久遠のシリウス


 ただ一也が好きで、ただ一也と一緒に居たくて、ただ一也と幸せになりたい。それができるのなら、一年の半分以上会えない恋人を思い続けることなんか苦じゃなかった。そう思っていたはずだった。なのになんというか、世界はあんまり私たちには優しくなかった。

「ごめん一也、私、もう限界」

「……悪い」

「やめて、一也は謝らないで」

 こんなこと、一也のせいにはしたくない。けど、弱い心が『本当に?』と囁く。嘘じゃない、一也のせいじゃない。ああ、でも、だけど。膝の上で握る拳に巻かれた包帯が、おぞましい恐怖を呼び覚ます。

「……ごめん。やっぱり、別れて欲しい」

 愛してるのに。傍にいたいのに。一緒に幸せになろうって約束したのに。どんなに寂しい思いをしても思い続ける自信はあったのに。まさか自分の口からこんなセリフを言う日が来るなんて、思ってもみなかった。

 覚悟が、想像が、或いは危機管理能力が足りなかったと言えば、きっとそれまでの話だった。珍しく、本当に珍しく一也がデートに行こうと誘ってくれた。普段行けないような会員制のバルでお酒や料理を楽しんで、浮かれていたのは認める。だけど、店を出入りするところを下世話な週刊誌の記者にキャッチされ、SNSに上げた写真から個人情報を特定されたのが運の尽きだった。アカウントだけでなく私の名前から住所まで割り出した彼の過激なファンは揃って、『お前なんかが御幸一也の恋人にふさわしいはずがない』と誹謗中傷の嵐。若くして一軍で活躍するイケメン捕手はそれはもう女性に人気があり、中には顔ファンなんてのもいるほどだ。けれど、その程度であれば耐えられた。SNSは見るも絶えないコメントの嵐だったからアカウントを消して一切見ないようにしたし、郵便受けに罵詈雑言を綴った手紙が入っていようが、見知らぬ人に生卵をぶつけられようが、それを笑い話にできる強さと自信があると思ったのだ。こんなものには負けないぐらい、彼への愛があるのだと。

 けれどそんな覚悟は、脆くあっさりと崩れ去る。

「……もう、こんなこと起こさせねえよ。連中は全員開示請求して裁判まで持ち込むつもりだ。球団側も流石にほっとけねえって、全面的にサポートするって約束した。だから」

「違う。違うの、一也。違う、そんなことじゃない」

 無意識に震える身体を一人抱き締めると、腕や背中がずきりと痛む。そのたびに、もう忘れたのかと、悪魔が囁いているようだ。

「──こわいの。こわいのよ、一也、私」

「……」

「分からないでしょう。見知らぬ女にナイフでめった刺しにされる恐怖、なんか」

 ──私も、一也も軽視していたのだ。彼を思うあまり、理性と倫理感さえかなぐり捨てる狂信にも似たファンの愛に。

 その日私は、いつものように仕事を終えて帰宅する最中だった。けれど、マンションの入り口には知らない女が立っていた。狂気じみた笑みを浮かべ、私の顔を見るなりこう言った。『やっぱり、御幸君には相応しくない』と。その時点で嫌な予感がして背を向けて逃げ出したけれど、女は隠し持っていたナイフで私の肩を刺した。『お前の、お前のどこが』、そう言いながら女は私を何度も刺した。小さくて、切れ味の悪いナイフは刺すというより殴られている感覚だったのが、不幸中の幸いというべきか。

 女はすぐに逮捕され、怪我が怪我だけにそこそこニュースにもなった。幸い命に別状はなかったし、後遺症もないと医者は告げた。どこがだと、吐き捨てるような気分だった。私の心には、二度と消えない疵ができたというのに。

「……一也の傍にいると、また同じ目に遭うんじゃないかって、怖くて眠れない」

 怖い。暗闇の中に光る狂気とナイフ。あれからしばらく経ったけど、毎晩夢に見るほどに、私の心はズタズタにされてしまった。おかげで、もう何日家から出ていないか分からない。

「もう、こんな目に遭わせるかよ。俺が守る、だから」

「──でも一也は、助けてくれなかったじゃないっ!!」

 一也のせいにしたくない。なのに、恐怖が思考を狂わせる。ぼろぼろと流れる涙を、一也は何を思って見つめているのだろう。

 見知らぬ女に刺されて、なんとか命からがら逃げだして、でも誰も助けてくれなくて、泣きながら警察も救急車も家族も自分で呼びつけた。当然、一也にだって連絡はした。だけど、一也がやってきたのは、私が入院してから二週間も経った後だった。仕方ないといえばそれまでだった。彼はしばらくキャンプで海外にいたのだ。日本にいれば試合もあるだろうし、呼べばすぐ来てくれるタクシーとは訳が違う。それでも。

