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 最近、シャンクスがおかしい、ような気がする。

 あれだ、陸の酒場で飲んだ時からだ。どうにもシャンクスが、ずっとこっちを見ているような気がするのである。デレオンと──なお、彼は酒場での出来事の九割を忘却していたので面倒なことにならずに済んだ──掃除している時も、ヤソップさんたちと釣りしてる時も、ベックマンさんたちと書庫の整理をしている時も、だ。何故なら、その視線に気づいてわたしが振り返った先には必ずシャンクスがいるからだ。ただ、隠れるでも誤魔化すでもなく、シャンクスはわたしが振り返ると必ず笑ってくる。ニコッというかニカッというか、あの太陽のような笑顔を浮かべてくるので、わたしもそれに倣って笑顔を返していた。それを見るとシャンクスは嬉しそうに去っていくのだ。そして、わたしが仕事に没頭してしばらく経つと、再びわたしを見にやってくるのである。クルーたちも「ああ、またやってるよ」みたいなにこやかな笑みでわたしたちを見守ってるみたいだし、ちょっと理解に苦しむ。

 デレオンもまた、その一人だった。

「嬉しいものですよ。僕は得たいものを得、信じたいものを信じられますから」

 小難しいことを言いながら、デレオンはにこりと微笑む。今日は二人で船底付近にある物置の整理を進めていた。敵船から頂戴したお宝なんかを格納しておく部屋らしいが、今は何もない。ただ人の出入りがないため埃っぽく、わたしもデレオンも雑巾片手にあちこちを拭き掃除していた。そんな中で、先ほどもシャンクスがわたしを見に来るもんだから、暇なら手伝えと思いつつ笑顔を浮かべると、やはり彼は満足げに頷いて去っていったのだ。

 まあ悪い気はしないし仕事の邪魔にならないからいいけど、とわたしは唇を尖らせながら雑巾をぎゅっと絞ったその時。カーンカーンカーンッ、という敵襲を知らせる警鐘が船底にまでも響き渡ってきた。

『敵襲ー!! 南南西に海軍の船! 全員、戦闘配置につけェー!!』

 敵襲、それはわたしがこの船に乗り込んでからも幾度となくあったが、海軍が襲ってくるのはこれが初めてだった。だが、特に心配もなかった。どうもシャンクスたちは鬼のように強いらしく、いつもわたしが掃除に精を出してる間に敵を追っ払ってしまうからだ。故に、わたしは彼らが武器を振るっているところさえ見たことがなかった。だから安心して、わたしは掃除を再開させるが、デレオンはそうもいかない。彼はそもそも、この船の戦闘員だからだ。

「海軍、ですか。普段は襲ってくることはないんですがね」

 なんで、とわたしは首を傾げる。だって海賊に海軍って、泥棒と警察みたいな関係じゃないの。そりゃ、シャンクスたちは普通の海賊みたいに、人を攫ったり、誰かをむやみに傷つけたりするような人たちではないけど。それでもジョリー・ロジャーを掲げている以上、いつ海軍に襲われても不思議ではないのでは……。

「お頭は……いえ、赤髪海賊団は特別なんです。ただ、今回に限っては四皇同士をぶつけたくないという、海軍の意図を感じますね」

 この世界の情勢をこれっぽっちも知らないわたしは、デレオンの言葉にどれほどの意味があるのか計り知れない。なんとなく分かったようなフリをして頷くと、デレオンは少しだけ寂しそうに笑った。

「しかし、これは喜ばしいことでもあるんですよ、ナギサ。連中が気を立てるほど、“彼の人”は近付いている証拠。君の旅路も、終着点が近いのでしょうが──今はいいでしょう。ナギサ、君はこの部屋で大人しくしていること、いいですね?」

 では、行ってきます、とデレオンは申し訳なさそうに、バケツに雑巾を突っ込んで部屋を後にする。海賊同士の力関係はよく分からないけど、わたしの本来の目的である、手紙を届けたい“あの人”に近付いている、ということらしい。一抹の寂しさは覚えるけど、本末転倒にするわけにもいかない。そうかあ、もうすぐなんだ、そんな漠然とした感想を抱きながら、とりあえず床を拭く手を止めない。“あの人”が近かろうが海軍が襲ってこようが、この部屋が汚いことには変わりない。わたしは粛々と、床掃除を続ける。すでに頭上の方からは砲台のドカンドカンと嘶く音と、敵味方入り乱れて大騒ぎする喧噪が地鳴りのように響いてくる。お、やってるやってる、と思いながら、明日の甲板掃除を思うと頭が痛くなった。シャンクスに、床を汚す戦いは止めろと進言するべきか……。

