Singularity

 模試の結果を見て、深い深い溜息をつく。何度見ても判定は変わらない。高校三年生の秋にもなれば、受験戦争は激化の一方。私もまた、そんなどこにでもいる一般歩兵のため、学力という武器を携えて戦争に参戦しているのだが、やはり一筋縄ではいかない。学べど学べど、志望校には辿りつけない。予備校に金を出している親からの苦言も徐々にエスカレートしていき、気は滅入るばかり。

「(私だって、真面目にやってるのに!)」

 だが、結果が全てと言われればぐうの音も出ない。それでも、自分なりに努力はしているつもりだ。親の期待に、添えていないだけで。手厳しい言葉を投げかけてくる両親の声を思い出すたびに、じわりと涙が浮かんでくる。

 ああ、帰りたくない。顔も見たくない。そんな思いで参考書を捲りながら教室でうだうだしているうちに、クラスメイトは一人また一人と去っていき、気付けば独りぼっち。あっという間に日が傾いていき、私を急かしているようだった。そろそろ予備校行かないと。でも、行きたくない。足が重い。身体は鉛のようだ。

「(このまま融けて消えちゃえたら、どれだけ楽だろう……)」

 元々、私は進学のモチベーションが低い。もっと他にやりたいことがあるのだ。なのに親はそれを許さない。勉強をしろ、いい大学へ行け、高収入の男を捕まえろ──そんな下らないお小言を振り切ってしまえたら、どれだけ素敵だろう。けれどそうする勇気も度胸もない私はただ、ヘコヘコと親の命令に従うしかない。そんな自分にも嫌気がさして、溜息は深く深くなるばかり。

「(いっそ、この窓から飛び降りたら、パパもママも少しは──……)」

 人から見たら、きっと下らない悩みなのだろう。衣食住に困らず、勉強もさせてもらえて、学校にも行かせてもらってる。なのに時たまこうして、全てを投げ出してしまいたくなる。少子化が止まらないわけだ。

 ただ、やっぱりそんな勇気もない私は鞄に荷物を詰め込む。それでも、湯日に誘われて流れる涙はどうしても止まらず、ぼろぼろと涙を流していたその時だった。誰もいない教室のドアが、ガラッと音を立てて空いたのは。

「あ」

「え」

 教室の入り口に立っていたのは、クラスメイトの男の子だった。ぼさぼさの茶髪に、眼鏡の大きな男子生徒。たぶんこの学年で一番の有名人であろう彼──御幸一也君は私の顔を見てギョッとしたように固まった。

 御幸君といえば、我が校が誇る野球部を甲子園に導いたキャプテン様である。おまけに若い身空でプロ野球選手として歩むことが決まったらしく、学校には何度も何度もテレビ局のリポーターがが押し寄せていた。まさに、雲の上のような人だ。それこそ、私の悩みなんかちっぽけに見えるほどに。

「だっ、大丈、夫……?」

 なのに彼はたどたどしくもそんなことを聞いてくれるものだから、自分の惨めさが浮き彫りになって、ますます涙が込み上げた。泣き止むどころかボタボタと涙を流す私に、御幸君は大袈裟なぐらい狼狽えてから、気まずそうな表情でノロノロとこちらにやってきた。

「お、俺、な、なにか、した?」

「う──ううん、ちが、ちがくて、みゆ、くんの、せいじゃ」

 同じクラスってだけでろくに話したことのない相手にもこの対応、なんていい人なんだろう。それに比べて自分はと、思えば思うだけ心臓がぎゅうっと握り締められる気分に陥る。

「え、えっと……」

 困惑したまま御幸君は何を言うでも何をするでもなく正面に立ち尽くす。私は御幸君を気遣うこともできず、びいびいとただ涙を流し続ける。御幸君はそんな私を慰めるでもなく、さりとて見捨てるでもなく、なんとも気まずそうな表情で私を見守っていたのだった。



***



 それから十分ぐらい泣いていただろうか。流石に涙も枯れてきて、大きくしゃくりあげる程度になってきた。そんな私を、御幸君は恐る恐る覗き込んできた。

「だい──大丈夫、そ?」

「う、うん……ご、ごめんね……っ」

 まだ涙声だったが、目元をこすりながら小さく頷いた。改めて、そこまで仲がいいわけでもない男の子の前でギャン泣きしてしまった事実に、恥ずかしくて死にたくなる。

 すると御幸君は、微妙な表情のまま私の前の席にどさりと座った。去り際を完全に見誤ったのだろう。申し訳なさが募る。

「……模試、そんな悪かった?」

 すると御幸君は、そんなことを訊ねてきた。まさか御幸君が話を聞いてくれるとは思っていなかった私は、素直にコクンと頷いた。

「親に、見せられなくて──また怒られる、っ、て」

「……あんなに、頭いーのに?」

 慰めてくれているのだろうか。心底不思議そうに椅子の背に顎を乗せる御幸君に、私は謙遜でも何でもなく「全然だよ」と答えた。そりゃあ、理想を低くすれば入れる大学はいくらだってあるだろう。だが、これ以上志望校のランクを下げたら、親が何と言うか。想像するだけで震えが止まらない。

 そんな私の愚痴を、御幸君は不思議そうな顔のまま聞いている。まあ、就職組にこの苦労は分かるまい。いや、就職なんてやすっちい言葉で片付けられない『職業』にこぎつけたんですけどね、この人。

