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 さて、家に帰れなくなって何日経過したかも分からなくなった。しかし足があれば歩けるし、腕があれば物が食えるし、命があれば生きていける。訳の分からぬまま訳の分からぬ世界に放り出されていの一番に死んだのが倫理観で助かった、と思いながら今日も盗み出した宝石を換金した金で買った林檎をかじる。世界は違えど林檎は林檎、シャクリという食感はわたしの知る林檎そのものだった。

 海賊の船から宝石を盗み出して逃げ出したあと、わたしは灯の見える場所へと向かった。案の定大きな町があり、人がたくさん行き交っていた。町は、わたしの認識に相違のない街だった。二足歩行する人間がいて、そんな人間が商いをして、金を対価に物を売り買いする。その程度の常識は通じるようで、ひとまずはほっとした。わたしは手持ちの宝石をいくつか換金して寝床を確保し、明るいうちは情報収集、暗くなったらホテルに引き籠る生活を続けた。情報収集は、正直大した戦果はなかった。わたしの身体に何の異常もないことからこの世界の酸素濃度は20%前後であろうと想定できたし、人間もわたしの知り及ぶ“人類”に他ならない。ただ、街並みが妙だ。やはり、21世紀のソレとは違う。じゃあ何世紀ぐらいかと問われても、史学はさほど詳しくないわたしには判断しかねる。ただ、何もかもが時代にかみ合っていない、そう思えた。道行く人々の声を盗み聞ぎ切れば、世は大航海時代、海賊がまだ見ぬ宝を求めて海を往くのが当たり前だという。おいおい大航海時代って何年前だ──『いよっ国が見えるよコロンブス』、えーと、1492年に新大陸発見だったか。てことは、順当にいけばここは500年ほど前の世界ということになる。なるほどテレビもなければ電柱もないし、車も走ってない、おらこんな村嫌だと、人々の専らの移動手段が船と言うのも頷ける。しかし道行く綺麗でスタイルのいいお姉さんたちはショーパンにタンクトップやらチューブトップやら、というのはどういうことか。肌は白や黄色と特異な点はさほどないにしろ、赤や青や緑とファンキーな髪色も多い。此処までの調査を終え、わたしは時代考証について深く考えることをやめた。

 金で物を売り買いしていくうちに、日本で培った常識というのもある程度通じることも分かった。まず、みな外人風の名前、ルックス、スタイルなのに日本語が通じるという点だ。しかし書きは英語で、ところどころ漢字もある。何故口語と書記言語が違うのか、通算何度目かの思考放棄を試みる。ともかく対話に困ることはなかった。通貨はベリーというらしく、新聞一部で100ベリーだったので、大体1ベリー1円ぐらいの感覚的だろうか。盗んだ宝石はわたしの予想に反しジンバブエドル並みのインフレにはなっておらず、宝石数個で数か月分の給金ぐらいにはなった。ホテルも一泊1万ベリーかからない、手持ちの宝石があれば数年ぐらいはホテル暮らしも夢ではないだろう。だがわたしは此処で立ち止まってるわけにはいかない。そう、わたしは歩き続けるための目標を掲げたのだ。だが、聞き込み調査と洒落込むわけにはいかないのが面倒なところだ。一つは、わたしのこの変な“声”だ。どうも喋った言葉が具現化するらしいが、周りの人間にそんな人は一人もいなかった。つまり、わたしはこのおかしな世界でも“異端者”であるということ。異端者の末路など、どんな物語でも相場は決まってる。ただ、喋った言葉が全て具現化するわけではないようで、たまに零れる独り言が具現化することはなかった。だが、どういう条件で具現化するか──つまり、他人に異端者とバレるか分からないため、わたしは口が利けないフリをする他なかったのである。二つ目に、わたしが追ってるのは“海賊”であることだ。常識的に考えて、犯罪者を追う人間、どう見てもタダものじゃない。変に巻き込まれても面倒だし、次も無事に逃げ出せる保証はない。だからわたしは、一人で、地道に、図書館や新聞などの紙媒体を中心に、調査を進める他ないのである、が。

