Genius is eternal patience

 及川徹に敢えて『天才』の称号を与えるとしたら、『プライドの天才』だろうか。

 私はあまりその表現は好きじゃないし、及川本人に言ってもきっと喜ばない。泥水でも飲まされたような顔をして、俺そういうのキラーイ、それよりもっとカッコいいとかイケメンとか言ってよー、なんて強請ってくるのが容易に想像できる。ただ、やはり私の目にはとてもじゃないが凡人には見えない。凡人の反対が天才も安直な考えかもしれないが、何分凡人の私の語彙力ではこう称する以外の表現方法が分からないから許してほしい。

 『努力の天才』なんてよく聞くが、元々及川だってそういう類の人間だったのだ。多くの原石光る選手たちに比べ、これという突出した武器を持たない及川はコンプレックスを通り越してだいぶ拗れていたと思う。それが拗れに拗れた結果、そういう連中全員潰すためにアルゼンチンに帰化してまでバレーをやりたい、というのだから頭が痛くなる。どうかしてると岩ちゃんも言った。全く同意見だ。純粋にバレーがしたい、強い奴と戦いたい、と未来に歩き出す天才たちの中でも、その選択は異例すぎた。だから、彼もまた天才だと思ったのだ。自らの誇りを、プライドを、そこまで昇華させた及川はやっぱりすごいとは思う。

 ただ、同時にこうも思った。危ういな、と。

「及川さあ、マジで分かってんの?」

「なにがー?」

 いつものように二人で学校から帰りながら、及川はヘラヘラしたツラで問い返す。このツラはいくつになっても腹立たしい。もう十年近い付き合いになる、所謂岩ちゃん共々幼馴染ってやつだけど、このイケメンです自覚してますハッハッハ、とばかりに満ち溢れる自信が気に食わなくて、私も岩ちゃんもベシベシバシバシと及川をシバいていた。けれどもう、そんな下らない日常さえも、この男は断ち切ろうとしている。

「進路のこと?」

 道路わきの段差にひょいっと飛び乗りながら、及川は何でもないように語る。分かってるなら聞くなと、私は嘆息して飽きるほど見てきたツラを見上げる。

「そりゃー、無謀な挑戦とか言われてるし、親にも先生にも微妙な顔されたよ? バレーなら日本でもできる、大学行ってからでも、なんて穏やかな道をさー。でも──」

「別にそこに文句はないよ」

「あ、そうなの?」

「及川が決めたことでしょ、なんで家族でもない私があれこれ言うと思うの」

 流石に日本の反対側に飛んでいくと聞いた時は我が耳を疑ったが、まあ、それも及川らしいな、と思った。ただ、その『らしさ』が危うくて、先生もご家族も誰も指摘してないようで、辛抱たまらなくなったのだ。

「あのさあ、及川」

「んー?」

「あんたの人生は、バレーが終わってからのが長いんだよ」

 バレーボールに限った話じゃない。人間の肉体なんか二十代を境に衰えていくばかり。体力も、スピードも、ジャンプ力も、視力でさえ、一歩一歩と衰える。アスリートなんてもっと『消費』が早いだろう。だからどんなに長くったって、四十まで続けば御の字だ。でも、人生百年とか言われる昨今、残る六十年のことまで考えているのだろうか、と私は危惧していたのだ。

 案の定、及川の表情はぴくりとも崩れない。

「お前今からそんな先のこと考えてんの? 気ぃ早すぎでしょ」

「だって及川、そこまでした後に、バレーのない人生と向き合えんの?」

「……」

 私が一番危惧しているのは、そこだ。

 レベルの高い海外でプレーをしたい。立派なことだろう。絶対に言ってはやらないが、寂しさを抱えつつも応援はできよう。それが日本の裏側だって、大変だろうが笑顔で見送ってやる。でも、帰化まで考えてるとなると、ちょっと話が違ってくる。

