10

 わたしが海に落ちてから数日経った。けれど、何も変わりはない。毎日掃除して、悪戯されて、お酒飲んで、歌って笑って騒いで、ただ船が進むだけ。わたしも、シャンクスも、デレオンも、みんなみんな変わらない。とはいえ、だ。自分の身に何が起こってるのか、知らなすぎるのも問題と気付いたわたしは、とりあえず『能力者』について調べることにした。人に聞くのが一番早いんだろうけれど、無知を晒しすぎても怪しすぎると踏んだわたしは、苦手な英語をフィーリングでもいいから読み取るため、船の書庫へ入り込んだのだ。船底から一番遠い位置に、その部屋はある。ベックマンさんたちが出入りしているためか、多少埃っぽくとも、部屋は整理されていた。少なくとも、下っ端たちの雑魚寝部屋に比べれば床の木目が見えるだけマシというものだ。わたしが船に乗り込んでからは定期的に掃除しているので、ベックマンさんの部屋の次に綺麗な部屋といっていい。

 部屋は静かだ。此処は人の出入りが少ない。就学率はあまり高くないらしいこの世界は、文字が読めない人も珍しくないらしい。半面、航海士や船医、植物学者など、頭を使う仕事の人たちはよくこの部屋に現れるけど、今日はしいんとしている。ちょうどいい、わたしは密かに目を付けていた、A1サイズほどある大きな辞書を引っ張り出す。表紙は英語だが、ギリギリ意味は分かる。これは『悪魔の実の図鑑』だ。静かな書庫で、床に座って図鑑を開く。悪魔の実とは何なのか、から、実の外見、食べたらどうなるのかまで、詳細に書いてあるページが多い。というのも、何も書いてないページも少なからずあるのだ。そういう物は、実の名前だけ記され、効果や外観については「?」と印字されただけ。ただ詳しく描かれている実は、弱点から出来ることまで、事細かまで描かれていたのには驚いた。ガスガスの実やニキュニキュの実、グラグラの実などは能力者の名前と手配書のような写真まで掲載されている。中には写真にバツマークがついている人もいたので、この図鑑の歴史──いや、悪魔の実の歴史は中々に古いものらしい。

 そうやって、英語苦手なりに概要ページを読み進めて、分かったことがいくつかある。一つ、シャンクスから聞いた通り、悪魔の実を食べると海に呪われ、二度と泳げなくなる。海の悪魔の化身という二つ名に違わず、海、川、湖問わず、水に浸かるだけで能力は“能動的”に発動できなくなる。治療の方法はなく、中には死んでから効力を発動させる悪魔の実もあるんだとか。一つ、実は世界に一つだけ。同じ能力は二つと存在せず、能力者が死ぬと、その能力を司る悪魔の実は、世界の何処かに生まれ落ちること。一つ、実は数え切れないほどあるが、効力がよく分からないものの方が多いこと。実は大きく分けて3種類、動物の力を宿し、その姿に近付く《動物》系、自然の力を宿し、火や風など自然そのものに姿を変化させられる《自然》系、そしてそれらのどちらにも属さないが、超人的な能力を得る《超人》系。恐らく、わたしが食べた実は《動物》系でも《自然》系でもなさそうだし、《超人》系だろう。だからどうした訳ではないけれど、わたしが食べた実──コトコトの実、その名前は不思議とよく覚えていた。とにかく、コトコトの実のページには、名前以外の何も記載されていなかったので、この図鑑に書き込める情報が一つ増えたなと、思ったのだ。それくらい、コトコトの実のページには何も書いてないのだ。実の外観も効果も種類さえ、「No Data」としか書かれていなくて。一体誰が書いてるんだろう。編集者がいるはずだけど、彼らはこの広い海から情報を集めているのだろうか。というか、誰が出版してるんだろうこれ。

 読んだ限り、水辺に気を付けていれば日常生活を送る上で困ることはなさそうだ。「caution」とかドクロマークとか、何かそんな注意喚起を促すページはないかと探すも、それらしき文言は見つからない。そうやって図鑑ページを読み飛ばし、あとがきのような下りまで来た時、気になる綴りを見つけた。『複数の悪魔の実を食べた時』という、コラムだ。

「え──」

『『『島だァーッ!!』』』

 ぞわりと悪寒走った瞬間だ、背後のドアが突然開いたかと思えば、下っ端海賊たちが列をなして押し寄せてくるもんだから、わたしは慌てて図鑑を棚に戻した。彼らはわたしが掃除していたと思い込んでいるのか、いつものようにニコニコ笑顔でわたしの腕をぐいぐい引っ張る。

