卑怯者のエレジー

 幼馴染って厄介だ。その時間が長ければ長いほど、相手に『性』を見せ辛くなる。鼻水垂らして駆けずり回ってた時代から、青くささくれ立った時代まで余すところなく共有してきたからだろうか。なんというか、子どもの頃はそういう知識を大人たちにタブーとされてきた。それ故か、そんな可愛らしくもおぞましい呪縛を、互いの顔を見るたびに思い出してしまうのかもしれない。

 だというのに、何の因果かそんな幼馴染と付き合うことになったのだから、まあわりと困ったことになった。

「一也って性欲あんの?」

「は?」

 その幼馴染というのが御幸一也という男である。気付いたらプロ野球選手になっていたこの男との付き合いは、なんだかんだともう二十年にも及ぶ。銀婚式挙げられるレベルである。いや、銀婚式って二十五年だっけ。まあ誤差の範囲である。

 とはいえ、お互いそういった関係ではなく、切っても切れない腐れ縁ぐらいだと思っていたのだが、一也はこちらが驚くぐらいあっさりとその縁を塗り替ると言い、一也ならまあいっかと私は頷き、そうして紆余曲折を得ることなく幼馴染が恋人にジョブチェンジしたわけだけども。

 私が思っている以上に、『恋人』は難しかった。

「何、急に」

「いや、一也って野球以外の欲があるのかな、と」

「俺のことなんだと思ってんだよ」

「野球馬鹿」

「そりゃ光栄」

 そう、物心つく前からこの男が追いかけていたのは流行りのゲームでもテレビ番組でもなく、白いボール。そんな一也を、ずっと傍で見てきた。その為にありとあらゆる犠牲を犠牲とも思わぬ顔で支払う少年は、いつの間にか私よりもずっと大きくなっていた。好物は野球、趣味も野球、特技も野球。二言目には野球、野球、野球。ついにはそれを生業としてしまうのだから、馬鹿も突き抜ければ才能である。

 そんな一也からこの関係を提案された時には胃が引っくり返るほど驚いた。何故なら家族以上に共に過ごしたこの男を、私は何だかんだ恋愛対象として見ていたからだ。まさか両想いだったとは思わなかったので、一緒に酒飲みながら『一軍入ったら同棲しようぜ』なんて言われた時はドッキリ大成功の看板がいつ飛び出してくるか気が気じゃなかった。で、そんな約束から一年と経たずして私は住まいを幼馴染と暮らすマンションに移したわけだが。

 ここで当初の問題にとんぼ返り。果たして一也にそういった欲はあるのか、と。

「お前こそあんの?」

 質問に質問で返す一也。相変わらず底意地の悪い男である。ひとまず相手の出方を窺う──捕手としての癖なのだろうか。まあ、それを甘やかす私が悪いんだろうけど、と分かっていながら首を振る。

「正直、分かんない。けど」

「けど?」

「意識するのは、難しい、かも」

「と、いうと?」

「……一也とさ、そういうことするって、こう、考えると、『ぎにゃー!!』ってなる、みたいな」

「なんだよ、それ」

 片思い(思い込み)が長すぎた影響もあるのだろうか。要はそういう雰囲気に慣れないのだ。女として、恋愛対象として、一也と接するのはすごく苦手だ。だったらまだ素っ裸で着替えてるところ偶然見られる方が──いやまあそれはそれでどうかと思うけど──まだマシだった。

「ふーん」

「それで、一也はどうなの?」

「……教えねえ」

「は!? ずるい! なにそれ!?」

 こっちは正直に答えてやったというのに、なんだこの男。ぎゃんぎゃんと食って掛かれば、一也はめんどくさそうに溜息ついた。

「大体お前さあ、俺になんて答えて欲しいわけ」

「な、何って……正直に?」

 嘘吐く意味も分かんないし、と続けると、一也は大袈裟なくらい大きな溜息をついて見せた。それからそっぽ向いて、また溜息。何さとソファの隣に座る男をつんつんと小突くと、何度目か分からぬ溜息が漏れた。そして。

「同棲までしたのに『意識すんの難しい』とか寝惚けたこと言うような奴に、バリバリあります今すぐ襲いたいですとか言えるわけねーだろ」

 一瞬、綺麗な唇が何を紡いだか理解できず、つらつら述べられたその言葉を脳内で五回ほど繰り返す羽目になった。ただ、意味を理解した瞬間、私は仰け反りながらソファから転げ落ちた。

「バッ──おそ、そ!?」

「そりゃそーだろ」

 床にへたり込んだまま後ずさりする私を、一也は呆れたように見下ろす。そしておもむろに立ち上がると、じわりじわりと近付いてくる。私が離れる。一也が近付く。私が離れる。一也がまた近付く。私が離れようとして、背中にとんと壁がぶつかった。ひく、と頬が引き攣る私を、一也はじいっと見つめている。

「……俺はずっと、お前のことそういう目で見てたのにな」

 一也はゆっくりと腰を下ろして、目線が低くなる。それでも見上げなければ、この幼馴染がどんな顔をしているか見えない。怒っているのか呆れているのか、物静かな表情のまま。一也のことは何でも分かるはずなのに、なんだって知ってるはずだったのに。分かんない。知らない。誰、これ。一也は、だって、一也は。

 一也の手が頬を滑る。あったかい指先。この手はとてもよく知っているはずなのに、親指の腹で頬の産毛を撫でるこの手付きは、知らない。顔の輪郭を確かめるように指先で顎を掴み、そのまま顔を近づけられて完全にフリーズ。伏せられた睫毛の長さも、鼻先を掠める匂いも、くっつけられた唇の熱量も、私の知らない何もかも。どれくらいそうしていたかも分からなくなった頃、ようやく一也の顔が離れていく。指一本動かせないまま硬直する私を見た一也は、、ふはっ、と力の抜けたように笑った。

「お前でも、そんな顔するんだな」

 知らなかったと笑う男に、こっちのセリフだと噛みつきたかったのに、再び口を塞がれて何にも言えなくなってしまったのだった。ひ、卑怯者!



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