 その時だった。音もなく、ただの壁から人がすり抜けてきたのは。

「“だああああッ!?”」

 わたしの驚きを、誰が責められようか。此処は船底付近の物置。当然、この木の壁の向こうは海、海水で満たされている場所だ。なのに、そこから何の前触れもなく、男がにょっきりと現れたのだ。見たこともない、背の高い男。ただ、その背には『正義』と漢字で書かれた白いコートがはためいている。

「ヌケケケケ。こりゃあ意外だ。赤髪の船にも奴隷がいたとはなァ」

 正義の文字に不釣り合いな、不自然な笑い方。ニィ、と黄色い歯を見せながら卑しくもそんなことを言い出す男に、わたしは瞬時にこの男を敵と判断した。仮にも正義の文字を背負ってる以上これが海軍の制服なのだろうけど、こんな悪意むき出しの男が海軍だなんて信じられない。いや、そもそもただの人間が壁をすり抜けてくること自体がおかしいのだ。ただ、悲しいかな、声が具現化するわたしが何を言っても無駄な話。きっとこいつも、壁をすり抜けるという悪魔の実を口にしたのだ。

 しかし、そこまで冷静に分析したところで、何ができるというのだろう。こちとらおかしな“声”を持つただの一般人。誰か助けを呼ばなければ、そう思いながら雑巾を握り締めたまま後退るわたしに、奴はわたしの機嫌を取るような、下手くそな笑顔を浮かべた。

「ああ。驚くことァねえぜ、お嬢ちゃん。おれは海軍だ。お前さんみたいな哀れな子を助けるのが仕事ってな。ただ、それにあたって聞きたいことがいくつか──」

 男の言葉は、そこで途切れた。何故なら、わたしが叫んだ“声”が、時間差でドカドカドカッと男に降り注いできたからだ。質量を伴って男の頭上に降り注ぐ“声”は、いとも簡単に男を押し潰し、ぐらりとバランスを崩した。その隙にわたしは雑巾を握り締めたまま、ドアをバンッと蹴破るようにして逃げ出した。

 に、逃げなきゃ。せめて上へ。誰かが戦っている上のフロアに行かないと。けれど、そんなわたしの行動などお見通しなのか、階段へ向かうわたしの前に、どこからともなく海軍の男が生えてきたのだ。

「──ッ!?」

「おまえ、食ったな・・・・

 声を上げる暇もなく、いとも簡単にわたしは首根っこ掴まれ、傍の部屋に連れ込まれる。此処は食糧庫だ。樽や木箱に入った食材を押しのけ、どん、と壁に押し付けられ、口元を片手で覆われる。わたしは目を白黒させながら男を見上げた。そこには、欲に目をギラつかせ、激しい動悸と興奮に塗れたケモノような顔が、そこにあった。

食ったな・・・・食ったな・・・・! なるほどなァ、赤髪の船にこんなガキが乗り合わせたのも納得がいったぜ。ヌケケケケ!! やっぱりな!! 思った通りだ!! おれの仮説は正しかったんだ!! 二度あることァ三度あるってな!! センゴクめぇ、余計な人員割きやがって!! 最初からこうしてりゃよかったんだ!!」

 訳の分からないことを喚き散らす男に、本能的な恐怖を感じないわけがなかった。それは奇しくも、あの地獄のような日々を思い出すほどに。だって、人を人として見ないその眼には、嫌ってほど見覚えがあったから。

「ガキィ、お前が口にした実の価値を知ってっか? そいつァ政府が何十年と追いかけていた実なんだぜ? 世界を制するだけの力を持った、最強最悪の悪魔の実──こいつを持ち帰ったとなりゃァ、おれの出世コースは安泰間違いなしってな!!」

 ぞっとした。男の言っていることも勿論だが、その台詞を「正義」の文字を背負いながら言う人間がいることに、心底恐怖した。そりゃあ、わたしだって此処に来たときに一番最初に会ったのは悪人だ。世界のすべてが善人とは思わない。だけど、正義の味方ぐらいは、正義の味方だと思っていたのに。

 思わず、雑巾を握った拳を振り上げて男の顎に向かって振り上げた──が。

「オイオイ、おれの能力見てなかったのか?」

 わたしの拳は、男の顎をすり抜けて一閃するだけだった。めり込む、なんてレベルの話じゃない。わたしの腕が、男の顔に突き刺さったまま、まるで、何事もないかのように、男はただ、笑うだけで。

