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 さて扉を開けたら不思議の国がわたしを奴隷に陥れて、他人の返り血で全身どす黒くなりながら呪詛を履き続けていたらいつの間にか寝てしまっていたようだ。誘拐されてぼろ着せられて監禁されて、その上、目の前で人間が爆発四散したというのに、自分のこの図太さに驚く。いやもう十分に驚きすぎてて、なんというか、驚きというキャパシティを超えて一周回って『無』になってしまった感じだ。わたしはそこまで人を捨ててないはずである。

 ともかく。そんな中、もうずっと寝てたい気分だったのに目が覚めてしまったのは、ひとえに只ならぬ気配を察したからであった。がくんとも、ずどんとも違う、この場一帯の空気がごっそり抜かれてしまったかのような感覚。目を開ける。別段代わり映えのない風景が広がる。暗い牢、汚物の鼻の付く臭い、生気のない人たち……。

「“エッ”──」

 この時、わたしの身に起こった驚くべき出来事が二つあった。一つは、この牢屋に転がされている人たちが全員、死んでいると気付いたことだ。生気がないとは思ってた、みな虚ろな目で生を諦めていた顔だった。けれど、間違いなく生きていた。でも今は違う。死んでる。どうしてそんなことが分かるのか。そんなの、一目で分かる。いくら薄暗い牢だからといって、暗闇に目が慣れれば人の形や色ぐらいは分かる。だってこの場にいるわたし以外の全員が、真っ黒こげで焼け死んでいたからだ。

 そして驚いたことがもう一つ。丸焦げの死体が並ぶ牢屋を見渡して引き攣った悲鳴を上げた瞬間、『エ』と『ッ』という“カタカナ文字”がどこからともなく出現して、足元にゴトンと落ちてきたからだ。

「え、いや、ハ──な、“ハイッ!?”」

 脳みそも何から処理をすればいいのか分からず、そんなことを口走れば、今度は『ハ』と『イ』と『ッ』がゴトゴトゴトッと突き崩した積み木のように転がった。バラバラになったカタカナたちはもはや意味のなさないパーツと化しているが、間違いなく空中に『ハイッ』と描かれたのだ。そしてそれが具現化して、わたしの足元に落ちてきた。……そっと、わたしが発したと思しき言葉に触れる。硬い。ぐっと力を入れても、折れない。『エ』なんかはちょっとした厚みがあるせいか、踏み台になりそうなほどしっかりしていた。だからどうした。

 なにこれ、なんだこれ。いや、因果関係を考えればそれは明白。わたしの喋った言葉が、文字になって具現化した──理解できるのはそれだけ。どうしてそんなことができるのか、どういう原理でそんなことができるのか、まるで分らない。けれど、事実と結果がそこに転がる以上、そう判断する以外ない。

「……ハァ」

 丸焦げの死体に囲まれ、ため息交じりに思案する。もう色々なことがありすぎて脳が追いつかない。けれど、此処でうだうだしていても、夢か現実か分からぬこの世界でロクな目に遭わないことなど火を見るよりも明らか。生きていたのか、死にたくないのか。此処が仮に、とてもリアルに出来た夢だったとしても、そんな夢の中で死ぬなんて御免だった。なんだか、二度と起き上がれなくなりそうだから。それくらいの冷静さはあった。或いは、死の淵に追い込まれた生物というのは、生存のためになけなしの理性をかき集めることができるのだろうか。

 今なら逃げられる。よく分からないが、この“力”がわたしをこの檻から出してくれるかもしれない。否、逃げたとしてどうすればいい。敵陣真っ只中、此処がどこかも分からないのに。否、否、どうせ此処に至って辿る道は一つ。だったら少しでも、生きる道を選ぼうじゃないか。

 そう判断して立ち上がった時、何かに躓いてすっ転んだ。

「“イッ”──あ……」

 早速『イ』と『ッ』が具現化してゴトゴトと音を立てて冷たい石の床に転がる。けれど、そんなことは気にならなかった。わたしが躓いたそれを、直視してしまったからだ。それは腕だった。ひとの腕。誰の腕。この場で生きているのはわたしだけで、わたしには両の腕がまだある。即ちそれは、死体の腕。死体の中で腕がないのは、わたしの目の前で爆発四散したお兄さんの死体だけ。

