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 夜の海を、船が進む。此処、モビー・ディック号は普段、夜も眠らぬ騒ぎがあちこちから湧き上がってくるが、今日は少しばかり違った。みな影を落としているかのように、何もかもが控えめだ。どこか大人しくなる男たちに、傷つけられたプライドがどれほどのものかを改めて知る。男は──不死鳥のマルコと呼ばれた一番隊隊長は、普段と打って変わって誰もいない船の甲板の上を一人歩く。静かな夜だった。風はなく、波は穏やかで、星は燦然と瞬いている。いつもの騒ぎの元凶たちは、軒並み借りてきた猫のように神妙にしているとくれば、これほど天体観測に向いた夜は、あと数年と訪れないだろうと、マルコはくつりと笑みが込み上げる。けれど、口角はどことなくぎこちなく、上手く笑えていないような気がした。そう、かの不死鳥のマルコでさえこの調子なのだ。他のクルーたちが気落ちするのも、無理はないというものだ。

 理由はただ一つ、今日の昼の出来事のせいである。

 赤髪のシャンクスがコトコトの実の能力者を連れてくる──船長であるエドワード・ニューゲートこと白ひげが宣言し、少なくとも16の隊を率いる隊長たちの間には緊張が走った。此処の隊長格は年齢層も高い、コトコトの実の能力者がもたらした厄災を知らないはずがない。

 曰く、その声は万物を破壊し、再生し、創造する。

 曰く、その声は何人をも意のままに支配する。

 曰く、その声は海原でさえ屈服させる──。

 嘘か真か、コトコトの実にはそれほどまでの噂が付いて回った。だが、その噂を裏付けるかのように、大地を穿ち、海原を干上がらせ、空さえ引き裂いた天変地異と、うず高く積み上がった死体の先には、必ずコトコトの実の能力者がいたという。最強とも、厄災とも、神の力とも言われたその実を巡って、多くの争いが勃発した。しかし最強であり厄災であり神とも称されたその能力は、この半世紀で多くの人間を渡り歩いたことでも有名だった。人の手に余る力は能力者の諍いと戦争と死を招き、その都度コトコトの実は能力者を喪い、そして時を待たずして世に蘇り続けたのだ。悪魔の実──幾度となく世界に降り立っては争乱の種をばらまいていくその姿は、なるほど、まさしく悪魔の名を冠するに相応しいと言えよう。

 コトコトの実を巡って死闘を繰り返したのは、何も海賊たちならず者だけではない。そんな危険な力を野放しにしてはならぬと、政府でさえ躍起になって探し、争い、奪い合った。そうして、コトコトの実が人類の手に余る力とようやく気付いた時には、彼らの破壊と暴虐の限りを尽した“言葉”が島7つを消し飛ばし、数千人の死者が出た後だった。そこで政府は、緘口令を敷き始め、悪魔の実の図鑑などに記載された情報は軒並みかき消され、政府は秘密裏にコトコトの実を血眼になって探す羽目になるのだった。そうして中途半端な情報統制の裏側で、コトコトの実は新たな能力者を選出していたのだ。そういう意味では、その能力者を拾ったのが、その能力者たちを幾度となく屠っている赤髪のシャンクスだったのは、ある種幸運だったのかもしれない。

 だが、なんだって赤髪のシャンクスがその能力者を連れてモビー・ディック号まで来るのか。聞いたところによれば、それには一人の白ひげ海賊団のクルーが関わっているという。確か13番隊の下っ端だったが、類を見ない大シケで行方不明になってしまった、家族の一員。この海に投げだされて生きてはいないと思っていたが、幸か不幸か、人攫いの船に捕まっていたらしい。だが、救う間もなく男は殺された。その真相に、コトコトの実の能力者が大きく関わっているようで。結果的に言えば、彼の死は事故のようなもの。ただ運が悪く、間が悪かった、それだけだった。加害者であるというコトコトの実の能力者だが、寧ろその遺志をこの船に運んでくれた功労者。感謝こそすれ、恨むようなことは一切なく。ただ、彼女の口にした悪魔の実はあまりに人を殺し過ぎていたから。だからこそ、赤髪たちの来訪を警戒していたというのに。

