躓く石も縁の端

 御幸一也は、普段様々な『声』を聴く。それは色めき立った異性からの歓声であったり、同性からの僻みであったり、或いはチームメイトたちからの愛ある野次であったり。良し悪しはあれど、御幸にしてみれば煩わしいことこの上なし。故に御幸のスルースキルはこの年にしてはかなり鍛えられていると自負している。青道に入学してからはますますそれが顕著になり、入学僅か二か月で御幸はメントレが不要な程度には、逞しく成長していたのだった。

「うわっ、御幸一也じゃん。なんで青道にいんの」

 それでも、その心底度肝抜かれたような声には、思わず足を止めて振り返ってしまった。

 昼食を終えて教室に戻る道すがらの廊下でそんな声をかけてきたのは、こちらを見上げて顔を引き攣らせる一人の女生徒だった。顔に見覚えはないから、きっとクラスメイトではないのだろう。明るい金髪に、目鼻立ちがはっきりよした化粧、きらりと光るピアス、短いスカートに少し緩めの制服の着こなし方。紙パックのジュースを持つ左手の指先は、何が塗られているのかぎらぎら煌めいている。そのどれもが御幸の周囲にいる女性のものではなく、思わず身構えた。

「えー、意外。あんた帝東だと思ってたわ。江戸川住みでよくこんな遠いとこ選んだね、ウチそんな強かったっけ? あ、でも待って。ってなると成宮フラれたって話、マジだったんだ、ざまぁ。なーにが『俺だけのドリームチームを作る』だっつの、阿含か」

 けれど見ず知らずの──所謂派手目の女生徒は、一人で勝手に話しては楽しそうにけらけら笑い始めた。つらつら語られる言葉の節々は紛れもなく御幸一也の知人と伺えるが、当然こんな目立つ女生徒の知り合いなどいない。野球をやっている身として、見ず知らずの他人に顔と名前を知られていること自体はさほど驚かないが、この口ぶり──特に江戸川やら成宮というワードを出している時点で、全く見ず知らずの他人、とは考えにくい。

 となると、この女性が御幸一也の知り合いの可能性が高まってくるが、何分覚えがない。記憶のアルバムを中学から小学校まで遡ってみるも、こんな派手な格好の女はどこにも引っかからない。まあ、所謂高校デビューという奴なのかもしれない。女というのは髪型一つ、化粧一つで見違える。御幸はそう結論付け、半笑いを浮かべた。

「えーと……ど、どちらさま?」

「え、それマジで言ってる?」

「大マジ」

「嘘でしょこの恩知らず」

 見ず知らずの女生徒に恩知らずとまで言われてしまった。そうはいっても本当に覚えがないのだから仕方がない。だが、この口振りからどうやら本当に知り合いらしい。半笑いを浮かべながら必死に脳みそをフル回転させるが、全く覚えがない。情けなく笑みを零す御幸に、少女は心外とばかりに大袈裟に溜息を吐いた。

「そりゃそんな交流なかったとは思うけどさあ、上級生にリンチされてるとこ助けてあげたじゃん」

「リ、リンチ……?」

「てか引退前の試合でも普通に話しかけてきたじゃん。野球辞めるっつったらあんなに大騒ぎしてたくせに、どの面下げて『どちら様』とか言えるわけ?」

 信じられないとばかりに顔を引き攣らせる彼女の顔に、唐突に過去の記憶がフラッシュバックした。覚えている。忘れるはずもない。でも、記憶の中のその人と彼女が、まるで一致しない。だって。あの人は──。

『お前さあ、生意気なんだよ。一年のくせによお!』

 歯に衣着せぬ物言いの御幸が、上級生から疎まれることは日常茶飯事だった。おかげでシニア時代はよく“可愛がり”を受けたものである。同級生は『もっと上手く立ち回れ』と助言はするが助けてはくれない。当然だ、チーム内でのいざこざなんて誰が首を突っ込みたがるのか。

