夢追い人の疵

「痛っ……」

「一也、大丈──うわあ」

 痛みに呻き、動きを止める恋人の腹部を見る。私に覆いかぶさったままシャツを脱ぎ、惜しげもなく晒されるトップアスリートの肉体は今日も美しい。しかし、その脇腹は暗闇でもはっきりと分かるぐらい赤黒く染まっていたのだ。

「ったく、降谷の奴、いい加減あのノーコンどうにかしねえとな……」

「百五十七キロのストレートが直撃だもんねえ……痛そ〜……」

 高校時代からバッテリーを組む降谷の自身最速ストレートは、女房役のミットを大きく外れ、プロテクターの隙間にぶち込まれたのだから、流石の一也も文句の一つも言いたくなるのだろう。しきりに脇腹を擦りながら呻いている。

 情事の熱も失せつつある中で、私はベッドからゆっくりと身体を起こす。珍しく苦悶の表情を浮かべる一也はこれはこれでセクシーだけど、流石に言ってる場合じゃない。一糸纏わぬ姿のまま、どうしたものかと一也を見つめる。

「湿布、いる?」

「や、臭いキツいからいい」

「言ってる場合じゃないでしょ、それ」

「ほっとけば直るって。ノーコン投手どもは昨日今日で始まったわけじゃねーんだから」

 一也は何でもないように肩を竦める。

 野球というスポーツにおいて、捕手は投手並みに大変なポジションだと思う。一人だけずっと中腰のまま、車より早く岩並みに硬いボールを毎日何百球も手でキャッチして、内野陣との連携、投手陣の舵取り、配球にリードも考え、これで打力も求められるのだから、捕手陣は野手の二倍は給料弾んでもらわなきゃ割に合わないだろうに。それでもこの場所がいいと拘り続ける変わり者だけが、プロという世界でやっていけるのかもしれないが。

 何にしても怪我の位置が悪い。脇腹なんかバッティングにモロ影響するのだ。これはもうやってる場合じゃないな、二重の意味で。素っ裸のまま救急箱を探しに行こうとベッドから足を投げ出すと、一也はすかさず私の腕を引っ張ってベッドに引きずり込む。

「大丈夫だって」

「エッチして怪我抹消なんて嫌すぎでしょ」

「流石にそれで壊れるほど脆くないって」

「嫌だ、怖い、八千五百万の身体に無理させたくない」

「情報古い。もう一億乗った」

「余計嫌だよ!」

 かぷり、とむき出しの肩に甘噛みする一也に抵抗するも、力では遠く及ばない。洗い立てのシーツで、二人して芋虫のように転がる。けれど、余裕めいた表情が一瞬でも硬直するのを、私が見逃すわけもなく。

「そんな痛む? 太腿より? 診てもらった方が良くない?」

「んー、場所が場所だし多少は痛むけど、ヘーキだって」

 一也はおどけて言うが、その太腿もわりと変色するぐらい痣が浮き上がっている。別に一也のキャッチングが下手とかじゃなくて、暴投を身体で止めたり、イレギュラーバウンドする球がぶつかったりして、こうなるらしい。我が身に降りかかったらと思うとぞっとする。

「怖くないの?」

「別に、慣れたし」

「慣れても痛いもんは痛いでしょ」

「俺が球逸らして負ける方が怖えーよ」

 分からない感覚だ。けれどプロ野球選手としては、百点満点の回答なのだろう。だから『痛むから怖い』って感情は、一也の中で浮き上がってこないのかもしれない。或いは強靭な精神が、恐怖を抑えつけているのか。

「あとはホラ、一応夢売る仕事だし? 怖い痛いなんて、中々見せられねえだろ?」

 どこまでもかっこいい恋人の言葉に、思わず納得してしまう。それは、まあ、そうか。野球ファンたちは贔屓の選手を、素晴らしいプレーを、スポーツを見に来ているのだ。ただでさえ怪我の多いスポーツだ。頭部死球だの乱闘だのバットが直撃だの日常茶飯事の中で、痛い痛いとのた打ち回っては客も怖がるし、盛り下がる。あくまでこの世界はエンタメ、興業なのだから。

「ふうん」

 高校時代もすごいやつだと思ってはいたけど、今じゃすっかり立派な野球人になってしまって。誇らしいような、寂しいような、だ。そんなぐちゃぐちゃな感情のまま赤黒く腫れた一也の脇腹をそっと撫でると、「ぐ……」と一也は眉をひそめて呻いた。余裕が服着て歩いてます、みたいなツラが嘘のように、痛みに耐えるその表情を見上げるだけで溜飲が下がる思いだ。

「私には、見せてくれるんだね」

 耐えられる痛みなら、一也は誰にだって強がってみせるはず。なのに私の前では格好つけながらもちゃんと『痛い』と言ってくれる。痛みを感じ入る姿を、見せてくれる。それがどれほど特別なのか、じんわりと浸透するように実感した。愛おしいなあ、と噛み締めるように微笑む。

 すると。

「……そりゃ、お前以外の誰に見せるんだよ」

 少しだけムッとしたように眦を釣り上げて、一也はそう吐き捨てて再び私に覆い被さった。「も、限界」と、かすれた声で囁かれて抗える人はいるだろうか。いいや、いないだろう。それでも素直に食われるのも癪なので、今日は目一杯サービスしてあげようと心に決めたのだった。



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