バケツ決壊注意報

 円満な関係のコツは隠し事をしないことにあると、いつだったか母は言った。なるほど、百理しかない。忙しい恋人と過ごす時間は貴重だ。煌めく高校三年間を無駄にしたくないと、思ったことは素直にぶつけることにした。

「御幸! イチャイチャしよう!」

「……お前のそういう馬鹿正直なトコ、ほんと尊敬するわ」

「馬鹿とはなにか馬鹿とは!」

 仮にも尊敬しているなら決して腹抱えて笑いながら言うセリフではないはずだけど、前向きな回答が貰えただけ良しとしよう。

 ここは青心寮近くの使われなくなった倉庫裏。木々や建物のおかげで日陰にもなるし、人通りも滅多にない。夏は蚊に刺される以外のデメリットがない、素晴らしき逢瀬スポットである。部活の忙しい御幸とはデートなんてできようはずがないので、お昼休みにここでこっそり会うのが私たちにとってのデートだった。一日一時間もない僅かな時間を、私たちはそれなりに有効に使ってきたと思う。だけど、足りない。まだ足りない。もっとこう、恋人らしいことがしたい。正直にそう伝えれば、隣に座る御幸がなるほどと頷いた。

「それは別にいいんだけどさ」

「いいんだ」

「嫌なら付き合わねえだろ」

 それもそうか。御幸ってそういうの淡泊だし、あんま好きじゃないのかと思ってた。ふうん、いいんだ。ニマニマ笑みを浮かべる私に、御幸は澄ましたように言う。

「イチャイチャって、具体的に何すんだよ」

 その一言に、私は咄嗟に答えられなかった。確かに、『イチャイチャ』という表現はあるが、具体的に何をしていることを示すのだろう。手を繋ぐ? ハグ? キス? それ以上? どれも正解な気がするし、どれもなんかズレているような気もする。

「なんだろ、こう……くっつく、とか?」

 試しに、拳二つ分空いたスペースを詰めて御幸の横に座る。足や肩がくっついて、私よりもずっと体温の高い身体にびくんと肩が震えた。御幸、あったかいな。そう思いながら顔を上げると、余裕に満ちた表情が私を見下ろす。

「それで?」

「それで……て、手を繋ぐ、とかどうでしょうか」

 膝の上にあった御幸の大きな左手を取り、右手で触れる。手もあったかい。大きくてごつごつしてて、筋張った指に自分の指を絡めて握る。にぎにぎと、感触を確かめるように力を入れると、それに応えるように御幸が手を握り返してくる。ぎゅーん、と得も言われぬふわふわドキドキむずむずとした感覚がせり上がってくる。

「すごい多幸感……これが、イチャイチャ……!」

 うん、うん、うん。こういうことじゃないかな。美味く表現できないけど、こう、お腹いっぱいというか、お風呂に入った時というか、或いはあったかい布団に潜り込んだ時というか、そういう『幸せ』を感じて、自分の中の幸せバケツ的なものが満たされていく。きっと今、バケツは九割以上水かさがあるのだろう。それぐらい、満ち満ちて、あったかい気持ちになる。

「最高……バケツたっぷたぷになるよ、これ……」

 これが『答え』かと、何故か漫画の主人公のようなことを考えながらしたり顔で頷く。ふと、御幸はどう思っているのかと、もう一度彼の顔を見上げる。すると、思いのほか鋭い視線が私を射抜いた。

「──それだけ?」

 挑発ともとれる、その一言で無意識に肩が跳ねた。御幸は試合中と同じぐらい真剣な表情で、ぽかんとした私の顔を覗き込む。

「俺が思うイチャイチャって」

「え、おあ、ひっ!?」

 急に御幸は体の向きを変え、私と向き合うように座る。片方の手が私の腰を抱き寄せるだけで、ぞくぞくとした電流が走る。そしてそのまま、繋いだ手を持ち上げて指先に唇を押し当ててきた。手のひらとは違う、少し湿ったその感触に変な声が漏れる。

「ひ、あ」

「こーやって」

 そのまま指と、手のひらにキスをする御幸。御幸が、あの御幸が、キスしてる。私に。視覚情報だけでキャパシティが爆発した私は、ぎゅっと目を瞑って視界を塞ぐ。だけど、御幸は止まらない。寧ろどんどんエスカレートしていく。熱い唇が指に、手首に、腕に、首元に、押し当てられる。ちゅ、ちゅ、とわざとらしいリップノイズを残して、頬に、瞼に、そして唇が重ねられた。どうしよう。初めてのキスなのに、全然全くちっとも何にも考えられないまま、硬直することしかできない。

「それから──」

 ぐっと熱の籠った唇が、今度は耳元をくすぐる。そのまま繋いでいない方の手が、ゆっくりとむき出しの太腿を撫でる。太い親指が表皮をくすぐるように動き、徐々に上へ上へと這いあがってくる。ついその手がスカートの中に侵入し、完全にショートした私に御幸が悪戯っぽく囁いた。

「こーいうことするやつだと思うんだけど、違う?」

 その瞬間、私の中のバケツが火山の如く噴火した。

 私は声にならない悲鳴を上げ、文字通り転がるようにして御幸から離れた。スカートが土だらけになっても気にならず、私は叫ぶ。

「ばけつ!! こわれた!!」

「──は?」

「補充!! いてくる!!」

 自分が何を言ってるか、何を考えてるのかさえ理解しなかった。すでに九割満ちていたバケツにダムが決壊したような濁流が流れ込んできて、熱いやら恥ずかしいやら幸せやらでバケツが粉砕されてしまった。私はそのまま御幸を置き去りにして、脱兎の如く倉庫裏から逃げ出したのだった。

「……コレ、どうしろってんだよ」

 ──後に、ズボンを膨らませた当時の一也は途方に暮れ、授業をサボらざるを得なくなった聞いて、私は笑い転げた挙句ベッドに衝突して左腕を折るはめになった。馬鹿につける薬は何年経っても見つからないと、一也は呆れてそんなことを告げたのだった。



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