 ──けれど、その人だけは違ったのだ。

『監督ー!! なんか下半身丸出しの変な人がいるんですけどー!!』

 それが、出会い。上級生に取り囲まれる御幸を見かねてか、そんな大声で連中を追い払ってくれた、まさに鶴の一声。程度が知れるわー、と笑うその人が同世代でも指折りのショートだと知ったのは、ベンチからその試合を観戦した時だった。

『(すげー、綺麗な送球)』

 身のこなしや足の速さ、範囲もさることながら、針の穴に糸を通すかのような送球はそれは見事なもので、その人の送球は内野手たちのミットに鮮やかに吸い込まれていった。守備の名手として名高いその選手は名門・八王子シニアのショート、五番としてスタメンを勝ち取っていた。その名守備にヒットを阻まれた回数は数知れず。『八王子とやる時はフライ上等で外野まで飛ばせ』なんて監督が苦言を呈すほどには、将来を有望視された選手だった。

 そんな人が『野球はシニアで終わり』なんて言うのだから、他チームとはいえ聞き捨てならず、勿体ねえ何考えてんだとあれこれ物を言ったのも記憶に新しい。あれからまだ半年と経過していないのだから当然である。『こっちも色々あんの』と言葉を濁すその横顔に、同じ選手として歯がゆい思いをしたのも、よくよく覚えている。

 ──確かに、コレ[・・]では野球は続けられまい。

「い、色々ある、って……!?」

「やっと思い出した? 薄情だねホント、白河がギャーギャー言うのも分かるわ」

 しみじみ頷くその人の足元をちらり、と見る。長い脚は惜しげもなく晒されており、辛うじて短いスカートが下着を隠している。そう、スカートである。基本的には男子はズボンを、女子はスカートを履いているはずだ。そんなまさかと少しばかり視線を上にあげれば、だぼっとしたニットでも分かる程度の身体の凹凸。何よりその体に乗る顔は、どこからどう見ても女生徒のもの。

 でも、この話ぶりを聞いてしまえば、その勘違いを認めざるを得ない。

「おま──おまっ、女だったの!?」

 自分でも驚くぐらいの声が廊下に響いて、道行く生徒たちが何事かと振り返ったほどだった。信じられない。今の今まで、男だとばかり思っていた。女の身で野球をやる人がいないわけではないと知識では知っていたが、それでもかなりのレアケース。しかも名門シニアのスタメンである。『女』という選択肢を、最初から持ち合わせていなかったのである。

 けれど彼女は呆れたように嘆息して、その長い足が御幸の太もも裏を蹴った。

「どこ見て判断してんのさ、この間抜け」

「いや、だって──分かるわけねーだろ、あんな格好で!!」

 正直、まだ記憶の中のショートの名手と目の前の派手な女が整合しない。その人はいつ見てもユニフォームにキャップ姿だったし、髪はもっと短かったし、黒かった。確かに線の細い奴だとは思っていたが、二遊間であればさほど珍しくもないわけだし。顔は──顔はまあ、確かに男にしてみれば小綺麗だったかもしれない。ただ、小柄で可愛らしいと人気を博していた成宮みたいなのもいるし、それだけで男だ女だと判断できるはずもなく。

「マジか……全然気付かなかった……」

「オモロ。成宮にチクってやろ」

「コラコラやめろやめろ」

 けれど確かに、この軽快な口調はあの人のもの。間違いない、彼女があの八王子シニアの守備職人だ。ショックは大きいが、徐々に事態を呑み込めてきた御幸はようやく理解したとばかりに呻いた。

