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「ナギサ、温まってきなさい。けど、湯舟には浸かってはいけない、いいですね?」

 少しだけ悲しそうに笑い、デレオンは全身海水臭くなったわたしを船長室のシャワールームに押し込んだ。まだ混乱残る思考をぶら下げながら、海水を吸って重くなった服を引き剥すように脱いで洗い流す。湯舟には浸からない。長湯は好きじゃないのだ。だからいつも、シャワーで事を済ませていた。けれど、今日はなんだか体の芯まで冷えてしまったかのように、震えが止まらない。お湯を張りたいなあと思ったのに、先に釘を刺されてしまったのでは仕方がない。理由は分かってる。きっと、お湯も海も、だめなのだ。わたしの身体はもう、水分の塊を受け入れることが出来ないのだろう。

 心当たりはある。けれど、普段長湯しないし、海に落ちたのもこれがはじめてだから、すっかり忘れていたのだ。あの日、地獄のような場所で押し付けられた奇妙な果実。能力と引き換えにカナヅチになるなんて、どんな理屈で説明できるというのだろう。けれど、今更常識なんて持ち出しても無意味なことはわたしが一番よく知っていた。だからわたしは、“そういうもの”として受け入れるしかないのだ。この“声”も、この“身体”も、この──。

 すると、コンコンと、シャワールームの戸が軽く叩かれた。

「タオルと着替えは置いておきますよ」

 デレオンのくぐもった声が、扉越しに響く。いけないいけない、あまり長々シャワーを浴びていては心配かけてしまう。ただでさえ、海の上では真水が貴重なのだ、無駄にはできないと、わたしは早々にシャワーを切り上げて、デレオンが用意してくれたふかふかのタオルにくるまって、着替えを身に着けて、シャワールームを後にする。

 船長室にはデレオンが一人、ベッドサイドのチェアに腰を掛けていた。手に、大きな貝殻が二つくっついた、ドライヤーのような、そうでないような、形容しがたい道具を持っている。

「おいで。髪、乾かしてあげます」

 数多の女性の胸をときめかせるような優しい笑み。けれど、どこか哀愁を帯びているような、寂しい色をしているのは、どうしてだろうか。調子、狂うなあ。だから、何かとお節介で甘やかしてくれるデレオンに、いつもなら鼻で笑うところなのに、今日は素直に言うことを聞いてしまう。いつも眠るベッドに腰を下ろし、デレオンに背を向ける。カチカチ、と背後からスイッチを入れるような音と共に、ブオッ、という温風が首元を撫ぜた。

「これは風貝[ブレスダイアル]炎貝[フレイムダイアル]を組み合わせた、髪乾かし装置です。空島からの戦利品らしいですが、僕も詳しいことは知りません。便利な道具、それだけ分かってれば十分です。ホラ、髪を乾かさずに寝ると、キューティクルに傷がつくでしょう? ただでさえ海風は髪に悪いから、どうにかならないかって、手先の器用な仲間に相談したら、僕のために作ってくれたんです」

 ダイアル、空島、不思議な言葉がいっぱいだ。手にしている装置は恐らくドライヤーに準ずるものだろうに、この世界ではそれが一般的じゃないんだ。変なのと、くすりと笑えば、デレオンは気をよくして鼻歌を歌いだした。

「本当は僕専用なんですが、君は特別。いつも船の掃除を頑張ってくれているナギサへの、ご褒美です。ありがたく受け取ってくれたまえ」

 お茶らけてんのか、本気なのか、そのダイヤルドライヤーをわたしの髪に宛がいながら、デレオンは歌うようにそんな言葉を口にする。まあでも、ただでさえ寒いのに、頭乾かさずに寝たらそれこそ風邪を引いてしまう。此処は素直に、デレオンの優しさに甘んじることにする。そうでなくとも、彼は決して、わたしの髪に触れないようにしてくれているのだから。

「うん、もう大丈夫です。あとは髪を梳いて、ベッドで横になっていなさい」

 ええ、とわたしは口をへの字に曲げる。窓の外はまだ明るい。とても眠れるような時間じゃない。それに、眠たくない。眠りたくないのだ。思わず彼の服の裾を引っ張るも、デレオンは、まるでおいたをした子どもを見るような目でわたしを見据えた。