「喜べ、ナギサ。島だ、新しい島だ!」

「ナギサと出会って、初めての上陸だ!」

「冒険だ!」

「探索だ!」

「宝探しだ!」

 矢継ぎ早にあれこれ言われながら、彼らにわたしは引きずられるようにメインデッキへと連れ出され、太陽いっぱい降り注ぐ甲板へと連れ出された。外ではほとんどのクルーたちが、船から身を乗り出すようにして一定方向を見つめている。その中には、黒マントと綺麗な赤髪もあった。

「よう、ナギサ! 見てみろ、島だ!」

 そう言いながら、シャンクスはわたしに単眼鏡を投げて寄越すもんだから、取り落としそうになるところをなんとかキャッチし、船首の方へ行って単眼鏡を覗き込む。みんなと同じ方向に目を向ければ、確かにぼんやりと緑の影が見える。

 これは書庫の本をパラパラ捲ってて気づいたのだが、この世界には“世界地図”という概念がない。一部の地方、一部の区域の海図ぐらいはあれど、世界全体を記したものはない。つまり、この世界はまだ未開の地が多く存在するということ。それはなんだか、RPGの中にいるような感覚。見知らぬ土地、未知の国、そんなものが当たり前のように存在する世界なのだ。なるほど、夢に冒険にお宝に、心躍らせる人々がいるはずだ。今まではそんな他人事のように思っていたけれど、いざ自分がその未開の地に足を踏み入れるとなった今、彼らの気持ちが分かるような気がしてくるのだから、いよいよわたしは社畜よりも海賊向きの性質なのかもしれない。

 船はみるみるうちに島に近付き、あっという間に浜辺についた。ぱっと見、あまり大きな島ではないように思える。船で島をぐるりと回ったが数分と経たずに一周できた。船をつけるような桟橋などはなく、浜辺と崖があるだけ。緑が生い茂り、いかにも、という感じで、人が住み着いている気配はない。みんな無人島だお宝だと、騒ぐ中、斥候とばかりに何人かが小舟を出して、島の様子を見に行く。

「楽しそうだな、ナギサ」

 シャンクスにそう言われ、そうかな、と首を傾げた。確かに、心躍る。こんな、ほんと、ゲームみたいな経験ができるなんて。信じられないのが半分、楽しみにしてた映画をようやく見れる気持ちが半分って感じ。でも、それが顔に出てるとは思わなかった。

「フ、肝座ってんな」

「全くです。ヘタな海賊より、ずっと海賊らしい」

 後ろから、ベックマンさんとデレオンがそんな茶々を入れてくる。やだなあそんな褒めなくても。褒めてんのかは知らないけど、なんてセルフツッコミしていると、小舟の斥候隊がなんとも言えない顔で帰ってきた。

「お頭ァ、この島なんか変ですぜ」

「おいおい。此処は“偉大なる航路”だぜ。今更そんなこと言いっこなしだろ」

「そりゃそうなんですが……この島、上陸できねえんです」

 みんなして船から身を乗り出しながら彼の話を聞いて、「ハア?」と声を上げた。当の本人も、何を言ってるか分からないとばかりに呆けた顔をしてるもんだから、論より証拠とばかりに、みんなで小舟を出して島へ向かうことになった。

「ナギサ、こっちだ」

 シャンクスに手招かれるまま、デレオンと一緒に小ぶりの船に乗り込んで、オールを漕いで島へ近づいていき──そしてわたしたちは早々に、その言葉の意味を知ることになる。

「島、だよなァ」

「島で陸で、土ですね」

「島で陸で土なら、おれたちゃその上を歩けるはずだな」

「島で陸で土だから、当然ですね」

「だったら、なんでこの船は土の上を進むんだ?」

 海があり、人が上がれそうな浜辺があり、そこまでオールを漕いだ。それまではいい。けれど、漕いでも漕いでも船が陸に乗り上げない。そうこうしているうちに浜辺に船が突き進み、船底が何かにぶつかることなく、船はそのまま浜辺を泳いでいくのだ。浜辺を通り過ぎたら土と緑生い茂る森が見えたけど、やっぱり船は進むし、オールは土に沈むし、漕ぐ手は水をかき分けている時と何ら変わらぬ重さ。なんか、視覚と現実が追いつかず、ぽかんとしたままそれでもオールを漕いでいく。

「なるほど、これじゃあ“上陸”できねェな」

 シャンクスはカラカラ笑いながら、特に気にした様子もなく辺りを見回している。流石一国、いや一船のお頭、この程度では狼狽えることはないらしい。わたしはオールを漕ぐのをデレオンに任せ、船からちょこんと顔を出す。船が滑っている表面は、どう見ても土である。落ち葉や小石が転がり、苔や雑草が生い茂るような、いたって普通の獣道。腕まくりをして、思い切って片腕を土に突っ込んでみた。土は易々と腕を飲み込み、そのまま船は進んでいく。痛みはない。本当に、水の中に腕を突っ込んでいるかのような、あの浮遊感漂う感覚だけが手を伝う。土から手を引き抜くと、土だらけの腕がこんにちはした。