 そう冷静に分析したのは、わたしが躓いたその腕──もっと言えば、手に、何かを握り締めているのが暗がりの中で見えたからだ。後生大事にしていたらしい、それは秘められるように、隠されるように、左手の中に封じられているように見えた。この極限状態の中、倫理観などドブに捨てたわたしの行動は早かった。その左腕をこじ開ける。死後硬直していたとはいえ一日も経てば肉も弛緩したようで、あっさり開かれた手のひらにあったのは、ただの手紙だった。手紙だと分かったのは、誰かに宛てた、或いは宛てるつもりだったのだろうと分かる、“名前”が綴られていたからだ。けれど読めない。この檻は薄暗い。おまけに英語だ。英語は苦手だ。けれどこの海賊と名乗った男が後生大事に抱えていた手紙となれば、何らかの価値があるかもしれない。生憎、他の死体は真っ黒こげで何も得られそうにない。ゲームのようにわたしは手紙というアイテムをゲットし、他に隠すところもないので胸の谷間に手紙を押し込んだ。あって良かったわたしの胸。言ってる場合じゃない。

 わたしは檻の前に立つ。目の前に広がるのは、薄暗い明かりを灯す蝋燭が点々と続く廊下と、その奥に見える細い縄梯子。そして縄梯子が垂らされた場所に、この檻を開ける鍵束があった。

「“ア───ッ!”」

 わたしはここ一番の長音を腹からひねり出した。ぐわんぐわんと石壁に反響するほどの大声だったが、誰も降りてこない。否、そうじゃないかと、心のどこかで思ってた。だって此処は、あまりに人の気配が“しょうしつ”していた。だからわたしの目論見通り、『ア』とこれでもかってぐらい長い棒が一本、ゴトーンッと牢の床に転がり落ちた時、勝利を確信した。

 そこから先は簡単だ。その棒を使って鍵束を手繰り寄せて檻を開ける。裸足のまま石の床を駆け、縄梯子を伝って一人、死体を残して上のフロアに上る。

「……ッ!」

 上のフロアは、それは凄惨な光景が広がっていた。けれどわたしは声を押し殺した。上のフロアは、人だったものが多く転がっていた。そう、人だったものは、牢屋の死体と同じように一人残らず丸焦げだった。大半は床に転がっていたが、机に突っ伏したままのもの、椅子に座ったままのもの、酒瓶を握り締めたままのものなどもあって、まるで日常の中、突然丸焦げになったとしか思えない異様な光景だった。部屋は散らかってはいるが荒らされた様子も、何者か──この世界流に言うなら、この焦げた者たちの“敵対者”とでもいえばいいのか──が押し入り、争いになった形跡もない。つい先ほどまで、この焦げた者たちは酒を飲んで椅子に座って机で鼾をかいていたとしか、考えられない。

 しかし、何度も言ってるが限界まで追い詰められたわたしに倫理観などない。生きている人間はいないと判断し、わたしは部屋を好き勝手荒らした。まずは服、それに食糧、金目の物。この世界でも宝石や金貨は価値はあるのだろうか。どうかジンバブエドル並みのインフレ化してないことを祈りながら、わたしは大きなかばんに比較的綺麗な服──男物ばかりだが文句は言えまい──と食料と水、それから宝石ときんきらりんの装飾品をぶちこんだ。それからぼろを脱ぎ捨ててシャツとズボンを拝借。一昔前のRPGの主人公だってこんな夜盗染みたことはしないだろうと思いながら、床に転がる焼死体を跨いで部屋のドアを蹴破る。穏やかな潮騒、頬を撫でる湿った風。眼前に広がる、夜空と一体化しそうな──。

「……海」

 そして気付く。わたしがいるのは牢屋でもお部屋でもなく、船の上だったのだと。あまりに穏やかな波のせいで、此処が陸じゃないことに気付かなかったなんて。思わず後退る。どんと何かにぶつかって後ろを見上げる。大きな木でできた円柱に、これまた大きな布が張ってある──それを帆と呼ぶのだと、気付くまでに数秒かかった。そしてその帆には、大きな髑髏マークが描かれていることに気づき、思わず天を仰ぎそうになった。21世紀にもなろうかって時にこんな分かりやすい海賊ってありますか。いや、ここが21世紀かどうかも分からないのだったか。だめだ、常識を持ち出すといちいち疲れる。やめよう。

