──、スプーンを取りに向かう。その背中を見ながら、遠い遠い過去を思い返す。

 きっかけは何だったか、今となってはそれすらも曖昧。ただ、しょうもない、些細な喧嘩だったことは確かだ。野球に全てを捧げた一也と一緒に居るのはそう簡単な話ではなく、たびたび下らないことで衝突した。そんな時、イマイチ女心の分かってない一也が仲直りのきっかけにこのアイスを二つ買ってきた。そうして美味しいアイスを食べていると思考が冷えて落ち着くのか、どちらからともなく「ごめん」と言い出せるようになったのだ。

 それに味を占めたのか、喧嘩したりちょっと空気が悪くなったりすると、決まって一也はアイスを買ってくるようになった。それはプロ野球選手になっても、同棲しても、結婚しても、その習慣は変わらなかった。一也なんか私とは比べ物にならないぐらいの年棒を貰っているのに、仲直りのサインは宝石の散りばめられたアクセサリーでも、中々手出しし辛いデパコスでもなく、三百円もしないアイスクリームなのだ。

「(別に、アイスが特別好きってわけじゃないんだけどね)」

 甘い物は好きだし、このアイスも好きだ。だが、三度の飯より好きかと言われたら違う。それでも、このサインを甘んじて受け入れているのは、何億も稼ぐようなプロ野球選手が、私のために三百円のアイスを求めてコンビニを彷徨って、どういうフレーバーがいいのかと頭を悩ませ、ひっそりと冷蔵庫に忍ばせるその姿が愛おしくてたまらないからだ。球場では威風堂々とするスター選手とは思えないほどの健気さに免じて、ついつい三百円のアイスで何でもかんでも許してしまうのだ。

「今日のはなあに?」

「ナントカチョコレートサンデーだって」

「わー、美味しそう!」

「お前の好きそうな、いかにも甘ったるそうなやつ」

「一也もたまには抹茶以外食べてみたら?」

「いーよ。俺はずっとこれで」

 苦々しげな表情で語る一也は、何年経っても変わらない。

 これがただのご機嫌取りじゃないと分かったのは、決まってアイスを二つ買ってくるからだ。私と一也、二人で一緒に食べることに、きっと意味があるのだろう──いや違う。意味がある行為に、してきたのだ。長い時間一緒に過ごして、私と一也の二人だけの特別なサインを作ったのだ。アイスを持っていない方の手を狐のような形にして、くすりと笑みが零れる。

「なにそれ」

「一也のマネ」

「全然ちげーよ」

「サインの仕組みよく分かんないし」

「そりゃ盗まれた事だし?」

 そんな下らない話をしながら、二人で肩を並べてアイスを食べる。ああ、そうだ。値段でも、物でもないのだ。二人でこのアイスを食べるという行為にこそ、値千金の価値があるのだ。ならば、私の役目は一つだけ。

 誰にも解読されず、盗まれることのないサインを、私は生涯守り続けよう。



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