「水、ってワケでもなさそうだな」

「水ならナギサにも影響があるはずですからね。でも、何ともないようだ」

 うん、とわたしは頷いてもう一回土に手を突っ込んでみる。水に浸されたような、あの脱力感はない。変わりに腕は土だらけになる。ぽんぽんと払ってみるも、やっぱり普通の土だ。今度は腕じゃなく、手で土を掬ってみる。ただの土だが、水というか液体のような流動体のようだ。だが泥水、というわけでもなく、いたって普通の乾いた土なのだ。

 しばらく、何艘もの小舟が土の上を進んでいく。辺りはよくある森なのに、土の上を船が行くというおかしな光景が広がるが、それ以外は何もおかしなところはない。ところどころの木々に小動物がいたり、鳥が羽を休めていたり、木陰が風にそよいでいたりと、至って普通だ。敢えて言うなら、この土の上に生物らしい生物の姿はない、ぐらいか。

「お!」

「あ」

 しばらく進むと、大きな湖が見えた。島の真ん中に穴が空いたように、ぽっかりと浮かぶ湖の様は、さながらドーナッツのよう。だが、迷わず進む。当然だ、今乗ってるのは船だ。土の上が進めて、湖の上が進めないわけがないとみんなオールを漕ぐ手を止めずに進めていると──。

 船底が湖に接触した瞬間、ゴツンゴツンと玉突き事故を起こしたのだ。

「ぎゃあ!」

「うわあ!」

「どえっ!」

「“ええっ”!?」

 湖を進むはずの船は壁にぶつかったかのように進みが止まり、止まった船に後ろから来た船がぶつかり、更にその後ろから、と船がゴツゴツとぶつかり合い、先頭の船に乗ってたクルーたちはその勢いのまま湖に投げ出された──と、思ったら。彼らはまるで、スケートリンクに飛び込んだかのように、水面下に沈むことなく湖の上ですっ転んだのだ。勿論、わたしの間の抜けた“声”も、何故か水面をついーっと滑っていくだけ。

「アレ?」

「はあ?」

 彼らは、湖の上に立っていた。ただ、湖は凍っているわけではないようで、彼らは不思議そうな顔で水を掬っている。土の上では沈み、湖の上では立てる。何のことやらとシャンクスに視線をやるも、ヘェー、不思議なこともあるもんだとシャンクスはウキウキした様子で船を降りて湖の上を歩きに行ってしまった。不用心にも程があるのでは。

「おい、みんな来てみろ! よく分からねェが、湖の上を歩けるぞ!」

 そんなことを言うもんだから、オッサンの皮を被った小学二年生たちは嬉々として船を飛び降りて湖の上を歩いたり、掬える水を掛け合ったりと、あっという間にお祭り騒ぎに。いやよく分かんないんだったらもうちょっと注意をだね、と呆れて物も言えない。なのに。

「ナギサ! ホラ、こっちだ!」

 そうやって、シャンクスが手を差し伸べるから。わたしも、まあいっか、なんてお気楽なこと考えて、その手を取ってしまうのだ。とはいえ、ついこの間、海で溺れた上に一生カナヅチだと思い知ったばかりなもんで、シャンクスに手を引かれるまま湖の上を歩こうとするも、ほとんどシャンクスの右手にぶら下がったままになってしまう。

 けれど、覚束ない足が湖に沈むことはない。感覚としては、こう、トランポリンの上を歩いているかのような感じ。大地のようなしっかりとした感触はなく、浮いてるような、跳んでいるような、とでも言えばいいのか。ただ、下を見れば透き通った青が深々と広がっていて──。

「怖ェか?」

 上から、シャンクスの声が降りてくる。ううん、と首を振る。不思議と、青に対する恐怖はなかった。理由は単純だ。此処にシャンクスがいる。わたしを青の底から引き上げてくれた、赤が在る。それを自覚するだけで、少しずつ、シャンクスの腕にぶら下がる力を緩め、少しずつ自分の足に力を入れる。

「やっぱ度胸あるなァ、ナギサ」
 
 シャンクスが、楽しそうに笑う。わたしも、釣られて笑ってしまう。男女が二人、手を繋いで湖の上を歩く。ロマンがあると言えば、随分とそれらしい光景なのではないだろうか。ただ、演じるのがシャンクスとわたしってのが、なんとも笑える。こんなにファンタジックな演出も、恋人ではなく親子みたいな間柄だと、途端にロマンもへったくれもなくなる。