「家族や友達に何かあっても、きっとすぐには戻ってこれない。食事も、言葉も、生活スタイルも、全部全部日本に置いていく。そりゃ、現役の時はそれでも満足でしょ。でも、その後は?」

「……」

「あんたはその先の世界も、ちゃんと生きていけるの」

 そりゃあ、指導者や解説だ、バレーに携わる仕事ならごまんとあるし、アマチュアなら身体の動く限りバレーはできるだろう。だが、プロは無理だ。それこそいくら努力しようが想像を絶する天才だろうが、老化には勝てない。だから及川はいつか、プロの道を退く。どんな未来が待っていようとも、それだけは確実。だけど、倒すべきライバルのために帰化までした男が、サポートに徹するだとか、或いはアマチュアで満足できるのか?

「なに、俺が引退した後は『及川徹、人生も引退しまーす!』って消息不明になるとでも思ってんの?」

「──思ったよ」

 思った。何度も想像した。だって及川は、遠い遠い国の人になる。そうして連絡を絶たれてしまえば、私たちはどうやって及川を探せばいい。人生まだ長いんだよと、どうやって言いに行けばいい。それが、怖い。そこが、危うい。私の幼馴染が私の目の届かないところで私の知らないうちにひっそりといなくなってしまうのではないか、と。

「思ってるよ。だから聞いてんの。分かってんのかって」

 及川は足を止めて、くるりと私を振り返る。ただでさえでかいのに、一段高い歩道に乗った及川はまるで巨人だ。けれど、怯むことなく見上げる。風と、古ぼけた車がさあっと駆け抜けていく。及川は、擽ったそうに、くしゃりと笑みを零した。

「……俺のこと心配してくれる人はたくさんいるけど、俺の引退後まで心配するのは、お前と岩ちゃんぐらいだろうなあ」

「まあ、幼馴染だからね」

「俺は幸せ者だなー。そんな幼馴染に囲まれてさー」

「……囲っても飛び出してく癖に、よく言うよ」

 恨み言のようになってしまう。いや、恨み言なのだろうか、実際。別に幼馴染だから死ぬまで一緒に居るとは思ってない。及川も岩ちゃんも、地元どころか日本だって狭いはず。いつか世界に飛び出していくんだろうと思ってた。だけど、想像もしないぐらいずっと早く、そして予測もしなかった飛び方には、流石に一言物申したくなる。

「……ごめん。お前の質問には、答えられない」

 こういう時、及川は茶化さない。人の目から空気を感じ取れる人だ。私の真剣な質問には、ちゃんと真面目に考えてくれる。けれど、その答えは私の求めていたものではなかった。

「仕方ないだろ。明日も分かんないのに、老後なんか想像できるかよ」

「……そりゃそうなんだけどさあ」

 身も蓋もない答えだ。私だって、二十年後自分がどこで何やってるかなんて、想像もできない。大学行って、働いて、結婚して、子どももいるだろうか。でも世の中不況だし、子ども育てながら一生懸命働いてるのかな。その程度の想像力しかない。でも、何事もなければ、生きてはいると思う。それが普通のことのに、及川に限ってその『普通』が想像できない。だって彼もまた、天にその才を与えられた一人。ただ一つの誇りのために全てを置き去りにして羽ばたく決断ができる、『プライドの天才』だから。

「でも俺、行くよ」

「……だよねえ」

 分かってる。この程度で躊躇うようなやつじゃないってことぐらい。まあ、及川なりに私の言葉は真摯に受け止めたはず。これ以上は口出しできる領分じゃない。あとは信じて応援するだけ。半年、いや年に一回ぐらい、生存確認で連絡ぐらいは入れてやるか。アルゼンチンってLINE使えんの?

