チャンス・テーマの襲来

 夜の街。ここで行われる恋愛は、全て夢物語。キャストに入れ込む客もいれば、その逆もまた然り。けれど、全てが幻想だ。金と店、そして契約によって守られた関係が、真っ当な『恋愛』に発展するはずもない。だから一時の夢と割り切れる者だけが、夜を生きていける。いや、それもまた逆か。そうやって割り切れない者は、ただ夜に溺れるだけ。そうして底なしの沼の中で、金に塗れた愛に溺れていくのだ。男も、女もだ。

 私は、そんなバカな真似はしない。だからこうして、一つ一つと夜を乗り越えてきた。だというのに。一人の馬鹿な男が、私の人生を狂わせていく。

「で、いつ付き合ってくれんの?」

「言ったでしょ。ポスティングは球団の権利だって」

「選手ならFAならできるだろ?」

「残念、個人事業主じゃないのよ。あなたたちと違ってね」

 そして今日も、厄介な客に私は頭を悩ませる。

 静かな店内の奥にある、VIPルーム。広いローテーブルに、シャンパングラスが並び、黒い革張りのソファがいくつも鎮座する。何十人の人間がバカ騒ぎしたところで外に何一つ漏れない完全密室のここは、選ばれた害のない良客だけが居座ることのできる場所。じゃなきゃ男と密室なんて、何があってもおかしくはないからだ。んで、そんなVIPルームに我が物顔で居座る、この男の名前は御幸一也。今を時めくプロ野球選手サマである。対する私は都内某所のキャバクラで働くキャストの一人。この店は所謂芸能人政治家などVIP御用達で、客単価も高ければキャストの質も高い。そんな店で私みたいに胸も尻も貧相な女が生き残れているのは、ひとえに固定客の多さにある。私の専門は、この男のような野球選手なのだ。

 キャバクラに何をしに来るか。客によっては様々だ。ただ若くてきれいな女の子に持ち上げられたい人もいるし、単に話し相手がほしい人もいれば、年頃の娘と会話するための話題を探したい、なんて人もいる。千人いれば千通りの対応方法がある中で、私は『プロ野球』に焦点を当てた。野球好きなご年配の方も多いし、何より選手本人が来ることもある店だからだ。だからセパ問わず試合結果はちゃんとチェックしてるし、固定客が来る日はここ数日の試合どころか打数から配球、失策からベンチの様子まで細かに頭に叩き込んでいた。その甲斐あってか、金払いもよく、昨今は比較的礼儀正しい人が多い野球選手を固定客に捕まえることができ、私の収入は右肩上がり。そんな順調なキャリアアップを重ねていた私の元に、この男が転がり込んできたのが、すべての始まりだった。

『(すごー、本物)』

 それが、御幸一也を客として迎えた私の最初の印象だった。御幸一也といえば野球好きなら贔屓じゃなくても知っている有名選手だ。守れば巧みなリードで投手陣を操り、打たせれば得点圏打率四割一部とチャンスに強く、おまけにこのルックス。球団事情もあって入団早々一軍デビューを果たした少年は、僅か二年で年俸一億を突破したと聞く。紛れもないスター選手だ。本来金で女を買うほど困る男ではないだろうに、先輩たちに連れてこられたこの店で私に会ったのが、お互い運の尽きだったのかもしれない。

 こんな人が客に訪れるなんて滅多にないし、単純に捕手の話は他の客との会話に役に立つ。彼らほど配球・リードを考えている人はいないからだ。だから言葉巧みに彼から話を聞き出し、適切な相槌を打ち、時には質問を重ね、その答えにはなるほど・すごい・流石です、のお約束も忘れずに。実際御幸一也との会話はそれなりに盛り上がり、個人的にもイケメンと話せて楽しかったし実に参考になった。捕手ってこんなこと考えてるんだなあ、なんて思いながらもう会うことのない綺麗なツラを見送って最後だと思っていたのに。

 その次の週、御幸は一人でこの店にやってきた。私を、指名につけてだ。そして。

『俺と、結婚を前提に付き合ってほしい』

『(ヤバイ、痛客だ!)』

 球界屈指のイケメン捕手は、キャバクラに通い詰めるようになってしまった。そうはならんやろ、と言いたいところだが、実際なっているのだから問題だ。

 彼のチームメイト曰く、御幸はこの人生野球一筋で、野球漬けの生活を送ってきたという。要は女慣れしていないのだ。ただ、そんな客は別に珍しくはない。身の丈に合わない大金を稼ぎ、この店で散在するいい金蔓は山ほど見てきた。キャストに偏愛を抱く客だって、別段よくある光景だ。女たちはそんな客を言葉巧みにコントロールし、金や金品を貢がせる。それがこの店の──否、夜の国のルールだ。

