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 なんかこう、車に轢かれそうになった猫を助けただとか、神様が目の前に現れただとか、或いは人生に絶望して高層マンションから身を投げただとか、出会いや物語の始まりってのはもっとこう、然るべき“きっかけ”があるべきだと思うわけで。

 別段、変わったことなどなかった。朝起きて、今日も仕事かと憂鬱な気分を一つ。シャワー浴びてご飯食べて身支度整えて、仕事用の大きなカバンにPC端末を放り込んで、先日購入したコードレスのイヤホン耳に突っ込んでお気に入りの歌をかければ、たちまち玄関もわたしだけのステージと化す。使い古したパンプスを引っ掛けて、ドアノブに手をかけて流れてくるメロディをそのままに口ずさんだ。

「“さあ、冒険に出かけよう”!」

 ただそれだけだったのに、ドアの向こうは、さざ波寄せて返す浜辺が広がってた。

 なんだ夢か。おいおい私は汽車に乗って湯沢に来た覚えはないぞ、ハハハ。目の前に広がるのは雪国でもおかしな湯屋でもなく、浜辺、そして太陽、そして海。デカァアアイ説明不要、と、ボケたところで鼻先を擽る潮の香りは夢とは思えないリアルがある。随分はっきりした夢だ、太陽を見上げれば眩しく、素肌を撫ぜる風は温かく、透き通るように綺麗な海から香る潮は穏やかで、ドカドカドカッと大地を蹴り上げる足音は鮮やかに、見ず知らずの男たちにぶん殴られた時はあまりの痛さに失神した。

 起きたら監獄だった。景観の移り変わりが夕刊の見出しより激しい。周りは真っ暗、わたしは檻というか鉄格子の付いた部屋に手錠をかけられ床に転がされていた。ついでに身ぐるみも剥がされてしまったのか、さながら砂漠で王の墓を作るために石を運ばされる奴隷のようなぼろきれを一枚纏ってるだけ。ヤダ、もうお嫁に行けない。周りには同じぼろを着て手錠をかけられたヒトが何人もいた。屈強な男もいれば見目麗しい女もいる。子どもはいるが老人はいない。みな、命の灯火を握り潰されたかのように虚ろな目で何を見るでもなく茫然と転がっている。というか既に命の灯火が消えてる方いませんか。

「もしもーし。死んでたら返事はしないでくださーい」

 返事はない。本当にしかばねのようだ。ヒトの死体なんて、遠い昔顔もおぼろげなヒイジイチャンだかヒイバアチャンだかの葬式に出て以来見たことも触れたこともなかった。実は死んだふりかもと皮膚に触れるも、こちらの体温を奪いかねないほどの冷たさ。ああ、うん。死んでる。そりゃあ、みんな生きる意志も失うはずだ。次は自分だと、諦めているのだ。

 それからどれくらい時間が経過したか分からない。何回も寝たし何回もお腹鳴ったし何回も部屋の隅の汚い壺でトイレしたし何回も周りの人に話しかけたけど、事態は進展しない。アララわたしもしかばねの仲間入りか、ヤダなあ、死にたくないなあ。そう思い始めた時、ガラの悪い男が大勢、どやどやとこの檻に降りてきたのだ。多分、わたしのことぶん殴って気絶させた奴らだろう。どいつもこいつも時代錯誤も通り越してパイレーツオブナントカでしか見たことないような、こう、水夫というか、賊というか、そんな恰好をしていて。男たちは檻の中に転がるわたしたちを一人一人見て、何か言い出した。

「あの金髪の女は良い値がつくぜ」

「おい、あの海賊死んじまってねえか」

「誰だよガキなんか攫ってきた奴」

「うるせェなあ、子どもの穴っつー穴を犯すあの快感が分からねえのかよ」

「ああ、ガキ相手ならてめェの粗末なモンでも満足させられるってな」

「ダッハッハッ、違ェねえ!」

 ヒーローが登場したら三秒で蹴散らされそうな、陳腐な悪者台詞がぽんぽん飛び交う。惜しむらくは当のヒーローがいないことぐらいか。すると散々馬鹿にされたロリだかペド野郎が、私を見て思い出したように頷いた。

「おい、あの女には悪魔の実食わせるんじゃねえのか」

 みんなその言葉に、ああ、と思い出したように頷いた。

「そういやそうだったな。頭領も勿体無ェことするもんだ」

「この『コトコトの実』の能力さえ分かりゃあなあ」

「名前からしてシチュー煮込むぐらいしかできねえだろうなァ」

「奴隷に食わすにゃ、高く付きすぎる気もするがな」

「つっても、こんなもんカナヅチ引き換えに食いたいなんて馬鹿はいねえよなあ」

「シチューだろうがカレーだろうが、どうでもいい。おれたちが欲しいのは、“ヒトの女”よりも“能力者”だ」

 そう言って、腕が十本あっても届かないような位置にある鍵束を取り、檻を開けてずかずか入ってくる屈強な男たち。檻は開いたが、とてもじゃないが逃げきれる気はしない。体育座りしたまま男たちを見上げると、男の一人がわたしの足元に果実っぽいものを放り投げた。

「食え。さもなくば死ね」

 デッドオアイートとは新しい。それどっから弾補充するんだ、と思ってしまうぐらい古臭い銃を眉間に突き付けられ、わたしはおずおずと果実に手を伸ばす。文字のように見えなくもない、マントラめいた模様がびっしり刻まれた柿っぽい果実だった。玩具にしか見えないが、食べられるのだろうか。ヘタの部分から半分に割ると、中身は思ってたよりもずっと柿っぽかった。イタダキマス、と一言言って一口口に運ぶ。しかしわたしもアホではない。劇物が混じってる可能性もなくはないので、果実は口に含むだけで、飲み込むことはしなかった。