 勝負は一瞬。結果は惨敗。クルーは全員、海の中へ真っ逆さま。

 誰一人油断などしていなかった。天変さえ意のままに操る能力者が相手なのだ、当然だ。だというのに、誰も抗えなかった。親父ただ一人を除き、全員無様に海に叩き落された。情けない。天下の白ひげ海賊団の隊長たちがいて、揃いも揃ってこのザマとは。だが、それほどの能力だった。油断などしていなかった。しかし、気付けば海に居た。瞬きする間もなく、海の中に沈んでいた。隊長格は能力者も多い。この年になって海に叩き落されるなんてことそうあるはずもなく──海の上を滑るように走る船の上から、仄暗い海を見下ろす。

「グララララ、てめェまで落ち込んでるのか、マルコ」

「……まぁ、何も思うところがない、ってのは嘘になるよい」

 ちらりと振り返り、また海に目を落とすマルコ。背後には、白ひげが一人、悠然と立っていた。白ひげはマルコの横に腰を下ろし、お気に入りの酒をかっ喰らっている。

「どうだった。久方ぶりの海の味は」

 からかうように、白ひげが問う。知ってて聞いてくるのだから趣味が悪い。マルコは敢えて答えず、肩を竦めるだけ。その問いかけに対する回答は、『最悪』以外に持ち合わせてはいないからだ。いいはずもあるまい。この船の最終防衛ラインが、小娘一人のたった一言に呆気なく突破されてしまったのだ。おまけに能力者を海に叩き落し、無力化するという屈辱的な敗北。そう、これは敗北以外の何物でもなかった。自分たちは負けたのだ。世界で一番危険な能力を持った、どこにでもいそうな小娘一人に、だ。

 だが、マルコはその敗北を正面から受け止めていた。過去は、起こってしまったことは仕方ない。幸い、誰も怪我一つしていないのだ。次に活かす、それがマルコなりの敗戦処理だった。故にこそ、次にまみえた時の敵について、思案せざるをえなかったのだ。

「……なあ、オヤジ」

「何故、あの小娘を殺さなかった、か?」

 くだらねェ、と白ひげはもう一度酒を煽る。

「不死鳥のマルコともあろう男が、あんなどこにでもいるガキに何を戸惑う?」

「コトコトの実を食ったのが、そんなどこにでもいるガキだから、だよい」

 マルコは彼女を──ナギサを、正しく評価していた。彼女の本質は、どこにでもいる女だということを。戦いなど好まず、本来なら海に出ることもない、陸の女だと、見抜いていた。“ひとつなぎの大秘宝”だ海賊だと、そんなものに興味を示さない。今日生きて、親しい人が傍にいることを喜び、何でもないような、マルコにとって取るに足らないようなものを抱きしめながら生きていく、そんな慎ましやかな生が似合うような女だった。だからこそ、マルコには理解が出来ない。何故そんな女が、コトコトの実を食べて普通にしていられるのか。いいや、もっと言えば、コトコトの実を口にしながら、一度は死に臨んだ女の背中が、どうしても理解できなかった。

 何でも思いのままなのだ。かの白ひげ海賊団を蹴散らすことだって容易だと、その身を以て証明したはずだ。願いを一言口にすれば、何だって叶うのだ。それを理解していながら、何故あの女は白ひげに身を差し出した。世界を思いのままに書き換えられる力を何故、あっさりと捨てようとしたのか。大体、ただの女が白ひげレベルの覇気に耐えられていたのだっておかしいではないか。縄梯子も満足に登れないほどの華奢でひ弱でありながら、女はただの一度も白ひげに対して怯みもしなかったし、一歩と引かなかったし、迫りくる刃を前にただの一度の瞬きもしなかった。それに、死にに来たと言いながら、女の顔は晴れやかな笑顔のままだった。心の底から安堵しながら、目に涙を浮かべたまま女は綺麗に笑っていた。それが、マルコの心を騒ぎ立てる。それが、普通の女のやることか、と。普通の女が、そこまで出来るものなのか、と。