「無理に眠る必要はないんです。横になっているだけでいい。毛布にくるまって、あったまって、少しずつでいいんですよ。ナギサ、寒いんでしょう?」

 寒い、うん、それは確かだった。お風呂に入って、髪乾かして、言われるがままにベッドに押し込まれて毛布を被せられたというのに、寒いのだ。どうしようもなく、身体の震えが止まらないんだ。

「……仕方ない。ドクターには最終手段、って言われたんですがね」

 デレオンは、そう言いながらわたしに背を向けてテーブルの方で何やらガチャガチャと物色を始めた。すぐに彼がこちらを向く。コップ一杯のお水と、手のひらには黄色の錠剤が数個転がっていた。

「今の君に必要なものが、全てこれに詰まっています。けれど、忘れないで。これは一時の夢、まやかしにすぎないことを。こんなものに頼っているようじゃ、君の旅は此処までなんだ、と」

 悲しそうに、それでも優しくデレオンはそんな言葉を口にする。

「でも、逃げることは悪いことじゃないと、僕もドクターも、お頭だって思います」

 だからね、と彼は笑う。

「誰かの手を借りても、こんな手を使ってもいいんです。ちゃんと、立ち上がるんですよ、ナギサ」

 うん、と頷いて、わたしは錠剤とコップを受け取る。上半身を起こし、錠剤を舌に乗せてコップの中のお水で一気に呷る。躊躇いは、一瞬となかった。何のことかはあんまりよく分かんないけど、彼らが示してくれた道なのだ。どんな劇物であろうとも、受け入れる覚悟は最初からできていた。そんなわたしに、やっぱりデレオンは悲しそうな顔を一つ。辛いねと、彼は零すように口にした。

 けれど、それ以上思考は続かなかった。まるで景色全てが解けていくように、意識も、視界も、声さえも、暗い闇の中に落ちていく。ああ、寒いなと、思う。嫌じゃない闇の筈なのに、それはあの青を、思い出してしまう、から。



***



 夢さえも見ない眠りだなんて、いつぶりだっただろうか。けれど、暗い暗い夢と意識の果てに、お酒と潮風、それから鉄の、赤のにおいがして、瞼を押し上げた。青も裂くような、色鮮やかな赤の髪の毛が視界の端で揺れている。

「起きたか」

 あったかい声、薄暗い部屋だけど、シャンクスだってすぐに分かる。ゆっくりと身体を起こす。ああ、まだ寒い。けれどそんな感覚とは裏腹に、窓の外はとっぷりと陽が落ちて、びろうどのような濃紺が空を覆いつくしている。部屋はランプ一つと、月明かりの静かな灯火だけ。ランプの中で揺れる炎が、シャンクスとわたしの影を重ね合わせ、ゆらありと遊ばせていた。聞こえてくるのは、波の音と、遠くで騒ぐ、クルーたちの笑い声だけ。

「まだ、寒いか」

 そう問われ、静かに頷く。部屋はこんなにも温かな雰囲気で満ちているというのに、わたしの身体はまだ寒い。月が出るほど眠っていたのに、まだ海の冷たさが残っているかのよう。不思議な感覚だ。あったかいはずなのにと、視覚や聴覚、嗅覚がそう言っているのに、触覚は寒いと訴えている。変だなあ、そう思いながらシャンクスを見る。シャンクスは毛布にくるまりながら体を起こすわたしの隣に座っていた。妙に浮遊感漂う衣服の動きを、隣でじっと見つめる。そういえば、この人は左腕がないんだっけ。

「悪かった。昼間、怒鳴っちまってよ」

 ううん、と首を振る。まあ、なんで怒られたか分かんなかったけど、それでもシャンクスが助けてくれなかったら、本当に溺れているところだったのだ。わたしの運命どころか、命の恩人に、感謝こそすれ、憤る道理などないわけで。