 進むわけがない。ロクに英語だって読めないわたしにどうしろというのか。

「……ハァ」

 咀嚼の合間に零れる溜息が、具現化することはない。せめてこの声の謎がもう少し分かればいいんだけどな、なんて思いながら重たい鞄を担ぎなおす。中身は、全て盗んだ金目の物だ。誰も信用できないのだ、ホテルに置いてくるなんて危ないことはできない。しかし、これを盗まれればわたしは文無し。頼るツテもないわたしはこの命綱が無くなったら生命の意地さえもままならない。どのみち、女が一人ホテルに長々住み着いてても怪しまれる。そういった懐疑を避けるためにもホテルを転々とする必要があったので、わたしは常日頃から全財産をこうして持ち歩きながら調査を進めているのである。

 リスクヘッジのために、換金したお金は身体中の至るところに細かく分けて忍ばせている。さながら、海外に行く際のスリ対策だ。それでも全てを換金することなど物理的に不可能で、こうして重たい思いをしながら運んでいるというわけだ。何せ貴金属、死ぬほど重い。気分はまるでサンタクロース。人通りの少ない場所で、こんな大荷物。カモに去れると思われがちだが、例えひったくりにあっても、この質量を抱えて走るのは至難の業──。

「退けェッ!!」

 そう、こんな風にぶつかりざまに鞄を引っ手繰られても──。

「どあっ!? なんだこのカバン、クソ重てェぞ!!」

 このように、あまりの重さに怯ませることが可能なのである。ひったくりなぞ身軽さが命、こんな重たいものを担いで逃亡は捕まるリスクが高い。そう、この町に来てからかれこれ数回鞄を引っ手繰られたが、この鞄はひったくりの身には文字通り重すぎるようで、クソがと悪態をつきながら鞄を放って去っていくのだけれど。

 今日のひったくりは違った。ヒイヒイ言いながらわたしの鞄を担いでいくではないか。ぱちぱちと、瞬きする間に奴は重たい荷物を担いで遠く、遠くへと逃げ出していき……。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 今日一の怒号が、わたしの喉から飛び出した。

 さて、“それ”が降るのと、わたしが駆け出すのとは、どちらが早かったのだろう。答えはほぼ同時。わたしの鞄を盗む不届き者を追いかけんと駆け出したわたしの喉から発せられた怒号は、文字通り盗人の全身に浴びせられた。ご丁寧に濁点までついた『あ』は、その一つ一つが両腕一杯広げても足りないほど大きく、それら全てが盗人の背中に弾丸のように降り注いだのだ。『あ゛』の洪水をまともに浴びた盗人は思いっきりバランスを崩してすっ転び、おかげでわたしはいとも簡単に盗人に追いつくことが出来た。

 どうしてくれようかこの野郎、そんな念を込めながら睨み付けると、盗人は目に見えたように怯えてびくついた。意外だ、という思いは顔に出さないようにする。だって相手は大柄な男、こちらは成人日本女子平均身長平均体重真っ只中である、どつかれでもしたら普通にこっちが負けるレベルの体格差だ。しかし相手は完全に、わたしに対して敗北を認め、怯えの姿勢を見せていた。何を勘違いしてるのかは知らないが好都合だ。さっさと鞄返せと、無言で手を差し出す。

「チィッ、能力者かよ、ツイてねえ! おらよ、これで満足かよ!」

 男はそう悪態をついて、わたしに色とりどりのお手玉を地面にたたきつけると、鞄を置いて脱兎の如く逃げ出した。お手玉は、よくよく見たら財布だった。しかも見覚えのある、わたしの予備の予備の予備の財布まであった。あの野郎、スリの常習犯かよ。ひとまず自分の財布は回収して、残る財布は……どうしよう、警察的な組織はあるのだろうか。海賊跋扈するこの時代に、そんな正義の機関が存在するともあまり思えないけど……こう、町の自警団的なものがあればいいんだけどなあ。

「あ! おれの財布!」

 その時、そんな大きな声が飛んできて、たくさんの財布と睨み合ってたわたしは肩をびくつかせながら声の主を振り返った。背が高くて、黒いマントに白シャツ、柄物のサルエルパンツ、そして身長と同じぐらい長い剣を携えた人物が、こちらにやってきた。フードを被っているため顔はよく見えないが、声とこの身長から男であると分かる。

