二か月ぽっちの特等席

 ぴらり、と前の席の男子からプリントが渡される。それを手に取って、自分の分だけ机に置いて残りを後ろにパスする。五秒経過、十秒経過、腕がぷるぷるしてくる。未だにプリントは受け取られない。

「御幸!」

 振り向いて名前を呼べば、数字ばかりが書かれた本からようやく御幸が顔を上げる。静かな表情は、目の前に差し出されたプリントを見てニヤリと笑みを浮かべる。

「ワリ、気付かなかった」

「いいから早く後ろに回して!」

「はいはい」

 にやにやと、何が楽しいんだか笑いながらそう言って、ようやく御幸は私からプリントを受け取る。ったく、と私はくるりと正面を向く。どうにも御幸は授業中だろうが休み時間だろうが、ああして数字ばかりの本にお熱で、全然プリントを受け取ってくれない。困った男である。いちいち振り返らないといけないなんて──ほんと、勘弁してほしい。

「(か、顔あっつ……)」

 声、変じゃなかっただろうか。顔、赤くなかっただろうか。ああもう、早く席替えして欲しい。ただでさえ好きな人が真後ろにいるってだけで無駄に背筋が伸びるってのに、その上で一日何度も顔見なきゃいけないなんて、し、しんどすぎる。

 いつから好きだったかは覚えてないけれど、何となく目で追うようになったクラスメイトだった。授業中、眠たげな眼差しが黒板に注がれるのをよく視界の端に捉えていた。試合中はあんなに真剣でかっこいいのに、ユニフォームを脱ぐと途端に空気の抜けた風船のようになるそのギャップにやられたのだろうか。何にしても、この席は本当に心臓に悪い。視界の端に映ってくれるだけでよかったのに、どうして立場が逆になってしまうのか。神様がいるとしたら、なんて意地の悪い。きっと御幸みたいな性格に違いない。

「(次の席替え、いつだっけ……)」

 大体二か月に一度ぐらいの頻度で行われる席替えが、これほど心待ちになったことはない。でも、前回の席替えは二週間前だったことを思い出した。ああ、もう、この席から離れられる日はまだまだ先だ……。

 そしてその日のホームルーム中、またも前からプリントが回ってくる。

「はあ……」

 好きな人相手にぐいぐいアピールできるタイプだったら、この状況も楽しんだのだろうか。私には無理だ、絶対無理。顔見るだけでもしんどい。動悸と息切れすら覚えるほどだ。早く席替えして、先生。

「──!」

 その時、ふっと天啓が下りた。顔見るから辛いのだ。だったら、御幸の顔を見なければいいのでは、と。いちいち振り向くから心臓が痛いのだ。自分の健康の為には、親切心は犠牲になってもらおう。さらば恋心。でもいい。私はただ、見てるだけでよかったんだから。

 いつものように振り向かず、御幸に修学旅行のお知らせが書かれたプリントをパスする。案の定、御幸は受け取らない。慈悲で十秒ほど待つが、やはり受け取ってはくれない。ああ、もう、いい加減学習しない御幸が悪いのだ。心を鬼にして手をパッと離す。すると。

「うわっ!」

 後ろから、焦ったような御幸の声。数枚のプリントがぱさりと散って、一枚床に落ちたのが視界の端に見えた。でも、無視だ無視。御幸が悪いのだ、御幸が。いつもと違う対応に、違う意味で胸がドキドキしてきた。どっちにしろ心臓に悪いなんて、どうしろというのだ、ほんと。項垂れながらプリントに目を落とすと──。

「なあ」

「うひっ!?」

 つん、と何か固いものが背中を突き、変な声出た。勘弁してと思いながらちらりと振り返ると、不満げな御幸の目が私を捉えていた。手にはシャーペンが握られており、それで突いてきたのだと分かる。

「落ちたんだけど」

「みっ、御幸が、ちゃんと受け取らないのが、悪い!」

 私のせいなのか。いや違う。いやちょっとは私の所為かもだけど。でも、何度も何度もこちらのパスを受け取らない御幸が悪いんじゃないか。なによう、キャッチャーなんでしょ。プリントもキャッチしてよ。

「……」

「……」

「……」

「……な、なに」

 ジトっとした目線に居た堪れなくなって、つい目を逸らしてしまう。なに、もうなんなの。もーやだ、ドキドキしすぎて心臓痛い。私、何でこの人好きなんだろ。分かんない。とにかく心臓が潰れてしまいそうだ。

 御幸は何も言わないので、私は何もなかったふりをして再び前を向く。冷や汗で気持ち悪い椅子に座り直し、スカートを少し正す。ぴんと背筋を伸ばして、プリントを読もうとした時、再び背中をペンで小突かれる。心臓痛すぎて泣きそうだ。こんな顔見せられないと、私は無視した。つんつん、と何かを訴えるようにペンが背中を小突く。やはり私は無視した。その甲斐あってか、御幸の攻撃は止んで、ふっと力が抜けそうになった。

 それから五分ぐらいクラス委員が修学旅行の班分けについて話していて、痛かった心臓が徐々に落ち着きを取り戻してきたその時、びり、と何かを破る音が背後から聞こえてきた。気軽に振り向くような間柄じゃないので何もしないでいると、視界の端に白いものが見えてそちらに目が吸い寄せられて驚いた。御幸の腕だ。手に白い紙切れを手にしていて、私に向かって差し出されている。受け取れ、ということだろうか。恐る恐る後ろを振り向くも、御幸は机に突っ伏したままで、腕だけを私の方に差し出していて。

「……?」

 恐る恐る、その紙切れを手に取ると、御幸の腕はすぐに引っ込む。な、なに、これ。私に見ろ、ってこと? 訳が分からない。何でこの人のこと好きなんだろう、と本日二回目の疑問を胸に、紙切れを見る。恐らく、今しがた回したプリントをちぎったのだろう。折りたたまれさえしていないその紙には、シャーペンで文字が書き殴られていた。


『この席だと、お前の顔見れねえから』


 走り書きしたその文字を、まず日本語として理解するのに一分は要したと思う。それから、意味を解釈するのに何分要したか。なんで、なんでなんでなんで。なに、御幸。どうしよう、私、現国の成績そんなに良くないのに。でも、こんなの、どう見ても私の顔を見たいって、意味にしか、読めない。じゃあなんで私の顔を見たいのか──その理由を考えたその時だった。また、前からプリントが回されてきた。

 つん、と再び背中が突かれる。ず、ずるい。こんなの見せられて、真顔で振り向くなんて、できないのに。だけど、ばくばく高鳴る心臓を押さえて勇気を振り絞って振り返った時、ほんの少し赤らんだ顔でさっと目を逸らす御幸を見て、何もかもがどうでもよくなったのだった。



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