 幸運にも、船から陸地が見える距離でこの海賊船は停泊していたようだった。海賊だから堂々と陸地へは寄れないのか。何にせよ、床に転がってた単眼鏡でその陸を見ると、灯が点々としていた。つまり、人がいるということだ。人がいる、でも、此処にいる奴らみたいなのばっかだったらどうしよう。いや、此処に居てもどうしようもないのは明白。食料も水も、無限にあるわけじゃないのだから。だからわたしは意を決して、この船に括り付けられていた小舟を海に降ろし、縄梯子を降ろして小舟に乗り込む。盗品を詰め込んだかばんも忘れずに。そうしてオールを漕いでえっちらおっちらすること数分とかからず、陸地に辿り着いた。乗り捨てるように浅瀬に小舟を残し、わたしは砂浜を一人歩く。ああ、しまった。靴を盗んでくるのを忘れた。いや、あの船に女性物の靴があるとは思い難い。この陸地で買えるだろうか。いや、まずは換金からか。ていうか寝床探さないと。

 というか、これから先わたしはどうすればいいのだろう。

「……っ」

 言葉も出なかった。夢なら醒めてほしいという祈りは一向に届かず、ただ現実だけが目の前に横たわるだけ。柔らかな砂を踏みしめて、一歩一歩進む足が重い。この先を行っても、また捕らえられるかもしれない。五体満足でいられたのは奇跡だ──いや、なんか変な“声”にされた気もするが──、次はこうもいかないかもしれない。強姦、殺人、臓器売買、奴隷──そんな嫌なワードが脳裏を駆け巡る。目的も頼れる人も帰る方法も分からず、わたしは一人砂浜で何をやっているんだろう。そう思いながら暗い空を見上げる。

 すると、水平線の向こうから明かりが一筋差し込んで、目を瞬いた。ああ、朝が来たらしい。ふと、明るくなったことで、先ほどの手紙が読めるのではと、胸元から手紙を引っ張り出す。汗や血しぶきでところどころ滲んでいるが、ギリギリ読めなくもない。しかし、英語で書かれているため、ほとんど解読することはできなかった。そう、ほとんどだ。ああこれが、いっそ全て意味が分からなければ、わたしの物語は此処で終わっていたかもしれないのに。

『I do want to go home』

 手紙には、文字通り血の滲んだ思いが刻まれていた。そう、あの男はこの手紙をあの牢屋の中で書いていたのだ。ペンは指で、インクは──血液で。そうまでして書いた手紙には、誰かの元へ帰りたいという男の悲願が綴られていた。海賊だと、男は言った。その人に会って、世界の狭さに気付いたのだと。自分の夢なのだと。たった数分、言葉を交わしただけの男の言葉が酷く胸に残るのは、意味は違えどその言葉の意味が、痛いほど理解できるからだろうか。ああ、分かるよ。わたしも、帰りたい。そう思った時、この手紙を“彼の夢”に届けるべきだという使命が燃え上がった。そうとも、こんな異世界冒険譚には“目的”がつきもの。何より良いことをすれば元の世界に、元の生活に戻れる、というのが物語の定石だ。だから彼女は見知らぬ土地の湯屋で一生懸命働いたのだし、小さなホビットは指輪を棄てに行き、ロビンソン・クルーソーは28年の歳月をかけて本国へ戻ったのだ!

 知る人もなく、頼れるよすがもない。けれど、否、だからこそわたしには目的が必要だった。こんなどうしようもない、訳の分からない現実から目を逸らすための大いなる目的が。その目的に目を向けている間は、理不尽なリアルから逃げていいられる。そうやって逃げ回りながら目的を追いかけていけば、いつか脳が、身体が順応するかもしれない。思わぬラッキーが訪れるかもしれない。ひょんなことから家に帰れるかもしれない。

 ──行かなければ、と、誘うように波音を揺らす海を見る。手掛かりは手紙一つ。しかも読めない。だからどうした。わたしは進む。この先何があっても、何が起ころうとも。歩き続けることだけが、わたしを“現実”から守ってくれるのだと、信じて。











「……どうだ、見つかったか」

「だめだな。全員平等に、こんがりローストだ」

「ウエッ……地下もダメだ。ひでェことしやがるぜ」

「お頭ァ、ホントにこんな船に例のモノがあったんですか?」

「ああ、この海賊旗に間違いないんだ。いいか。全員、草の根をかき分けてでも探し出せ。

あの実は、この世にあってはいけねェシロモノだ」


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