「能力者になってから、海に落ちたのは初めてか?」

 一瞬、ノウリョクシャというワードが素直に飲み込めずに思考が止まったが、すぐに頷くことが出来た。ノウリョクシャ──能力者か。普段生きていて、到底使うことのない言葉。わたしのような“声”を持つ人を、そう呼ぶのだろうか。そう仮定するのなら、確かにあの実を食べて、能力者になってから海に──もっといえば水のたまった場所に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。

「まァ、知らないモンはしょうがねェ。だが、これからはちゃんと覚えておけよ。悪魔の実を食った奴は、生涯海に呪われる。海は勿論、川や風呂でさえ、水のある場所はたちまち能力者から力を奪う」

 何となく予想をしていた答えが、シャンクスから渡される。別段、ショックではなかった。特別泳ぐことが好きな性質ではなかったし、海に落ちないよう気を付けるか、水辺では単独行動をしないようにすれば、さほど脅威ではないと感じたのだ。惜しむらくは、わたしはこの先一生ビキニを、着るチャンスがなくなってしまった、ぐらいか。

 ああそれと、とシャンクスは言葉を繋げる。

「お前を脅かしてた奴な」

 その言葉に、ぶるぶる震える彼の青い顔を思い出す。

「逆さ吊りの刑にした。これでも軽い方だぜ? なんせ、『明日から一週間、ナギサのお掃除奴隷になります』って、逆さになりながら叫んでるもんだからよ、うるさくて敵わねェんで日暮れにゃ降ろしちまった。あいつ、お前にもちゃんと謝りたいってよ。お調子もんだが、お前を傷つけようと思ってやったわけじゃねェ。……ちゃんと反省してたみたいだしよ。許してやって欲しい」

 ……別に、そんくらい、怒ってさえないのにな。まるでシャンクスが我が事のように心を痛めたような顔をするから、怒ってもないのに頷いてしまった。そっか、よかった、とほっとしたように笑うシャンクス。するとパッと立ち上がったかと思うと、ダッシュで船長室を飛び出していくもんだから、わたしは呆然とする他なく。そして数十秒とかからぬうちに、彼はお盆に何かを乗せて飛ぶように部屋に戻ってきた。

「宴だ! ただし今日は、おれとお前だけのな!」

 ニカッと笑うシャンクスが持つお盆には、ほかほかの湯気が立ち上るマグカップが二つ。この人酒のことしか頭にないのか、と呆れつつ、取っ手をこちらに向けられて恐る恐る受け取る。ビールのような白い泡が乗った、茶褐色の液体だ。香りからしてラム酒なんだろうけど、ほんのりとミルクとバターの香りがする。

「おれのはホットラム。ホットバター・ラムだったか? まァいい。んで、お前のはホットバター……──ラム? カー? アー、とにかく、ウチのコックお手製だ。あったまるぜ!」

 シャンクスの雑な解説にくすりと笑みがこぼれる。恐らく、ホット・バタード・ラム・カウのことだろう。ホットミルクに無塩バターにラムを加えたカクテルの一種だ。英語圏で言うタマゴ酒に近く、はちみつやレモンを入れることもあるシロモノだ。だがまさか、陽気な海賊船でこんな気の利いたカクテルが出てくるなんて夢にも思わなかった。カップに鼻を寄せる。いい香りだ。体の芯まで暖まりそうな、優しいにおい。

「それじゃ、おれとお前の無事を祝って、乾杯!」

 コン、と小さくマグカップを鳴らし合い、温かな液体を喉奥に流し込む。アルコール度数の高いラム酒に、ホットミルクとバターとくれば、喉奥から湯気が出そうなぐらいの熱量だった。けれど、決して甘ったるさが残らないのは、微かな柑橘類の風味のおかげか。恐らく、デレオンが栽培しているライムだろう。こくこくとマグカップを傾ければ、シャンクスはわたしを見て嬉しそうにはにかんだ。その拍子にさらりと揺れる赤が、ランプの光に煌いて夕焼けのように見えた。まるで暖炉の炎のようで、あったかそうだなあ、と、思って。