 嬉々としてこちらにやってくる男。当然、誰であれ信頼してないわたしとしては誰の物とも分からぬ財布たちを抱えて後退る。見ず知らずの財布とはいえ、持ち主でない誰かの手に渡るのを黙って見届けるほど、良心は潰えてなかったらしい。訝しむわたしの様子に気付いたのか、男はフードの下で気さくに笑みを浮かべて見せた。

「ああ、悪ィ! あんたがおれの財布を取り返してくれたんだな、助かった!」

 毒気の抜けるような、少年みたいな笑顔。けれど、近づいてくる彼の顔を見て、わたしはまた数歩後退った。顔に3本の傷跡が刻まれていたからだ。どう見てもその筋の人間じゃないか。そう考えると、この笑みも胡散臭いことこの上なしだ。警戒を解かず黙ってると、男は困ったように頭を下げる。

「おれの財布な、左手に持ってる赤革の奴だ。中身はカラ、ビブルカード──えーと、紙だ、小さくて四角い紙が入ってるだけだ。嘘だと思うなら中身を確認しても構わねェが、そいつは大事なもんなんだ。返しちゃくれないか?」

 このとーり、ともう一度深々と頭を下げる男。帯刀してなきゃもう少し警戒心はなかったかもしれない。だが、男の言葉が全て嘘だと決めつけるには早すぎる。わたしは男の言う通り、他の財布を地面に置いて赤革の財布を手に取る。軽い、本当に中身など入ってないようだ。中身を確かめる、確かに、数センチ四方の紙が一枚、ぽつんと入ってるだけの質素な財布の中身だった。

 男を信用したわけじゃないが、少なくとも言葉に嘘はなさそうだ。すっからかんの財布を欲しがる物好きなハイエナもいないだろうと判断したわたしは、その財布を男に差し出す。男はとびきりの笑顔で財布を受け取った。

「いやあ、助かった! 恩に着るよ、お嬢ちゃん! 実はさっきまで飲んでたんだが、その隙を突かれたらしくてな! 中身は酒場で使い切ったからいいやと思ってたんだが、ビブルカード入れてるの忘れててなあ! あー、よかった! これ失くしたらあいつらに何言われるか!」

 男にとって、この数センチ四方の紙はよっぽど大事なものらしい。だったら失くすなと呆れながら、わたしはぺこりと軽く会釈をして踵を返す。とりあえず、この財布を……ホテルにでも預けてみるかと思いながら拾い上げようとすると、その手を大きな腕が掴んだ。顔を上げると、顔傷男がニカッと笑った。

「ところで、さっきの“声”なんだけどよ──」

 わたしは、その声を聴き終わらぬうちに持ってた他人の財布全てを男にぶつけて一目散に逃げだした。良心?倫理観?そんなの、自分の身の危険に比べるまでもない。あの男、わたしが“声”を使うところを見てたんだ。だから近づいたのか。脳裏に甦る、あのげろまずのフルーツを食わせてきた男たちを思い出す。

逃げなきゃ[・・・・・]

 わたしも、馬鹿ではない。こちらの世界でもこの“声”が異端なら、異端になるきっかけがあったはずだと、真っ先に考えた。そしてそのきっかけは、あのげろまずフルーツ以外にないと断じた。タイミングも合うし、何より奴らはアレを食わせたわたしを奴隷として売るつもりだったからだ。あの実には、もっといえばこの“声”には、美人でもなんでもないわたしを人身売買にかけるだけの価値があるということ。それが分かっていたから、迂闊に喋ることはしなかった。だというのに、まさか、まさか、まさか!と唇を食む。大丈夫、鞄だけは何とか持ってこれた。

 しばらく全力で走って振り返る。よかった、顔傷男は追ってこない。人間、死ぬ気で走れば大の男も撒けるらしい。逃げ遂せた先に、こぎれいなモーテルを見つけた。もうここでいいや、とわたしはヘロヘロになりながらチェックインを済ませて部屋に転がり込む。けれど、そのまますやすや休むだけの暇は、わたしにはなくって。

 ああまったく、やることが多い。


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