 二十年後のスマホはどうなってるんだろう、なんて考えたその時。すとんっ、と及川が段差から飛び降りた。高い高い位置にあったムカつくツラが、ほんの少し近くに来る。じいっと見つめてる目は試合中と同じで、幼馴染としての勘がアラートを鳴らした。

「いいこと考えた」

「その顔は絶対いいことじゃない」

「──お前も来ればいいんだよ」

「あ?」

 思わず烏野のヤンキーみたいな声が出てしまった。来ればいいって、何に。どこに。会話の流れから分からないほど馬鹿じゃないけど、こいつ馬鹿なんじゃないだろうか。

「アルゼンチン、一緒に来てよ」

「馬鹿なの?」

「だって俺のこと心配なんだろ?」

「悪いけど人生捧げるほどはしてない」

「じゃあ、捧げてよ」

 何度でも言うが、こいつ馬鹿なんじゃないだろうか。岩ちゃんと共に何度も何度も及川に言ってきたセリフだが、今日以上に心から叫びたかったことはない。なのに、及川は笑ってない。さっきからムカつくツラは、ただの一度も笑っていない。

「お前の人生、俺に捧げて」

「……な、なん、で」

「言わなきゃ分かんない?」

「わ、分かりたく、ない」

「強情だなー」

 一歩、及川が近付く。壁のように高い視界に映る私は、どんな間抜けた顔をしているのだろう。少しばかり腰を折って、また顔が近付いてくる。ムカつく顔は、怖いくらい真剣だ。

「でも、お前も大概なんだからな」

「な、にが」

「幼馴染ってだけで人の老後まで心配できないだろ、普通」

 呼吸が、上ずる。及川と一緒に遊ぶのは好きだし、喋るのも楽しい。顔が良いと思ったことはないけど──個人的には牛島くんみたいな人の方が好きだ、及川には口が裂けても言えないが──、多分、魅力のある人だ。でも、そういう目で見たことはなかった。そういう未来を、考えたこともなかった。だから唇は冷静に、言葉を紡ぎ出す。

「……その理屈だと、岩ちゃんも私と同じってことになるけど」

「ウーン、この流れでそう来るか」

「及川、寂しいのは分かるけど、人を巻き込むのはよくないと思う」

「あーはいはい分かったよ。クッソ、お前ホントそういうとこ」

 及川はとうとう、私の前で膝をついた。ムカつく顔が、何年かぶりに視線の下にいる。ばさり、と白いブレザーがマントみたいにはためいて──まるで、シンデレラだの白雪姫だのにかしずく王子様みたいに。


「バレーがなくなっても生きてけるように、俺の人生支えてください」


 初めて聞く声色。怖いぐらい真剣な眼差し。逃げられないようぎゅっと手を握る力。全部全部、私の知らない及川だった。幼馴染なのに、こんな及川、私は知らない。だってそんな素振り、ただの一度だって。

 なのに、そんな兆しもなかった私は、どうしてこんなにも嬉しいんだろう。

「……アルゼンチンって公用語なに、アルゼンチン語?」

「ないよそんなの。スペイン語だろ」

「そうなの? リメ●バー・ミーもそう?」

「あれはメキシコ」

「やばい、全然分からん。未知の世界過ぎる」

「そんなの俺だってそうだよ。でも」

 お前がいれば、と柔らかな眼差しが語る。プライド高くて意地っ張りでめんどくさくてムカつくし、なのに私の知らない私まで見透かして、心を揺さぶって、ぎゅっと掴まれた腕は離してくれなくて。あれ、おかしいよ。私、そんな天才に並ぶような人間じゃないんだけど。そんな天才の幼馴染だから、ちょっと忠告を、なんて思っただけだったのに。どうしてこうなった?

 ああ、でも。そんな風に言われたら。そんな眼差しを向けられたら。そんな未来を、想像してしまったら。私も何かの『天才』になってやるかなんて、当てもないのにそんなことを考えてしまった。岩ちゃんごめん。私も大概どうにかしてる。

「でも知らなかったなー。及川、そんなに私のこと好きだったんだ」

「そりゃ、地球の裏側にまで連れていきたいほどにね」

 仕方ない、その熱意に免じて、『及川の天才』ぐらいにはなってあげるかな。



*BACK | TOP | END#


- ナノ -