 もう大丈夫だと抱きしめて欲しかったのは、家族でも医者でもなかったから。

「俺のこと、嫌いになった?」

「……馬鹿言わないで。好きに決まってるでしょ」

「っ、だったら!!」

「だから、好きなうちに別れて。野球やる一也を、邪魔したくない」

 綺麗な思い出のまま終わらせたい、なんてつもりはない。ただ、ひたむきに野球をする彼が好きだった。その眼差しを愛していた。それすら奪ってしまうようなら、それこそ彼の隣に相応しくはない。私はもうだめだ。一人では耐えられない。でも一也は傍にいてくれないだったら。

「私は、“私”を選んでくれる人を、選ぶから」

 残酷な一言だ。でも、言わなければならない。それが双方の為だと決めたのだ。野球が一番でも、それでも一也の二番目はきっと、私だった。そんな彼にこんな残酷なことを突きつけてしまう自分が、心底嫌になる。それでも私は、この寂しい家で一人待つなんて、できない。

「……ごめん」

 今日何度目か分からない謝罪と共に立ち上がる。二人で暮らし始めたこの家ではなく、自分の生まれた家に帰るためだ。仕事は休職にし、傍にいると言ってくれた家族に今は思いっきり甘えることにした。これでよかったのだと、思うしかない。一也は野球を続ける、私は家族と生きる。それで、いい。

 唯一、嬉しかったのが、別れると言い出した私を一也がこうして引き留めてくれたことだ。野球以外の物事に執着しない彼のことだ、別れると言えば『分かった』と二つ返事で頷くのではないかと危惧していたのだ。いくら自分で望んだこととはいえ、そんな幕切れは流石に寂しすぎる、と思ってしまう程度の愛はまだあるわけで。身勝手なものだと自嘲する。そんな一也の思いを振り切って、全てをおしまいにしようというのにね。

 ああ、でも。どうせ最後だもの。せめてこれくらい、傷跡は残させて。

「愛してる。……ずっと、ずっと応援してる、から」

 例え側に居れなくなったとしても、それだけは絶対だ。私を手放してまで選んだ道だ、最後まで見届ける。だからそれまではどうか、自分の思うままに、走り抜けて。

 そこで初めて、一也の表情が一変した。まるで夢から醒めたようなその顔に、こちらが面を食らった。だけど、これ以上此処にいると決心が揺らぎかねない。この家はあまりにも、思い出が多すぎる。だから一也の視線を振り払って玄関まで駆けだした。なのに。

「──行くな」

 ドアノブを捻るだけで、全てが終わるはずだった。なのに、なのにどうして、私は一也に抱きしめられているのだろう。縋りつくような弱弱しい声で、信じられないような力で、背後から抱しめてくる一也は、何を思ってそんなことを言うのだろう。

「……行く、な」

 分からない、分からないよ、一也。私もう、だめなんだよ。一也が傍にいてくれないなら、この傷を癒す場所を探さなければ、私は一生ずたずたのままだ。そんなの分かってるはずなのに、どうして引き留めようとしてくるの。私にまだ、苦しめって言うの?

「傍には居てやれない。でも、それ以外は何だってする」

「一也、私は──」

「だから、行くな」

 とめどなく流れる涙に、両手で顔を覆うしかできない。悲しいからじゃない。嬉しいのだ。こんな目に遭って、未だに包帯が取れないほどの大怪我を負って、それでも私を手放してくれない一也の愛が、こんなにも嬉しい。嬉しくて、けれどこれ以上にないほど残酷で。

「一生、恨む」

「それで、気が済むなら」

「お父さんに、また殴られるよ」

「大したことねえよ、お前の傷に比べたらさ」

「もう、野球する一也を応援できない」

「俺を選んでくれるなら、それでもいい」

 だから、行くな。耳元に落とされた声は、涙ぐんでいるようだった。腕の力はどんどん強まって、刺された傷がずきんと痛む。あの日を忘れるなと、言わんばかり。

「……一也は、私のこと選んでくれないくせに」

 それでも、この腕を振り解けない弱い自分に、また涙が零れた。



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