唾棄すべきヘレニズム

「うわ、びっくりした。天使かと思いました」

 その日、五条悟は初めてできた後輩に口説かれた。

 高専に入って、二年目。五条は二年生になり、下の学年が入ってきた。どんな有望株が入ってきたのかと教室に冷やかしに行けば、そこには男二人と女一人が見える。真面目そうな男、人懐っこそうな男、そして大人しそうな女だ。男二人は中々どうして見込みがあるが、女の方はイマイチだ。何故高専に入学できたかも分からない。呪力の流れがほとんどないのだ。だから、五条はごく当たり前のようにこう言った。

「は? 何この雑魚。こんなんと同期とかついてねーなー、お前ら」

 初対面の相手にかけるセリフではない、此処に夏油がいればそう窘めたであろう。無礼千万な言葉に男二人は驚き、女は首を傾げた。そして、柔らかそうな唇がこう言ったのだ。『天使かと思った』と。

 確かに五条悟の容姿は日本人どころか人間離れしている。整った顔立ちは勿論のこと、朝日に輝く白銀の髪に、空の果てのような紺碧の瞳に、白磁の肌。精巧な人形のように整ったそれを、人々は口々に褒め称えたものだ。妖精、天使、神の子──大袈裟なフレーズは耳に胼胝ができるほど浴びてきた。しかし高校生となった五条は雨後の筍のように身長が伸び、大抵の大人は既に見下ろす立場。そんな大男相手に『妖精』だの『天使』だのと可愛らしい表現を使う者はもういなかった。だから、久々に聞いたその言葉を、五条はいたく気に入った。

「天使、いいね。お前、見る目あるよ」

「はあ……どうも」

 その時、後輩三人は全員が思ったという。厄介な先輩に目を付けられた、と。

 それから五条の後輩可愛がりは夏油を交えて続いた。中でもお気に入りは、やはり自身を『天使』と称した後輩である。この後輩は見立て通りとにかく弱かった。そして一子相伝の術式を持っているわけでもないし、反転術式なんかもっての外。けれど決して、優秀な同級生に置いて行かれまいともがいた。その足掻きは本当に見苦しく、五条には露ほども理解できない『凡人』であった。雑魚、クズ、お荷物、五条はよく彼女に向かって当然の言葉を投げかけた。夏油が諫めようともお構いなしだ。けれど、事実をぶつけられた彼女はこくりと頷いて言うのだ。

「やっぱり五条先輩は、天使みたいです」

 嫌がるでも反論するでもなく、事実を飲み込んで少女は何度でも言うのだ。天使みたいな人だ、と。愚図で役に立たない女だったが、その一言は聞いていて飽きなかった。何故なら五条悟はお世辞にも、褒められた性格ではなかった。彼女の口振りから『天使』は容姿ではなく性格を差していることは明らかで、この性格のどこに天使たる要素があるのか、五条にも分からなかった。それがよかった。分からないものは、万能の五条悟にとってはこの上なく面白い物であったから。だから彼はその理由を聞くことはなく、現実を少女に突き付けたのだ。

「なー、なんで五条さんが天使なんだ?」

 そんな日々が半年ほど続いた頃だろうか。一年同士がそんなことを話し始めたのを、五条はたまたま耳にする。結局、五条にその真相は分からなかった。分からないものは面白いが、分からなさ過ぎてもつまらない。五条は我儘で面倒な男であった。ここいらでネタ晴らしも、悪くないかもしれない。そんな男の盗み聞きなど露とも知らない三人は会話を続ける。

「なんでもなにも、言葉の通りだけど……」

「本当に君にはあの傲慢な人が天使に見えるんですか?」

「灰原も七海もどうしたの? なんで? まんまじゃない?」

 困惑したような少女の声に、男二人はますます怪訝そうな顔をする。五条だって自分が天使のような性格をしているとは思っていない。だから、多分きっと『何か』が違うのだろう。

「では、君の言う『天使』の定義とは?」

 そう、定義だ。根底から彼女のいう『天使』の定義が世間一般とズレているのだろう。夏油傑も家入硝子もこの後輩二人も誰も彼もが天使と呼ばれる五条を見て口を揃えて言うのだ。どこがだ、と。だが、彼女は頑なにその理由を告げなかった。誰に聞かれても首を振って答えるのだ、『見たまんまだ』と。

「──あ、ひょっとしてお前、五条さんにも言霊使ってんのか?」

「だから天使、と? 流石にあの性格はどうにもならないのでは?」

 確かに、それも考えた。女の術式はありふれてはいるものの、戦闘力に乏しく廃れたに等しいそれ。そう、女は言霊師だった。

 紡ぐ言葉が全て実現してしまう呪言師と違い、言霊師は文字通り言葉に霊力──つまり呪力を宿すものだった。重ねた言葉は重みと縛りと呪力を増し、やがて現実さえ書き換えるほどの力を持つ。と聞こえはいいが、実際そんな重みが現実に影響を及ぼすには何日も何週間も、ともすれば何年も何十年も要する。その変化が困難であればあるほど、だ。故にこの唯我独尊を地で行く五条悟を天使のような性格にしたいのであれば、百年あっても足りやしない。だからその可能性はないな、と五条は思っていたの、だが。

「そうなったら面白いかなあ、って思ってはいるよ」

「マジで!?」

「気は確かですか?」

「そりゃ、最初はほんとに天使みたいな容姿だなあって思ったよ。でもこれで中身も天使みたいになったら面白いなあって思って、つい」

 どうやら、あの後輩は五条が思っている以上に愚かだった。この性格を、自らの言葉で矯正したいとはいい度胸である。あとで組み手という名の折檻だ──そう考えていたの、だが。

「多分ね、時間の問題だよ」

「え、なに。上手くいってるってこと!?」

「とてもそうは見えませんけど」

「それは二人のイメージと私のイメージが違うからだよ」

 そう言って、少女はにっこりと悪戯っぽく微笑んでみせる。くすくすと、本当に楽しそうに笑うその横顔は、何故か目が離せない。今まで、彼女のあんな表情は見た事が無かったから。

「私が神の酒[νέκταρ]を飲む日は近いね」

 何故なら彼女は、初対面から五条に呪いをかけていたのだから。



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