 だから最初はチャンスだと思っていたのだ。固定客が一人増えるだけで売り上げが段違いだし、女どころか遊びすら素人の男の金払いは良いし、何より御幸は礼儀正しい上にイケメンだった。暴れまわったり暴言吐き捨てたり、お触りだの身に着けてる衣服を寄越せだのという身の毛もよだつ『痛客』に比べれば、御幸は随分大人しい。高いボトルも入れてくれるが殆ど口を付けないので酔わないし、野球の話をしていれば満足そうに去っていくし、球団の顔でもあるため上から同伴も禁じられているので時間を取られない。付き合ってほしい、店を辞めてくれ、と言うだけの男なんかいくらでも手玉に取ってきた。だから、この男も程々に食らい続け、長期的に絞れるだけ搾り取るつもりだったのだ。

 ──こんな生活が、三年も続かなければ。

「(こいつの財布、底なしなの……!?)」

 幸か不幸か御幸は億プレイヤー、要は金を持っていた。おまけにあまり金を使う性質ではないらしく、かといってただ貯め込むわけでもなく、二十三区にマンション買って家賃収入を得て、さらに金を増やしている様子。ファッションや車に頓着はなく、スポンサー契約を結んでいる企業から貰った服や時計で日々過ごしている。なのでこいつは、一本何十万とするボトルを週に一度入れたところで──仮にも一軍正捕手、試合で忙しいので日曜の夜にしか来ないのだ──痛くも痒くもない、という。

 求婚さえしなければ間違いなく優良客だ。イベントにも来てくれるし、プレゼントもくれるので小遣い稼ぎもできる。何故とは言わない。おまけに顔がいい。今やスコアラー並みの知識が入った私と御幸は会話に困ることはないし、本当にいい客なのだ。ただ、そんな生活が何年も続くと、こちらとしても困るのだ。

「悪いけど、この仕事辞める気ないの」

「金なら十分稼いでるだろ」

「残念、金のためにやってるんじゃないのよ」

 優良客に取る態度じゃないのは百も承知だが、こんなことしたってこの男は幻滅すらしない。客に求められるキャストを演じるのは一年ほど前に止めたが、それでも御幸は店にやってくるのだ。お前はただの金蔓だと、いい加減遊び方を覚えろと、店の損失でしかないそんな説教でさえ響きやしない。けど、いつまでもこうはいかない。今日という今日は、本気でこいつを説き伏せないとならないのだ。

「言ったでしょ。私、この仕事好きなのよ」

 夜の街に『客』ではなく働き手として踏み入れる者のほとんどは、男に貢ぐため、自分のため、或いは家族のため──とにかく色んな理由で金が欲しい人だろう。だから、稼げたら辞める人も多い。嫌なことも多い仕事だし、純粋に『水商売』は未だ社会的地位が低い。金のためならと、キャストを蔑ろにする店も客も多い。こんな仕事することないのに、と憐憫の情を向けられることも少なくない。

 それでも、私はこの仕事が好きだった。夜の街で一夜の夢を演じ、普段見ることのない人々の闇に触れ、それに寄り添い、時には忘れさせ、疑似的な愛を取り交わす。そうでもしなければ埋められない『なにか』を満たすこの仕事を、私は誇りに思っている。けれど、そんな風に私が思えるのは、この店がキャストを守ってくれるからだ。ヤバイ客は出禁にしてくれるし、身体が第一と気遣ってもらえて、給料も働いた分だけ弾んでもらえる。そういう店だから、私は仕事に誇りが持てる。けれど、そんな店のなんと少ないことだろう。誰も彼もが目先の金のために動き、結果として働き手が傷付き、この業界を去っていく。そうして『水商売はクソ』なんて風潮に拍車がかかり、悪循環は後を絶たない。だから。

「私──独立したいの。自分の店を、持ちたい」

 この店のようなオーナーに、私もなりたい。一つでも、一人でも救ってあげたい。客も、キャストも、全員だ。資金は十分に貯まった。私ももう決して若手ではないし、キャリアアップにもいいタイミングだ。なのに御幸が私の邪魔をする。こいつが私に入れ込む限り、店が私を手放さない。店側としても、ライバル店が増えるのはあまり良しとしないだろうから尚更だ。

 御幸さえいなければ、私の稼ぎなんてトップを争えるようなものではない。彼さえいなければ潔く辞められるはずなのに、その一歩が踏み出せない。こいつが私の足にしがみつくからだ。

「だからね、あなたとは付き合えないし、結婚もできない」

 せいぜい、よき金蔓でいてくれればよかった。客としての御幸は好きだった。彼は決して私たちを憐れまなかったし、礼節はしっかりと弁えていた。純粋に選手としても、応援できる人だ。なのに彼は、一歩目から間違えた。キャストと付き合いたいなんて、夢を現実にしようとするなんて愚かにも程がある。

