SNIPE

「あれ、早いじゃん一也。お帰り〜」

 年末年始、数か月ぶりに自宅に帰ったら幼馴染(♀)が我が物顔でキッチンでフライパンを振っていた。流石に夢かと思った。

「おまっ──何してんだよ!?」

「なにって、一也が久々に帰って来るって言うから、顔見るついでにおじさんに昼食作って来いっておかーちゃんが」

 そう言いながら彼女は今しがた出来上がったであろう野菜炒めをタッパに移す。そういうことなら早く言ってくれと、御幸は下の階で仕事に専念する父親に苦言を呈した。

 この幼馴染との付き合いはいつからだったか、母が生きていた頃からとは聞いているが正確には覚えていない。親同士の親交が深く、早くにシングルとなった父を一家総出で支えてくれた恩人たちでもある。御幸の得意料理であるチャーハンも、彼女から──もっといえば彼女の母親から仕込まれた、まさに母の味である。とはいえ、お互い高校生にもなって、進学先も別となれば、疎遠になるのも必須。そもそも御幸は寮生活をしているので、この幼馴染に会うのは半年──いや、一年ぶりであった。

「あ、手ぇ洗った? ならそこのレタス千切って洗っておいて」

 なのに、一年ぶりに会う幼馴染は我が物顔で家に転がり込んで御幸に指図してきて。この図々しさは、一年どころか十年前から変わっていない。見た目だって、二人して素っ裸でそこら辺を駆けずり回ってた頃からほんの少し背が高くなって、ほんの少し髪が伸びて、ほんの少し丸みを帯びた体つきになって、ほんの少し大人びた顔立ちになっていて──。

「あ、あとそのお寿司さ、悪いけど皿に取り分けてくれる? おじさんねー、奮発して特上寿司買ってきたのはいいんだけどさ、冷蔵庫ビールばっかで入んないんだよねー」

「あ、ああ……」

「とりあえず味噌汁と酢の物は作っといた。あ、こっちは明日の分ね。あとは一也が頑張ってもらって……あ、これうちのおかーちゃんから甲子園出場祝いにって」

 テキパキと家の中の見慣れぬ品々に対して説明をする横顔も、たった一年で随分大人びたように見えた。彼女の睫毛はあんなに長かっただろうか。唇も、あんなに色鮮やかだっただろうか。髪だって、あんな風にツヤツヤじゃなかったはずなのに──ああ、そうだ。何よりも変わったのは、きっと、自分自身の意識。

「ちょっと一也聞いてんの?」

 そう言って腰に手を当てて睨んで来るその人を、きっと、そういう意味で意識してしまったのだ。一瞬でも、だ。

 「なんでもねえよ」と誤魔化して、部屋に荷物を置きに行く。手を洗い、制服からジャージに着替えて、懐かしさを覚える自室の天井を見上げて溜息をついた。なんだ、あの生き物。色々な感情が入り混じって、あることないこと言ってしまいそうで怖かった。御幸はこんなにも動揺しているのに、向こうは何食わぬ顔で我が家を闊歩しているのも憎たらしい。憎たらしいのに、心臓がさっきから妙に騒がしいのだ。

 勘弁してくれ。完全に不意打ちだ。はあ〜、と深々とした溜息をついてその場にへたり込むと、ぺたぺたという足音が近づいてくるのが聞こえた。まずい!

「コーヒー淹れるけど、一也も飲むー?」

 何故人の家でコーヒーを淹れるのだ。まあ、彼女がこの家に来た回数など両手ではもはや足りなくなっているので、実質第二の実家みたいなものかもしれないが。とはいえ、とてもじゃないが一緒にお茶なんかできるような心境じゃないので「いい」と手短に答える。すると彼女は部屋までやってきたかと思えば、挙動不審な御幸を見上げて顔を顰めた。

「なに、どうしたの、一也」

「別に」

「疲れてんの?」

「なんでもねーって」

「大丈夫? おっぱい揉む?」

 ブッと思いっきり吹き出してしまった。当の本人は「うわっきたな!」などと抜かすのだから頭を抱えてその場で蹲りたくなる。何で、そういうことを、この状況下で言うのだ、こいつは。女じゃんなければ殴っていたところだ。

「おまっ──ほんといい加減にしろっつの!!」

「ジョ、ジョークじゃん、ジョーク……」

 彼女は怒る御幸の心境をまるで理解していないのか、ホールドアップしながらそう答えた。あってたまるか、そんな性質の悪いジョーク。さりげなく彼女と距離を取りながら、御幸は重々しく溜息をついた。

「お前な……よく考えて物言えよ」

「と、言いますと」

「俺、男。お前、女。ついでにここ、俺の家」

「そりゃあ存じ上げておりますけども」

「……俺が『揉む』っつったら、どうする気だったんだよ」

 彼女の無神経さに、或いは無防備さに、怒りと叱責を籠めて言葉尻を荒げる御幸。十年前のようにはいかないのだ、お互い。肉体的な変貌、もとい成長を遂げた今、ここにいるのは生殖能力を持つ男女だ。あまり自らを軽んじるような態度は男として、いや、幼馴染として見過ごせない──というのに。

「え? 別にいいよ? まあ揉めるほどデカくもないけどね!」

 そう言って彼女は胸を張るもんだから、その場に引っくり返るところだった。こいつ人の話を何も聞いていない! いや、今に始まったことではないのだが!

「お前マジで勘弁してくれよ……!」

 怒りを通り越して泣きたくなってきた。なんでこいつはこうなのだ、昔から。まあ確かに、幼い頃から一緒に──それこそ兄妹のように育った仲である。男女の距離感だとかそんなことは微塵にも考えていないのだろう。自分だけが意識している羞恥心に潰されそうだった。どうやったらこの馬鹿能天気な幼馴染にそれを伝えられるのか、御幸は皆目見当が付かない。まだ成宮からホームラン十本打てと言われる方が簡単だろう。

「一也?」

 しゃがみ込む御幸の顔を、やはり警戒心など微塵もない幼馴染がのぞき込んで来る。以前会った時はこんなこと微塵にも思わなかったはずなのに、どうしてこんなにも意識してしまうのだろう、と彼女の顔を見る。以前もこんなに綺麗な目だっただろうか。こんなに柔らかそうな肌だっただろうか。こんなに美味しそうな唇だっただろうか。

 ああ、くそ、だめだ。一度でもそんなことを考えてしまえば、そんな邪な欲望がとめどなく溢れてきてしまい──。


「──おーい、一也! 悪いが、寿司は冷蔵庫に入れておいてくれ!」


 その時だった。玄関の方から、そんな父の声がしてきたのは。

 御幸は飛び上がらんばかりに驚き、声も出せなかった。今口を開いたら心臓ごと飛び出してしまいそうだった。そんな御幸の心境など露とも知らない幼馴染は玄関の方を向いて「おじさーん、桶ごと入んないからタッパに移すよー」なんて間の抜けた返答をしている。

 すまん、と一声かけて、玄関で戸の閉まる音が聞こえてきた。カンカンカン、と階段を下りる音が聞こえてきて、ホッとしたような、そうでないような。ド、ド、ド、と脈打つ胸を押さえながら、御幸は慌てて立ち上がる。

「寿司、入れとく、カラ」

 だめだ、だめだ、だめだ。こんなところで彼女と話し込んでいては、本当に気が迷いかねない。野球に人生を捧げ、それ以外の道に目を向けてこなかった純朴な少年は逃げるようにキッチンの方へと転がっていったのだった。

「……おじさん、タイミングわっるいなあ」

 幼馴染が拗ねたようにそんなことを呟いたことなど、知りもせず。



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