Love is blind

「あれ、みゆパイなんか太りました?」

「俺が言うのもなんだけど、お前デリカシーって言葉知ってる?」

 呆れ半分の御幸がそう言えば、後輩マネージャーは元気よく「お母さんの身体に残してきました!」と敬礼した。流石あの沢村を超える逸材と称えられるだけはある。別に褒めてはいないが。

 二つ年下のこの女子マネージャーは、どうにも──言葉を選ばずに表現するなら、バカだった。とにかく先輩を先輩と思わないというか、明け透けというか、馬鹿正直というか、まあとにかく思ったことを喉元で留める、という動作を一切できないタイプだった。先輩だろうが教師だろうが監督だろうがお構いなしに発揮される馬鹿正直節は、『一周回って面白い』『遠くから眺める分には最高』『珍獣』と妙に周囲から愛されている。

 その馬鹿正直節もあと数日で見納めになると考えれば一抹の寂しさでも過るかと思いきや、ただただ失礼な後輩に腹が立つだけだった。ぴし、と小さなおでこを指で弾くと、「ほんとのこと言っただけなのに!」と、彼女は納得いかないとばかりに抗議した。それが駄目だと言っているのだ。

「太ったんじゃなくてウェイト増やしてんの。プロ行くんだし、身体ぐらい作っていかねーと」

 呆れ半分で馬鹿面にそう告げれば、彼女はきょとんとした顔でこちらを見上げてきた。

 ドラフト会議から、早数か月。高校生、捕手、ドラ一指名と御幸の双肩にかかる期待は大きい。故にこそ、出来る限りの準備はしたかった。幸いにも吐くほど過酷な野球部での練習は引退となり、そこそこの食生活とそこそこのトレーニングで身体はみるみるうちに大きくなっていった。捕手やってて縦にも横にも増えるのはいいことだ。だからこれは決して肥満ではない。のだが。

「みゆパイ知らないんすか。それを太ったっつーんですよ」

「……お前に説明しようとした俺が馬鹿だったよ」

「大丈夫! みゆパイ光舟より全然頭いいっすから、自信持って!」

 ぐ、と親指を立ててなぜか励ましてくるバカ。その指へし折ってやりたい衝動をぐっと抑えて、御幸は溜息をつく。こんなことをしている場合ではないのに、出鼻をくじかれた気分だ。

「つーかお前、何してんの」

「見て分からないんスか。掃除スよ掃除、マネージャーですから!」

「ここ、男子寮なんですけど」

 そう、ここは御幸が二年と半年を過ごした青心寮。あと一か月で卒業になる御幸は既にプロ野球選手としての人生を歩み始め、キャンプに参加したり、インタビューを受けたり、球団の講習会に出席したりと、ほとんど学校に来れなくなっていた。今日は寮に荷物を残していないか確認するため、自分が以前寝泊まりしていた部屋に来たのだが、そこでこのマネージャーと鉢合わせした、というわけだ。

 どう考えてもマネージャーが掃除をする範疇を超えた領域である。けれど彼女はチッチッチと人差し指を立ててオーバーなリアクションを取る。その指も叩き折りたいほど腹立たしい。

「だからこそっスよよ! 可愛い可愛い女子マネージャーによる抜き打ち検査! ほったらかしのエロ本、片付けない服にゲーム、異臭を放つシーツ、健全な野球少年にあるまじき生活環境! だらしない生活に果敢にメスを入れることで、生活にメリハリが──」

「今すぐやめろ、この馬鹿!」

 なんておぞましいことをしているのだ、このマネージャーは。確かに部屋によってはゴキブリが出るだの洗濯が疎かだの聞くが、プライベートな空間を──しかも同じ年頃の女子に──踏み荒らされるなんて、我慢ならない。キャプテンとして、男として、暴走機関車と化した後輩を押しとどめると「礼ちゃんさんお墨付きなのに……」と文句を言いながらもようやく思いとどまってくれた。御幸は今、七十人近い男子高校生の平和とプライバシーを救ったのだ。

「お前なあ、奥村に殺されるぞ」

「大丈夫、光舟はああ見えてレディには優しいヘタレ狼ですし!」

「お前とクラスが同じになったのが、奥村の運の尽きだったな……」

 このマネージャーが一方的に奥村に絡んでいるだけだろうが、流石に同情せざるを得ない。ったく、と叱るように御幸は少女を見下ろす。

「ほら、とっとと帰れ」

「みゆパイは帰らないんスか?」

「お前が帰ったら帰るよ」

 じゃなきゃ本当に掃除という名の家探しをしかねない。か細い背中を叩けば、チェッ、と少女は頬を膨らませながら渋々と寮に背を向ける。けれどすぐに、目を輝かせながら振り向いてきた。