「そっか、だから野球辞めるって……」

「あー、男だと思ってたからあんなにギャーギャー言ってたのか、納得。こいつどんだけ私に野球やらせたいんだよってちょっと引いたもん」

「引くなよ。あんなに上手かったんだから、そりゃ勿体ねえって思うだろ」

「つっても女子野球はねー、競技人口少なすぎてね」

「ソフトは?」

「別競技じゃん。プロのテニスプレイヤーならバドミントンもできるだろって考えるタイプ?」

「それは──だ、第一、女子野球だって、どっか探せばあったんじゃねえの」

「男と違って将来性皆無だしなあ。あんたらと違って人生かけようとは、最初から思ってないっつの」

 それは一種の諦めだった。けれど、御幸にはどうしてやることもできない。男子野球でさえ少子化の影響もあって人数が少なくなっているのだから、女子野球の競技人口は言わずもがな。世界的にみて野球はマイナースポーツだし、プロだのなんだのと目指したところでそれが稼ぎに繋がる保証はあまりにも少ない。

 野球に限った話ではないが、スポーツはとにかく金がかかる。競技人口の少ないスポーツなら尚更だ。留学するだけの熱量や金銭的余裕がなければ、きっと踏み込めない。だから彼女の判断は、ひどく合理的だ。だから御幸はただ、日の目を見ることなくショートの名手が埋もれるのを眺めることしかできない。

「……今は? なんか別のことやってんの?」

「この格好見てそれ言っちゃう?」

 煌びやかな爪を見せられれば、御幸も二の句が継げない。確かにこの髪や爪では、スポーツなんて以ての外だろう。

「じゃ、今は何もやってねえの?」

「美術部には入ってるけど、ほとんど幽霊部員かな」

 勿体ない。御幸は何度目か分からぬ呻き声が漏れた。あれだけの身のこなしができるのだから、他のスポーツでもさぞ輝けただろうに。モヤモヤとした感情が渦巻く御幸に、彼女はただあの頃と変わらぬ緩やかな笑みを湛えた。

「別に、私が辞めたってあの頃の野球がなくなったわけじゃないでしょ」

「それは──まあ、そうかも、だけど」

「私はそれなりに野球頑張ったし、楽しかった。それだけの話。なんで御幸が悔しがるのさ」

 諦めているからか。それとも最初から期待していなかったのか。彼女は合理的で賢く、そして冷静に現実を受け止めていた。そう思えば思うだけに、あのシニアでの光景が脳裏に蘇る。目を奪う華麗な守備、投手に声をかけに行く細やかな気遣い、バッティングだって悪くなかった。選球眼は大したものだったし、ノーコンPを当てると彼女は余裕綽々と一塁まで歩いていた。その背中が、もう見られない。

 もう、彼女は野球をしない。

「あー、ごめん。急に声掛けちゃって。御幸ならもっと甲子園常連校に行くもんだと思ってたから、驚いちゃって。じゃ、また──」

「マネージャー、やらねえの」

 踵を返すその背中に、思わず声が漏れていた。きゅ、と上履きが鳴り、怪訝な表情をした彼女が振り返る。そうだ、何もプレイヤーだけが野球に携わる道ではない。マネージャーだって、立派な選択肢だ。彼女の選手としての経験は、きっとマネージャーとして活きるはずだ。そうだ、それがいい。なんて名案だろう!

 けれど彼女はぎらついた中指を突き立てて、傲慢にも思い上がった少年の願いをへし折る。


「自分が行けない甲子園に連れてってもらうなんて、冗談じゃないね」


 少女はそう吐き捨てて、今度こそ御幸を置き去りに廊下の角を曲がって言った。残された御幸はようやく、その発言がタブーかを思い知って天井を仰いだ。嗚呼、全く。彼女はこの道を去ると決めたのだ。その覚悟を持って、シニア時代を過ごしたのだ。どうして御幸が、その覚悟を捻じ曲げられようか。人のやることなすことにあれこれ口出しするのは──そうだ、無礼もいいところではないか。

 そう納得した少年もまた、一人その場を去っていく。少々穿った認識を得てしまった御幸一也が本当の意味で他人に向けた言葉の難しさを痛感するのは、あと一年の年月とキャプテンという重責が必要だった。けれどそんな彼を叱咤激励するチームメイトや先輩たちに交じって、『色々あるって言ったじゃん』と笑いかけてくる一人の少女がいたとか、いなかったとか。



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