 けれど、おひさまに照らされる赤の髪が、胸が締め付けられるほどまぶしく見えて。

「お、どうした。なんかあったか?」

 おひさまに似合う、パアッとした笑顔が、わたしを迎える。少し言葉を詰まらせ、なんでも、と、そっぽ向く。すると視線の先に、船医やデレオン、ベックマンさんという冷静かつ知識人たちが湖に顔を近づけて何かを念入りに調べているのが見えた。わたしはシャンクスの手をぱっと放し、そちらへと駆けていく。

「なるほどな、こいつが犯人か」

 船医が湖の底を観察しながら、フムフムと頷いた。わたしが近づいてみると、みんなが場所を少し開けてくれた。見てごらん、というデレオンの声に導かれるまま湖の底を見つめれば、宝石のように煌く何かが見えた。

「アルキメン・コーラル、サンゴの一種だな。ホラ、宝石のように綺麗だろう? こいつは別名“生ける宝石”とも呼ばれて、こうして水の周りの密度を狂わせることで身を守り、乱獲されないようにしてる。まあ、こいつがある海域は決まって密度がおかしくなるから、逆に見つかりやすくなっちまった、ってのは何とも皮肉な話だがな。しかし、こんな島の湖でお目にかかれるなんてな……アルキメン・コーラルからは自律神経の乱れを抑える成分が採れるんだ。中々お目にかかれねェ珍しい植物だからな、なるべくなら多めに確保しておきたいところだが……」

「よーし、不思議湖発見を記念して宴だァー! 酒持ってこーい!」

「あんたおれの話半分も聞いてねえだろ……」

 ありがたーいせっかくの船医の解説も、シャンクスの宴の一声でかき消されてしまう。デレオンと共に、縮こまる彼の背を慰めるように叩いた。



***



 あっという間に日も暮れ、船から食料や酒を持ちだし、湖の上で宴が開かれた。夜の湖は、それは見事な光景だった。余計な光源が一切ない分、この世界はプラネタリウムもかくやとばかりに星が良く見える。そんな星天が湖に反射するんだから、天と大地の境目がなくなってしまったかのような満天が眼前に広がった。どんなリアリストも、目の前の夢のような光景には開いた口も塞がらないことだろう。筆舌尽くしがたいとはまさにこのこと、どんな美辞麗句を並べても表現できないほど、すばらしい景色だったのだ。

 お酒も食事もそこそこに、この素晴らしい景色を目に焼きつけようと、船から寝袋やら毛布やらを引っ張り出し、湖の上で雑魚寝することになる。星空の布団で満天の天井を見上げながら眠るなんて、こんな贅沢他にあるだろうか。

「それで、あっちの星はシューレット。少し下の紅い星と繋いで、ラパスの第四角形と呼ばれます。初夏に見られることから、『夏の訪れ』なんて異名を持ちます。で、シューレットよりも北に浮かぶのが、スフェラ。シューレットは夏島に生息するフクロウで、スフェラはそれを狩ろうとする弾丸、なんて逸話が語り継がれていたりします」

 隣で眠るデレオンの星の解説は、聞けば聞くほどわたしの知る星座とは程遠く。それでも星に逸話をなぞらえるのはどこの世界も一緒なのか、いろんな話がぽんぽんと出てくる。なお、オッサンたちはこんな素敵な星空を堪能するという感性は睡眠欲に敗北を喫したようで、早々にいびきをかきはじめていたのだった。

 デレオンの話は飽きることなく、デレオン自身もうんちくを聞いてくれる相手がいて嬉しいのか、ぽんぽんと会話が飛び出してくる。顔に似合う、星だ花だという洒落た趣味をお持ちらしいデレオンの話は尽きることはなかった。

「……君は純真ですね、ナギサ」

 星空中の星の話を仕切ったのではないかと思うほど話し込んだ後、デレオンは眠気交じりの声でそんなことを言い出した。ちらりと横を見るも、デレオンは既に瞼を閉じて、眠る体勢に入っていた。

「何でも吸収して、何でも、飲み込む……君の目に、世界はどれほど美しく映るのか……」

 別に、特別な感性など何一つ持ち合わせてないけどなあ、とわたしも同じように目を閉じる。だってこの世界は、わたしが何を持ち合わせなくとも、こんなにきれいで、夢に満ちて、尊く輝いている。きれいだ、ただそれだけを強く思う。海も大地も星さえも、こんなにも眩くて、遠いのだ。すでに世界の果てを暴いた時代を生きた人間なら、誰しも同じことを思うだろうに。

「いいや……きみは、特別です……だから、あの実は──……」

 すっと、言葉が不自然に途切れる。横を見ると、デレオンはその美しい顔をそのままに静かに寝息を立てていた。イケメンは寝入る姿も美しいとは恐れ入る。反対で大いびきかいて寝返り打ちまくってるシャンクスも少しは見習えと思いつつ、わたしも世界で一番贅沢な寝台で眠りにつくのだった。


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