A life lived in love will never be dull.

 愛し合って好き合って、そうして結ばれた二人とはいえ、十年も経てばそれなりに落ち着いてくるものである。例え相手が誰もが一度は耳にしたことのあるプロ野球選手であろうとも、例え相手が俳優やモデルさながらの顔面をしていたとしても、十年という長い月日は、彼のそういった要素をときめきではなく安堵感に変換してしまうのである。

 御幸一也と結婚し、姓を同じくしてそこそこの時間が経過した。昔は顔を見るだけで胸が高鳴って、試合を目にするだけで心身共に熱狂したというのに、朝のランニングに向かうでっかい背中を見ても「寝ぐせ何とかしなよ」と声をかけるだけ、野球の中継を見ても「おー、やってるやってる」としか思わなくなった。もともとお互い好き好き愛してる、なんて言い合う仲でもなかったが、十年も経てばそんなやり取りは遠い過去の記憶のよう。慣れとは恐ろしく、また、みずみずしい感覚を鈍らせてしまうものである。

 ただまあ、マンネリだとか、刺激が欲しいとか、そういう考えではない。慣れとはマイナス以上にプラスの面も持っている。彼の心を留めておける自信がないと枕を濡らすこともなくなったし、いちいち彼の一挙一動に心を乱すこともなくなった。一也のことを信じ切れるようになってきたのもまた、彼の愛情にいい意味で『慣れ』たからに他ならない。事恋愛における感情の起伏には非常に体力を使う。パワー有り余ってる若いあの頃ならともかく、年齢と共にそういった体力が削られていくのだから、慣れるに越したことはない、というのが私の持論である。

「げっ、ヨーグルトないじゃん」

 その日、朝はパンとサラダとヨーグルトから始まる我が家の朝食に、必要不可欠な主役が足りないことに気付いた。幸か不幸か、朝はランニングに行く一也に買い物を頼んでいるので、私は急いで携帯を手に取る。

『かずや! ヨーグルト買ってきて! いつもの!』

 いつもの、で通じるのもまた、いい意味で『慣れ』のおかげだろう。すぐに返信が来る。

『もう家の近くまで戻ってきたけど』

 おおっとツイてない。そういう日もあるかと、ほんの少しのがっかり。だが、頼み忘れた自分が悪い。今日の主役は欠席かと肩を落としていると、ぽんと新しいメッセージが飛んでくる。

『ひとっ走りしてくるから、待ってて』

『え、いいよ。なくて困るもんじゃないし、面倒でしょ』

 近くのスーパーまで一也の足なら走って五分ほどだろうが、すでに買い物済みなのだ、流石に二度手間過ぎる。どうしても食べたいわけでもないし、一也が走り出す前に素早く返信をする。けれどすぐに次のメッセージが表示される。

『別に、お前の為なら』

 ──慣れた、はずだった。十年も付き合ってれば、こんなこといくらでもあったはずなのに。どうしてだろう、そんな一言が私の穏やかな心をかき乱す。何気なく表示された味気ない文字列なのに、労力を惜しまないこと、それを言葉にしてくれること、誰あろう御幸一也がこれを綴ったこと、全部が全部嬉しくて、ただ愛おしくて、胸がいっぱいになる。ああ、全く。慣れたとは、なんだったのか!

 特大のハートのスタンプを送って、私は朝食の準備を再開する。もうすぐ息を切らせた彼が、焼き立てのパンと私が愛用するヨーグルトを買って帰ってくるから、出迎えよう。十年の付き合いになっても、たまにはおかえりのキスも悪くないと、きっと彼も思ってくれるだろうから。



*BACK | TOP | END#


- ナノ -