 故にこそ、マルコにはナギサが途方もない危険因子に見えてならないのだ。あの場で殺しておいた方が、世界の為だったのではないか、と。

「フン、考えすぎだな。アレは、そんな大層な女じゃない」

 マルコの考えを読んだように、白ひげは大仰にため息をつきながらそう口にした。

「だが、あの実を担うにこれ以上の適任もいるめェ」

 身に余る力のはずだ。けれど、考えれば考えるほど女の底のなさに脅威を感じるマルコに対し、白ひげは静かに断言した。女の器は、世界を揺るがす力を収めるに相応しいのだ、と。

 まるで、おあつらえ向きのような女だった。野望もなく野心もなく、大きな船を見上げては目を輝かせるような純朴さ。与えられた力に戸惑いながらも、女は女なりにその力を順応させた。長い生の中、あの能力者が『声を形にする』など、今まで見たことがなかった。女にとって、言葉とは“ただの文字”でしかなかったのだろう。例え一度間違いを犯したとして、その罪の重さに耐えきれなくなる程度には貧弱な精神力でありながら、二度と間違えまいと力をねじ伏せるようにして抑え込んだ強靭な意志の持ち主。

「マルコ。おめェ、悪魔の実に意思はあると思うか?」

「……オヤジは、実が女を選んだとでも言うのかよい」

 だが不思議と、マルコも同じような考えに至った。あれほどの適任者、偶然見つかったにしてはあまりに出来過ぎている。まるで実が、女を呼び寄せたとでも言った方が、いくらか納得が出来るほどだった。実の力を正しく理解しながらそれを行使することを良しとせず、一度はその力を屠ろうとまで考え、そうして身を寄せたのが赤髪の元だった、というのも、まるで実自身がそうなるよう仕向けたかのようなシナリオだった。

「まァ、“偉大なる航路”だからな。なんだってアリ[・・]だろ」

 ぐっと、瓶の中の酒を飲み切った白ひげが豪快に笑い飛ばす。現実的だの非現実的だの、この“偉大なる航路”じゃご法度だ。起こったことが全ての世界。なればこそ、悪魔の実が自身の使い手たる人間を招いたとて、何ら不思議ではない。女は実のお眼鏡にかない、今も赤髪の庇護下でぬくぬくと生きていく。女の底知れなさを思えば、マルコとて手放しで安堵できるような案件ではないにしろ、少しだけ胸の中に仕えていた何かが溶けていったように思えた。実に選ばれたんじゃどうしようもねェよい、と、もう一度肩をすくめてみせて。

 すると、その場にもう一つ大きな影が降りてきた。

「ゼハハハハ! 実に意思が宿るかァ、ロマンある話じゃねえか!」

 二番隊のティーチだ。見張り台から降りてきたところを見るに、交代の時間らしい。

「羨ましい話じゃねェか! おれも選ばれてみてえもんさ!」

「なんだ、ティーチ。そんなにコトコトの実を食いたかったのかよい」

「ん? あァ……ゼハハハハ、コトコトの実は、いいさ!」

 意外にも、ティーチは否定の言葉で返してきた。望みが何でも叶うような能力だ、白ひげほどの男ならともかく、普通何かしらやりたいことの一つや二つ、出てくるものとマルコは考えていた。

「ゼハハハハ、それじゃあつまらねェ・・・・・からな!」

 ティーチはそんなことを言いながら、樽のように膨れた腹をかきむしりながら船内へと消えていく。つまらない、そういうものか、とマルコは独り言つ。一声出せば、望みの叶う世界がどんなものなのか、マルコは知る由はない。ティーチはそれをつまらねェと一蹴したが、女はどう考えたか。

「確かに、何でもかんでも望みが叶うってのは、味気ねえもんだ」

「そうかァ? 存外、楽しそうだったじゃねえか」

 あれは、そういう女だぜ。白ひげはそう一言片付けて、ゆっくり立ち上がると、ティーチと同じように船内へ戻っていく。再び静寂の訪れた夜の海に、マルコはヘッと鼻で笑った。ウチの親父様には、頭が上がらねえな、と。この年になって慰められるなど、一番隊隊長にあるまじき失態だ。全く、それもこれもあの女の所為だ。この先、二度とお目にかかりたくないものだと思いながら、マルコも船内に戻っていく。きっと、オヤジが自分のように船員たちを激励して、船内はいつもの賑やかさを取り戻すのに、そう時間はかからないのだから──。


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