「お、どうした?」

 ぽすんと、隣に座る彼の左肩に頭をもたげる。あるはずのものがないその場所は、不思議とわたしの頭を配置するのにちょうどいい塩梅だった。嫌がるかな、まあ子ども──だと思い込んでるだろうし──、大丈夫かな、とちらりとシャンクスを見上げると、彼はその瞳ふっと伏せた。

「ナギサ。海は怖かったか」

 とくとくと、バター香るカクテルを飲みながら、シャンクスの唸るような声をBGMのように聞いた。怖かったか。と、彼は言う。怖かったか。その言葉が、ラム酒と共に喉を通って、お腹の底に沈んでいくようだった。それは奇しくも、昼間のわたしと同じよう。

「(──いや、青かった・・・・)」

 わたしはその問いに、自分の感じたことをそのまま脳裏に描いた。そうだ、青かった。どこまでも深い、青と黒。それが綺麗だと思った。生まれ故郷ではお目にかかれないような、太陽さえ蝕む青の黒。目を閉じると、その青が侵食してくるかのようで、眠るのが嫌だった。ドクターが処方してくれた薬がなければ、きっとあの地獄の夢のように何度も何度もわたしを苦しめたに違いない。

 だって、寒かったんだ。身動きの取れない青の渦の中、見上げる白の光が遠のいていく。氷河の果てに滅びた恐竜たちも、こんな思いをしながら死んでいったのだろうか。そんなことさえ考えてしまうほど、海は寒くて、冷たくて、青かった。だって、仕方ないだろう。気にしたことさえなかったんだ。海の青さも冷たさも、ただそこにあるだけの風景だと思っていたんだ。でも違った。海はわたしを飲んだ。情も不条理もなく、かいぶつのようにわたしを丸のみにして、沈めてしまった。海の中では呼吸は出来ない。子どもだって知ってる。ノウリョクシャじゃなくたって、海の中じゃ人は生きていけないんだ、だから──ああ、そうか。

 わたしは、寒かったんじゃない。こわかったんだ。

「怖かったら、怖いって言っていいんだ」

 じんと染みこむような、シャンクスの声が少し遠い。手にしたマグカップはとうに空っぽで、それでも余韻のように残る温かさを握り締めた。あったかい。あったかい。熱すぎるくらいで、目の奥はもっと熱かった。やがて頬を伝うそれを、隠しはしなかった。シャンクスは何も言わず、どっかりと構えているだけだ。これがお頭と、慕われる所以なのだろうか。ぼやけた視界でシャンクスを見上げると、やはりそこには赤がある。そうだ、わたしはあの時、青にも、黒にも負けない赤を見た。その赤が太陽みたいにあったかかったから、今わたしは此処にいる。今ここで、息をしていられる。

「おれァこの生活が長くてよ。お前と同じ能力者を何度も見てきた。同じぐらい、海に攫われる奴らもな。そのたびに海に飛び込んだ。何度だって助けた。しまいにゃ腕一本くれてやったこともあったが、悔いはねェ」

 そうだったのか、がら空きになってしまった場所に頭をぐりぐりと押し付ける。やっぱり、あったかい。あったかくて、すごいなと、ただそれだけを思う。この場所はわたしと同じように青に攫われた人を助けるために使ったのか。ああきっと、その人もわたしと同じものを見たに違いない。わたしと同じものを見て、わたしと同じように涙を流したに違いないのだ。

「何度でも助けるさ。でも、なるべくなら落ちてくれるなよ。お前のその顔は……なんだ、心臓に悪ィ」

 涙は、止まらない。静かに頬を伝って、空のマグカップに落ちていく。おかげでマグカップは、ずっと暖かい。不思議だな、あんなに寒かったのに。あんなに青が、夢が、怖かったのに。今はあったかい、それだけだ。ラムの香りと、潮の匂いと赤い鉄のにおいを、より強く感じる。どこまでも、この人は赤を纏っていくのだろう。それがいいなと、思った。この人には海は似合えど、青は似合わない。炎のような、夕日のような、血のような、赤がいい。この人を見ているだけで、生命の鼓動を強く感じることができるよう、彼の傍には常に赤が咲くことを、わたしは祈ろう。

 汝、数多が畏怖する青を打ち払う、眩き赤であれ、と。


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