「俺さー」

 すると御幸君は、少しばかり顔を背けてぽつりと呟いた。

「野球部辛いみたいなこと言ってる奴に、辞めればって言ったことあってさ」

「え゛っ……」

「あ、やっぱ引く?」

 御幸君は少し恥ずかしそうに笑った。別段、部活動を『辛いから辞めたい』なんて珍しくもないし、練習量の多い運動部なら尚更だ。それでも、そういう簡単な問題じゃないってことぐらい、私にも分かる。

 御幸君は野球部だ。それも、ただの野球部じゃない。うちは甲子園を目指して切磋琢磨する名門校だ。部員は百人以上居ると聞いている。そんな名門校に飛び込んできたのだから、軽い気持ちで辞めれるわけがない。他の部よりもいくらかお金もかかってるだろうし、野球留学とかで他県からやってくる子もいると聞く。当然、簡単に辞められようわけがない、それをそんなにあっさりと──しかもキャプテンの御幸君が言っちゃうのは、正直、ウン。仔細を知らない私でさえ、どうかと思ってしまった。

「俺たちは選んで野球やってんだし、嫌なら辞めたっていいわけだろ? だから俺、そういうつもりで言ったんだけど……」

「や、そんな簡単な話じゃないような……」

「だよな。みんなに怒られたわ、キャプテンがそんなこと言うなって」

 そりゃそうだ。呆れて物も言えない私に、御幸君は窓の外の夕日を眺める。

「俺、その時のナベの──仲間の言ってる意味分かんなかったけど、受験勉強って置き換えたら、ちょっと意味分かったような気がする」

「(逆に今の今まで分かってなかったんだ、この人……)」

「人に言われて、はいそうですかとはいかないよな。こういうのは」

 そう言って、ちらりと模試の結果に目を落とす御幸君。まあ、そういうことのような、そうじゃないような。例え話下手だなあ、と思ったけど、『やりたくないから止める』という道を選べない、という意味ではそのお仲間さんの気持ちは痛いほど分かる。将来に直結するこれを、どうして簡単に『止めたい』だなんて言えようか。

「だからさ、なんていうか──」

 そのまま言葉を続ける御幸君の綺麗な顔を、じっと見つめる。受験勉強なんか目じゃないぐらい倍率の高い道を選んだ彼から、一体どんな慰みやアドバイスが出て来るのだろうと期待を込めて。けれど、御幸君はそこで言葉を切ったまま、まるで一時停止したかのようにフリーズした。

 ──数秒の奇妙な沈黙が流れる。流石に不自然さを感じてきたその時、御幸君は夕日に染まった顔のまま、がっくりと項垂れた。

「ごめん……上手いこと言おうとしたけど、何も出てこなかった……」

「ぶっ……!」

 あんまりな顛末に、私は涙を浮かべたまま吹き出す羽目になった。放課後の教室に二人きりというドラマのようなシチュエーションで、俳優さんみたいにきらきらでかっこいい男の子から、そんなセリフが飛び出して来るなんて夢にも思わなかった。慰めてくれようとしている気持ちは伝わっているので、必死で笑わないよう堪えるが、どうしても震えが止まらない。

「……そ、そんな笑わなくても」

「だ、だってっ、みゆ、く、そんな真面目な顔で、ぶふっ、フ!」

「まあ、泣かれるよりはいーけどさあ……」

 がっくりと肩を落としながら、御幸君はゆっくりと立ち上がる。私の顔を見て、もう大丈夫だと踏んだのだろう。私も自分で驚くぐらい、気分が晴れていることに気付く。さっきまでウジウジ悩んでいたのが、馬鹿らしくなったほどだ。

「うん。ありがとう、御幸君」

「何もしてねーけど、どういたしまして?」

「御幸君みたいな人にもカッコ悪いとこあるんだなって思ったら、なんか元気出てきた!」

「……なんか、俺の方が凹みそー」

 そう言いつつ、御幸君はポケットに手を突っ込んだまま笑ってる。そうやって笑ってる姿は、やっぱりカッコいいなあ、と思う。だけど、そんな御幸君だってキャプテンとして失敗したり、泣いてる女の子に狼狽えたり、いいこと言えずに落ち込んだりすることもあるんだなって思うと、なんとなく元気になれる。御幸君みたいなすごい人でも、私と同じように下らないことで悩んだりするんだなって。

 やりたくないことから逃げられるわけじゃない。物事は何も解決していない。だけど、自分だけが世界で一番不幸って訳でもない。何より、大して仲良くない御幸君が私のためにあれこれ考えて励まそうとしてくれた。その事実が、どうしようもなく嬉しくて。

「私ももうちょっと、カッコ悪く頑張ってみる」

「……それが言える時点で、十分かっこいいと思うけどな」

 でも、頑張れ。柔らかな笑顔と共に願うような一言に、私は十二分に救われていたのだ。

 そうと決まれば、ここで油売ってる暇はないと私が荷物を纏めると、御幸君もまたノロノロと教室を出て行く。二人して教室を出て、また明日、なんて踵を返した時──私はふと思い出して振り返った。

「ねー、御幸君! 教室に何しに来たの?」

「やばっ、英語のレポート取りに来たんだった!!」

 大慌てで教室に戻る御幸君の背中に、私はまた笑顔が零れた。



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