 なのに夜を知らない彼の目は、純粋なまま。

「店のオーナーになるなら、キャストは辞めるってことだろ? それなら、俺としても願ったり叶ったりなんですけど?」

「あのねえ、それを成功体験として世に残したくないのよ。お分かり?」

 もしも御幸と私が付き合ったら、どうなるか。片やプロ野球選手で、片やキャバクラの元キャスト。少なくとも、この店に携わる者は全員知っている。そんな中で私が店を辞めて独立して、新たな城を構えた時に、隣に御幸が居たらどうなるのか。どう見られるか。

 ──ああ、頑張れば客とキャストも付き合えるじゃないか、と。

「私たちは商品なのよ。それも買い切り不可、一生モノのリース品」

「だから、購入したって履歴は残せねえって?」

「そういうこと」

 そういった成功体験が少なからず世にあるから、客も悪い夢を見る。その夢に踊らされるキャストだって、いないわけじゃない。でも、互いの本名も知らない場所から始まる恋愛の行きつく先は、総じて同じだ。いいようにはならない。夢は夢と割り切った客がいないから、キャストも苦しむ。そういった負の連鎖を断ち切りたいのに、当の私が実は元客と結婚してます、なんて示しがつくわけがない。

「だから、だめなのよ。諦めて」

「……」

「お願いだから良い客のままでいて頂戴」

「……」

「夢なのよ、全部。あなたの横で笑ったことも、野球が好きだってことも、健康に気遣って禁煙してたことも、いつかのためにと自炊を始めたことも、全部全部嘘なのよ」

 そうだ。こいつが見ている『私』は、本当の私じゃない。正直、野球は別に興味ない。ただ、この分野なら稼げると思ったから学んでいるだけで、本当はサッカーの方が好きだ。疑似恋愛を楽しむためにと、御幸の好きそうな女を演じているだけ。だから禁煙もしてないし、自炊だってほとんどしてない。全部全部全部、彼から金を巻き上げるための、夢幻だ。

「だからあなたが好きだという『私』は、どこにもいないわ」

 女性慣れしていない彼には、酷な話だったのかもしれない。それでも、たった一人に足を取られて自分の人生を諦めるなんて、したくない。私には私の人生がある。世話になっただけに申し訳なさもあるが、これも勉強だと思ってほしい。

 なのに、御幸の目は未だ、熱が籠ったまま。

「それは俺自身が決めることだ」

「……私が言葉を選んでいるうちに手を引いて頂戴」

「お前が好きだ」

「私の本名も知らないくせに」

「これから覚えてけばいいって」

「いい加減諦めて」

「嫌だ」

「聞き分けの悪い人は嫌いよ」

 隣にいる御幸は、怖いぐらい真剣な眼差しだった。この仕事をしていなければ玉の輿だったのかな、なんて一瞬でも絆されそうになる。でも、やはり自分の夢を諦めたくない。そのためにはやはり、どうあっても御幸一也は邪魔だ。一瞬でも揺れる心を律しながらすまし顔で背筋を伸ばす。すると、御幸は少し考える素振りを見せてから、訊ねた。

「なあ」

「サロンかクリスタルの注文以外聞く気はないわ」

「独立したら、お前の肩書って『社長』?」

「……は?」

 突如話が飛んで、変な声が出てしまった。質問の回答は、半分正解、だ。私はどの店の系列にも入る気はないし、完全に新規参入する。なので肩書的には──社長兼オーナー兼店長、みたいな扱いだろうか。多分、店回しながらキャストとして働けないだろうし……と、曖昧に答える、御幸はフーンと鼻を鳴らした。心なしか、何か企んでいるような、嫌な顔をしている。

「オーナー兼社長、なるほどな」

「な、なによ」

「そうなっちまえば、こっちのモンだなと思って」

「……何言ってるの?」

飲食業の女社長[・・・・・・・]──この肩書なら、文句ないだろ?」

「な──」

 御幸のしたり顔に、絶句してしまった。開いた口が塞がらないとはこのことか。こ、こいつ、まさか。

「あ、きれた……! あなた、待つつもりなの!?」

「ネックはそこだけなんだろ? じゃ、話は早いじゃん」

「だからって──!」

 信じられない。この男、私が店を辞めて、独立して、届け出上は『飲食店の女社長』になるのを、待つつもりなのか。そうすれば、私の提示した条件に引っかからないと踏んで。なんて馬鹿馬鹿しい。そんなの屁理屈だ。過去は消えない、一生だ。どんな経歴を歩もうと、私たちの出会いは変えられないのに。なのに。


「狙い球が来るまで待つ。当然だろ?」


 ニッ、と悪戯に笑う御幸に、私は呆れて物も言えなくなってしまった。何球ファール打つ気なのか、こいつは。ああ、でも、なのに、試合中打席に立つのと同じぐらいぎらぎらしたその目に、こいつのが打席に立った時のチャンテが自然と脳裏をよぎり、ぶるりと震えた。

 狙いうち──落としたのは私のはずなのに、どうしてこんなにも、嫌な予感がするのだろう。



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