 しかし、だ。

「げろまず」

 胃が引っくり返るとはこのことか。久々にありつけた食料はサルミアッキもかくやとばかりの劇物だった。誰だ空腹が最高のスパイスとか言ったの、胃も驚きのあまり逆流するかと思ったほどだぞ。舌の上に乗せられた、苦みとも渋みとも取れぬ味わいが強烈で、口を押えてのたうち回った。危うく飲み込んでしまうところだったが、なんとかそれだけは寸でのところで堪えた。男たちは他人事のようにげらげら笑ったのち、用は済んだと檻から出て鍵をかけた。

「心してろよ、てめェら。明日から天竜人のペットだとよ」

 虚ろな目をしてたみんなに、一瞬“気”が戻った。けれど、それはすぐに霧散した。先ほどよりも重く、冷たく、圧し掛かる空気が、その“てんりゅうびと”とやらの恐ろしさを垣間見た気がした。ていうかさっきから日本語で会話がされてんのに、やれ“のうりょくしゃ”だの“あくまのみ”だの、ファンタジー色強いワードがぽろぽろ出てきている。え、何なの。トンネルを抜けたら不思議の国の凪沙ってか。売れる気がしない。

 夢なら醒めてくれ、と思いながら、げろまず果実を吐き出す。あー、不味い。しかし、吐き出して思う。げろまずかろうが、ギリギリ食い物の範疇にあるはずだ、と。腹が減っては戦は出来ぬ。カナヅチになるだのシチューが作れるだの訳の分からないことを言われたが、先ほどの話を聞くに、毒ではないのだろうか。だったら食べてしまおうか、せっかくの食べ物だし。と、進まない気に鞭を打ちながら果実を持ち上げると、誰かがわたしのぼろきれをくいっと引いた。

「え?」

「た、頼む……それを一口、一口でいい、分けてくれないか……」

「いいけど、これ死ぬ気も失せるほどげろまずだよ、お兄さん」

「ああ、よく知ってる……大丈夫だ、構わない……」

 わたしのぼろきれを引っ張ったのは、骸骨に見まごうほどやせ細ったお兄さん。息も絶え絶えに物を乞うその姿に、流石のわたしも胸が痛んだ。仕方ない、旅は道連れで世は情けに溢れていると信じよう、そう考えてお兄さんに半分こにした謎の果実を差し出した。

「感謝する、若いの……」

「いえいえ。助け合っての世の中だし」

「ああ……此処を出たら、絶対に恩を返す……約束する……ハハ……おれさ、こんなでも海賊なんだ……金なら……敵戦からかっぱらっただけ……ある……」

「海賊がこんなところで奴隷ごっこしてていいの?」

 口寂しさからか、ついつい会話を続けてしまう。海賊だという男は、やせっぽちのガリガリで、海賊というよりはどこかの成金のボンボン、と言われた方がずっと納得できた。そんなわたしの考えを読んだのか、彼はひどく悲しそうに長い息を吐いた。

「ハッ……情けねえ話だけどよぉ、ついひと月前に海賊の仲間入りしたばっかなんだ……調子乗ってたら海に落ちちまって……そっから引き揚げられたと思ったら此処で……おれはよぉ、それまでは箱入りのボンクラでよ……金と酒と女がありゃあ世は事もなし、って思ってた……」

「へえ、心変わりしたんだ」

「ああ……あの人に会って、おれは自分の世界と器の狭さを知ったんだ……あの人ァおれの夢そのものだ……生ける伝説、歩く夢……──おれァ、あの人のところへ、帰りてェ……」

「帰れるよ、生きてればきっと」

「ありがとうな……あんたァ、優しい人だなあ……」

「当たり障りのない言葉言ってるだけだよ。別に──」

 普通だよ、そう続けようとした言葉は『ぐしゃあ』という生々しい音にかき消された。

 驚きで、口にした謎の果実をごくりと飲んでしまうほど。襲い掛かる二度目の不味さなど、びちゃっ、と頬にかかるそれに比べればなんてことのない衝撃。ぬらりと光るそれが、血液だと理解するまでに五秒。帰りたいと、語る男の四肢が地に落ちたザクロのように四散したと脳が処理をするのに、十秒。ぶわりと、吐き気がするほど噎せ返る血液の臭いは、女だろうが慣れることのない異臭。ちぎれた手足は壁や檻にぶつかって、壊れた人形のようにばらばらになった。

 意味は分からない。理由も分からない。名前の知らない男が一人、果実を口にしただけで弾け飛ぶ。周りもそれを咎めも攻めもせず、孔の空いたような瞳が煤けた天井を見上げるだけ。切実に、夢だったら醒めてほしい。

「マ、マジ……恨むわトラウマもんだよ兄さんコレェ……わたしスプラッター平気だけど、流石にこれはないわ……臓物出てないだけマシかなこれ……いやマジありえない……恨む……七代末まで呪ってやる……耳元で死んだ女の子を歌い続けてやる……全て焼け焦げろ……灰になれ……ウウ……マジありえない……」

 夢なら醒めてくれ。何度目になるか分からない祈りを捧ぐ。届かないことを知っていながら、祈りを捧げてしまうあたり、やっぱ人間って魂レベルで宗教が染みついてんのかなあ、なんて独り言はついに返ることはなかった。


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