「おれァヌケヌケの実を食った能力者。自然[ロギア]と同じ、物理攻撃は全ておれの身体をすり抜ける! 銃弾も、刃も、てめえの拳もな! ヌケケケッ、おれに傷をつけられる者はいねえのさ!!」

 男は得意げに高らかに笑いあげる。片や一般人に片や海軍、完全にこの場を支配したのだと、こちらの恐怖を煽り、絶望させたいがための言葉だったのだろう。けれど、その言葉にわたしの恐怖は吹き飛び、一気に冷静にさせてくれたのは、何とも皮肉な話だ。

 だってそれは、嘘だ・・。だってお前は、わたしの“声”を思いっきり浴びていた。物理的に降り注ぐその声を、お前は食らって倒れていたじゃないか、もし、仮に──わたしの想像通りだとしたら、わたしはこの場を、自力で切り抜けられるかもしれない。いや、そんな危険は冒すべきではないのか。大人しく、シャンクスたちの助けを待つべきなのか。いいや、今この場で助けが来るとも限らない。わたしの選べる選択肢は、決して多くない。だからこそ、最善かつ最良の判断が必要なのだ。

 だからわたしは、口を覆う奴の指に思いっきり犬歯を突き立て、噛み抜いたのだ!

「ウッ、グ──!!」

 ずぶり、と口の中一杯に広がる血の味。男の拘束が緩み、わたしはすぐに果物がたくさん詰まった樽の方へと転がるように身を隠す。ああ、やっぱりだ。この男、すり抜けられるものを“選別”しているのだ。だから不意打ちとばりに降り注いだわたしの“声”を避けられなかったし、わたしを拘束している腕と指はすり抜けないようにしていたのだ。そうでなきゃ、実態のあるわたしを拘束するなどできはしない。

「こンの、クソガキ──人が大人しくしてりゃいい気になりやがってッ!!」

 案の定、男は怒り狂って地団太を踏んでる。そりゃ、そのご立派な能力を持ちながら小娘一人にしてやられてさぞご不満だろう。わたしは少しずつ奴と距離を取るように隠れながら、ある物がある場所へと逃げていく。そしてわたしは、それを見つけて手にした。それは、木箱を開ける用の小さなナイフだった。ナイフを手にすると、わたしはすぐに木箱の傍に転がってるライムを手に取り、ライムを絞って雑巾に染みこませ、雑巾でナイフを磨く。

 いけるのか、いいや、きっといける。そうじゃなきゃ、やってられない。どうせわたしじゃ、この程度でしか時間稼ぎは出来ない。だったら、どれほど醜くとも、どれほど悪辣でも、やれるだけのことはしたい。

「ヌケケケッ、まさかお前、おれとやろうってのか?」

 奴とわたし、彼我の距離五メートル。この間に樽や木箱などの障害物はない。左手に雑巾、右手にナイフを構えるわたしは、戦いのプロであろう奴から見たらなんと間抜けな格好に見えるだろう。けど、これがわたしの精一杯。他の選択肢を選ぶ、という道は最初からありはしないのだから。

 不審がられる前に、わたしは自分の全速力で奴に向かって駆け出す。慣れない手つきでナイフを振りかざし、迫るわたしを奴が逃げることはない。素人の動きに、きっと舐め切っているのだろう。それでいい。わたしはすぐに、ナイフを下に構え直すと、左手に持っていた雑巾を奴の顔面にぶん投げたのだ。

「馬鹿め! おれの能力を忘れ──」
 
 べしゃっ、と、効果音がつくならそんな音だろうか。何でもすり抜けられるはずの男は、その雑巾一枚通過させることが出来ず、顔面でキャッチしていた。その一瞬の、ほんの一瞬の隙を、私は見逃さない。男の太もも目掛けて振り下ろしたナイフもまた、通過することなく肉を切り裂いた。

「アアアアアァア゛ア゛ア゛ア゛──ッ!!」

 男の断末魔、ばたばたっ、と滴る血を最後まで見届けず、わたしは食糧庫を飛び出した。うまくいった、思った通りだ。あの雑巾には、あるものが付着していた。そう、お掃除のお供でお馴染みの重曹である。通称、炭酸水素ナトリウムNAHCO3。ライムに含まれる酢酸、CH3COOHと組み合わせれば、程度はどうであれ水と二酸化炭素、そして酢酸ナトリウムが生成される、はず。水、そして塩──と判定していいかは微妙なラインだけど──その二つのパーツが揃えば、海に呪われた肉体がその能力を失わせると咄嗟の判断が功を成した。ナイフも雑巾も、奴の身体をすり抜けることなくダメージを負わせた。どうやら、塩基と水ならなんでもいいようである。