「あれ、じゃあみゆパイは何しに来たんすか?」

「忘れ物探しに来ただけ」

「珍しい、みゆパイが忘れ物なんて!」

「俺だって忘れ物の一つや二つするっつの」

「その眼鏡は飾りっすか!!」

「眼鏡かけてたらなんだっつーんだよ」

 会話するだけで疲れる。珍獣相手してる気分である。もはや言葉は通じず、理性も社交性もない。本能のままに動くだけの動物。まともに相手にするだけ無駄なのだ。冷静に、冷静に。けれど少女はけらけらと笑い飛ばしたまま。やっぱりどう言い繕っても腹が立つ後輩である。

「ったく……」

 この半年、ずっとこんな感じだ。先輩を先輩として敬いもせずに好き勝手振る舞って。全部巻き込んで、ぐちゃぐちゃにして、それでも誰かと一緒に楽しそうに笑い飛ばす彼女の底なしの明るさは、多分きっと、数少ない利点だろう。それは認める。真似はしたくないし出来ないが。

 だからこそ、最後の最後のつもりだった。忘れ物の回収は、半ば諦めていた。だから最後の最後と言い聞かせて、去り行くつもりだった。振り返る暇もないし、思い出に浸る余裕もない。だからこれが最後だと、言い聞かせていたのに。

 彼女が、変わらぬ素振りで笑うから。


「──いい加減、返事聞きたいんだけど」


 びしり、と少女の笑みが凍り付く。ぎ、ぎ、ぎ。と錆び付いたブリキの人形のように、恐る恐るといった体で少女はちょっとずつ後退る。やっぱり、分かってて惚けていたな、この女。

「わ、わわ、忘れ物、探、し、ない、と──」

「忘れ物だろ。人の一世一代の告白すっ呆けやがって」

「すすすすすっ呆けてなんかかっかか!!」

「まあ、キャンプで学校来れなくなった俺も悪いんだけどさぁ」

 狼狽する後輩に、御幸は深々と溜息をついた。何故そんなことになったのか、自分でも分からない。無礼で馬鹿でどうしようもない奴なのに。腹も立つし失礼だし何度殴ってやろうと思ったか分からないのに、どうしてもその笑顔が忘れられなかった。どうしようもなく、彼女とのやり取りが楽しかったのだ。そんな笑顔と応酬を誰彼構わず振りまく彼女に我慢ならず、つい告白してしまったのだ。そういうのは、俺だけにしろよ、と。

 御幸本人も予想外の告白だったのだ、当の本人など言わずもがな。完全に機能停止してフリーズしてしまった彼女に「考えといて」と言ったっきり、御幸は秋季キャンプだの入寮だのに追われて、ろくに話す時間も取れずに卒業間近までもつれこんでしまった。監督から彼女が此処にいると聞いて、忘れ物を回収できればと淡い期待を胸にやってきたというのに、当の本人は告白なんてなかったかのようにすっ呆けるのだから、苛立たしさは倍増だった。

「おまけに他の男の部屋に入ろうとしてるし」

「こ、こここれは単なるマネージャー業でして!!」

「それに光舟ってなに? お前らそんな仲だっけ?」

「ちが、これはその、みんな光舟って呼ぶからつられただけで!」

「そんで挙句の果てに久々に会った俺には『太った?』だもんなあ」

「だだっだだって夢かと思ってましたしみゆパイ頭ぶつけておかしくなったとしか思えないじゃないっすかおかしいっすよ元々変な人だと思ってたけど!!」

「人が勇気振り絞ったのに夢扱いする気? ならもっかい再現してやろうか?」

「めっめめめめめ滅相もない!! ままっ間に合ってます!!」

 形勢逆転。完全にパニックになった彼女はオロオロとしながら、転がるように後退る。だが、逃がさない。今日を逃したら次は半年──下手したら数年後になりかねい。か細い腕をがしりと掴んで、御幸は『忘れ物』の顔を覗き込む。

「で、答えは?」

 狼狽えながら逃げようと身じろぐ少女の行く手を、ウェイト増やした身体で塞いでやる。そうすれば彼女は木の上に登って下りられなくなった子猫のように、情けない悲鳴を飲み込んだ。こういうとこは可愛げあるのに。そうして御幸は数か月越しに『忘れ物』を回収したのだった。

 ──その日を境に、青道高校野球部における御幸のあだ名が『珍獣ハンター』になったのは、まあ、言うまでもない。



*BACK | TOP | END#


- ナノ -