マグカップ・ラヴァーズ

 仕事なんか嫌いだ。そう呟けば「辞めればいいだろ」と一也は言う。そうじゃないんだわ。そういうことじゃないんだわ。確かにね、プロ野球選手として華々しく活躍する一也の年棒を考えれば私なんの為に仕事してんだろ、と空しくなるわけですよ。でも、だからって仕事を辞めたいわけじゃない。専業主婦に憧れたこともあったけど、私は所謂『暇になるとダメになる』タイプの人間だった。やることがないと途端にだらけてしまう。なので、金を稼ぐためでも、やりがいでもなく、自分を律する為に仕事を続けている。かといって仕事大好き人間でもないわけなので、何度やっても同じエラーを吐くシステムを前に私は頭を抱える他ないのだ。

「なんで……条件も分岐もあってるのに、エラーで返るんだよお……ッ!!」

 そんな嘆きを声に出して許されるのも、在宅勤務のいいところでもあり悪いところでもある。返る言葉もないのに独り言が増えてしまう。だが、もうすぐ日付が変わろうって時間まで戦ってれば誰だって叫びたくもなる。つらい。もうやだ。でも残念、この業界は日付が変わってからが本番です、ってね。ふざけてる。労働基準法なんてくそくらえだ。

 ラップトップを前に項垂れる。休憩なしでノンストップで十時間以上ずっと膠着状態が続いている。だめだ、流石に脳が悲鳴を上げている。少し息抜きでもしないと。でも、あとちょっとで終わるはずなのに。そんな希望に縋りついて、だらだらと仕事を長引かせてしまうのは私の悪い癖だ。でも、だけど、これが終われば、一也とゆっくりできる。だから。

 意を決して顔を上げたその時、部屋のドアが遠慮がちにノックされる。

「入るぞ」

「あー、うん」

 生返事した後、がちゃりと背後でドアが開く音がする。だが、振り返らない。なんか、今一也の顔見たらここで張りつめてる糸がぷつんと切れてしまいそうで。踏ん張ってきた何もかもが、たかが外れてしまいそうで。だから私は画面を食い入るように見つめて、集中力を保つ。背後の一也がこちらに歩いてくる。すると、トンとデスクにマグカップが置かれた。

「おつかれ。飲み物、持ってきた」

「え、あ、ありがと」

「あんまり根詰めすぎるなよ」

「うん。もうちょっとだから」

 まあ、そのもうちょっとで突っかかってるんだけど。いよいよ神棚でも作ってお祈りするかと思いながら、一也が持ってきたマグカップに手を伸ばす。たっぷりと注がれた黒い艶めきにマグの中身はコーヒーだと判断し、眠気覚ましの一杯にと口をつける──と。

「うあっ、あ、甘っ、あれ!?」

 突如口の中に広がる温かな甘みに、脳みそが『これはコーヒーじゃない!』と今更すぎるアラートを鳴らす。舌先の甘みは、どう考えてもココアのそれだ。嘘でしょ、コーヒーとココアの匂いすら区別つかないほど疲れてたのか、私。

 一人で騒ぐ私に、一也が背後で吹き出すのが聞こえた。

「ぶはっ、何してんだよ」

「ご、ごめん。コーヒーだと思って飲んだから、頭バグった……」

 目隠しすると意外と味が分からくなる、なんていうけれど、人間は視覚でも味覚を補っている。こういう味がする、という前提の元口に入れたら苦味とは真逆の味がしたので、一瞬何が起こったのか分からなくなったのだ。

「コーヒーのがよかった? 疲れた時には甘いもん、って言ってなかったっけ」

「う、ううん、ちがくて。一也が淹れたから、コーヒーだと勘違いして……」

 そう、匂いはともかく私がそれをコーヒーだと判断したのは、一也が淹れたからだ。甘いものを好まない一也は、ココアなんか絶対飲まない──じゃあ一也はわざわざ、自分じゃ絶対に飲まないものを、私の為だけに作ってきてくれた、のか。こういう時、愛されてるんだなあ、なんて思って勝手にニヤけてしまう。い、いけない。まだ仕事中。集中しなきゃいけないのに。

 なのにマグカップは泣きたくなるほど温かく、ほかほかと湯気が立っている。もう一度口をつければ、柔らかな甘みが口いっぱいに広がって、ほっ、とため息が漏れる。喉を伝って、指先から脳までココアが浸透していくのが分かる。おいしい。こくこくとマグカップの中身を飲み、気付けば空っぽになっていた。

「……ありがと、一也」

「いえいえ。仕事、もー少しなんだろ?」

「うん、日付超える前には、なんとか」

「それじゃ」

 す、と一也が空っぽになったマグカップを手に取る。それから背後から私の顔を覗き込んできて、反射的に仰け反った。マグカップなんか目じゃないぐらい、熱い眼差しが注がれる。

「──ベッドで、待ってる」

 艶やかな声がそれだけを言い残し、呆ける私を残して一也は仕事部屋から出ていった。なんだ、それ。普通逆でしょ、と思いながら、その後は自分でも引くぐらいのスピードでエラー原因を突き止めて修正し、PCを落として一也の元へと飛びついたのだった。全く、我ながら現金なものである。



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