 上手くいったと──そう、思ったのは廊下に出た瞬間までだった。すぐにわたしは、何者かに背中から押し倒された。ドンッ、と胃と肺が圧迫されるような重みに、わたしは無様に咳き込んだ。

「クソが、クソが、クソが、このおれに傷つけやがって、クソが──!!」

 不味い。身動き取れないように足を刺したってのに、この程度じゃ足止めにもならないなんて計算外だ。海軍の男はフーフーと殺気立ちながら、わたしに背中から馬乗りになっているようだった。

「殺してやる、殺してやるこのクソガキ、ぶっ殺してやる!!」

 呪詛のように殺意をまき散らし、ずぼり、と自分の太ももに突き立てられたナイフを引き抜いた。思わず、自分の喉元に手を当てる。けれど、すぐにやめた。わたしはもう、同じ轍は踏まない。そう決めた。あの地獄を思い出す。消失した人の気配、焼失した死の香り、それを思い起こすだけで、わたしの喉から言葉が出ることはなく。ならばこれがわたしの終わりならそれもまた人生と、目を閉じた。

 その時。

「ッ!?」

 わたしに馬乗りになっていた男が、びくんと大きく痙攣し出したのが背中越しに分かった。男はそのままばたりと倒れ込み、わたしは訳も分からず男の股下から這い出る。男は泡を吹きながら、白目向いて気絶していた。一体何がと思った時、わたしは男の背後に赤を纏う運命を見た。

「──ナギサ」

 シャンクスだった。あの大きな剣を右手に、ゆっくりとこちらに歩いてくるところだった。空気は震え、木の壁がミシミシと軋んでいるかのような、息の詰まるような殺気が、そこにあった。その目は獅子のように鋭く、わたしを叱りつけたあの日を思い出す。けれど、今は不思議と怖くなかった。だって彼がわたしに危害を加えるなど、万一にありえない。

「大丈夫か」

 尋ねる声は、低く、重い。わたしはにっこり笑って、親指を突き上げて見せた。それでシャンクスの表情は晴れなかった。けれど、倒れ込む男の足の出血と握られた小さなナイフを見て、そうか、と一言答え、剣を鞘に戻すと、右腕だけでわたしを抱き上げた。あっという間に視界はシャンクスよりも高くなり、床に転がる男が、随分チンケに見えて。

「こんな奴でも、お前は生かすのか」

 シャンクスの目は、真剣だ。どうやら、シャンクスにはお見通しみたいだ。そうだよと、わたしは彼の頭を包み込むように抱き締めた。

 ねえ、シャンクス。人を殺すのはとっても簡単なことだよ。だって人は、呆気なく死んでいく。例え何もしなくたって死んでいく命を、わざわざ摘み取るのも無粋だと思うんだ。それにわたしは、もう誰かが目の前で死ぬところを見たくない。それが敵であれ味方であれ、わたしは殺さなくてもいい命なら殺したくないし、生きていけるのなら生きていた方がいいと、思ってしまうんだ。

「お前が助けた命だ、お前の意向には沿うさ」

 ありがとう、その意を込めてもう一度彼を抱きしめた。それからあっという間に海軍の男はクルーたちに樽詰めされ、海軍の船に放り返されたのを甲板に出て見送る。どうやらあの男は物をすり抜ける能力で小型の潜水艇から敵船に潜り込み、内部から暴れ回ることで海軍中佐の地位まで上り詰めたのだという。上で戦っていたのは全て囮、それでシャンクスの到着も遅れたのだという。わたしを抱き上げたまま悪かったと謝るシャンクスに、気にしないでと微笑んで見せる。

 わたしはこの通り、ちゃんと生きている。

「……あんまり、心配させるな」

 それはごめんて、と、わたしは笑う。シャンクスも、少し困ったように笑う。おれが手放さなきゃいい話か、とぽつりと呟かれたその一言が嬉しく、わたしはもう一度ぎゅっと彼の頭を抱きしめる。彼の与えてくれる言葉全てが、わたしの胸の中で燦然と輝いていくような気がして。

「よく頑張ったな、ナギサ」

 そんな言葉さえ子どものように喜んでしまうほどに、彼が好きだった。

 故に──審判は間近だと思うと、胸が少しだけ痛んだ。





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※夢主は酢酸ナトリウム=塩判定されたと思ってますが
実際、ヌケヌケの実は「水に濡れたもの」はすり抜けられなかった、
という体でお願いします。


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