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 船旅は長い。掃除はすれどもすれども終わりは見えず。今日も掃除道具一式を担いで、デレオンと共に船中を駆け回る。

「全く、洗っても洗ってもすぐ汚れますね。美しき僕を見習ってほしいものです」

 顔に自信ニキが何か言ってるが、いつものことなのでスルーして、換気扇を取り外して油汚れを拭きとる。この船で出される料理のほとんどが主に肉・魚料理。おかげでキッチンは常に油まみれ。キッチンの守り人であるコックは、無駄に食べ盛りのおっさんたちの食事をこさえるため朝から晩まで大忙しのため、掃除まで手が回らないのだと言う。仕方ない、年の割によく食べよく飲みよく吐くおっさんたちのエンゲル係数は計り知れないのだから。

「お、いたいた! ナギサ、デレオン!」

 いつものように、デレオンと二人で力自慢の海賊見習いたちに絞ってもらった柑橘類の皮から取れた果汁でコンロ周りを掃除していると、ヤソップさんがやってきた。

「なんです、ヤソップさん」

「釣りしようぜ、釣り!」

 そう言いながら、ヤソップさんは大きな釣り竿を二本、わたしたちに差し出した。エンゲル係数が計り知れないこの船の食糧事情はと言えば、主に釣りがメインだった。丘で買い貯めた保存食やデレオンの趣味だという家庭菜園で採れた野菜や果物ではとてもまかないきれない胃袋の持ち主ばかりのため、基本的には毎日みんなで釣りをして、釣れた魚を捌いて食べていた。その魚と言うのもアジやサンマなどの可愛らしいサイズなどではなく、クジラも八つ裂きに出来そうなほど巨大な魚なんだけど。最初見た時は腰を抜かしてしまったが、捌いてみれば煮ても焼いても刺し身にしても美味しかったので良しとする。

 しかし、普段からそんな巨大魚がうろつく海だ、釣りだって命取りになりかねない。だから普段は、パワー有り余る戦闘員たちが釣り糸を垂らしている。お掃除係のわたしじゃ、魚にエサを取られるどころか竿ごと海に引き込まれて自分がエサにが関の山だからだ。渋い顔をするわたしとデレオンに、ヤソップさんは説教臭い顔で言う。

「お前ら毎日毎日室内に籠ってねェで、たまには太陽の下でのんびりしようぜ」

「遠慮しておきます。日焼けしたくないんです」

「いいじゃねェか、たまには!」

 うん、抵抗は無駄らしい。わたしとデレオンはヤソップさんに引き摺られる形で甲板に連れ出される。ぽかぽかとした、柔らかな日差しが注いでいる。風も穏やかで、波も静か。これは確かに、絶好の釣り日和といえよう。

「ヤソップさんったら強引ですね。……まあ、気分転換にちょうどいいかもしれません」

 そう言いながら、デレオンは素直に釣り竿を受け取る。みんな船首の上や手すりに腰かけて海に釣り糸を垂らしているので、わたしもそれに倣うことをする。釣りなんて初めてだ。長い木に糸がついただけのリールもないような、無骨な釣り竿。針に生肉を括り付け、海にぽちゃんと投げ込む。デレオンとヤソップさんに挟まれる形で船の手すりに座り込み、ぼんやりと空を見上げる。

 太陽の温かさ、風の滑らかさ、潮の香り、ついこの間までは馴染みなかったそれら全てが、心地よいと感じる。ああ、いい洗濯日和だなあ、なんてため息が出る。思わず出る欠伸を、噛み殺すことなく晒していると、横からぱっと手が伸びてきてわたしの口を覆い隠す。デレオンの左手だった。

「こら。はしたないでしょう」

 お母さんか。マナーなんて丘に置いてきた、とばかりの無法者集団にいると、ついつい油断してしまう。でへへ、と照れ笑いを一つ。

「お、珍しいのが釣りしてるな」

 そんな声に涙目で振り返れば、シャンクスが手を振ってこっちにやってきた。珍しいの、にデレオンが含まれているようで、彼は困ったように肩を竦めた。

「たまには気分転換にと思ったのですが……でもやっぱり、僕、釣りは向かないみたいです。じっとしてるのが性に合わない」

「おれもだ。海王類と戦り合う方が手っ取り早ェ」

「堪え性ねえなァ二人とも」

 ヤソップさんも思わず呆れ顔。シャンクスはともかく、デレオンの人柄を思うと少し意外だ。だが、普段からガーデニングだ船の洗浄だと走り回るデレオンの姿を思うと、とにかく何かしてなきゃやってられない性質なのかもしれない。退屈そうに肩を竦めるデレオンの横で、シャンクスも同感だと頷く。ヤソップさんはこいつらに聞いたおれが馬鹿だったとばかりにわたしの方を見た。

「ナギサはどうだ? 釣り、楽しいか?」

 ヤソップさんに聞かれ、わたしは首を傾げる。うーん、釣りの楽しさが魚をすることであれば、うんともすんとも言わない釣り糸に対し、楽しさは見出せない。けど、こんないいお天気の中、爽やかな風に包まれて、何をするでもなくぼんやり空を見上げるのは嫌いじゃない。朝起きて電車乗って仕事行って電車乗って家帰って、を繰り返すだけのあの頃では、絶対に出来なかった時間の使い方。うん、嫌いじゃない。寧ろ、いいかもしれない。へらりと笑ってみせると、ヤソップさんも嬉しそうに膝を叩いた。

「お! ナギサはイケるクチらしいな!」

 うん、と頷いた。何に追われることも、縛られることのないこの海の上での生活は、思ったよりわたしの性に合ってるみたいだ。そりゃ、せっせとお掃除するのも好きなんだけど、これも一応、食糧確保というお仕事だと思えば、楽して仕事できるならそれはそれでアリだ。

「へェ。なら、たまにはおれも、釣ってみるかな」

 そう言いながら、シャンクスが釣り竿を手に取り、片手で器用にエサを付けて海に投げた。そんなシャンクスに、周りで釣りしてたクルーたちが物珍しげにこちらを見てくる。

「よせよせお頭、いっつも釣りの途中で寝るじゃねェか」

「エサの無駄だしやめとけよー」

「仮に釣れても、引き寄せる前にグリフォンで一閃してしまうし」

「そりゃ釣りじゃねえ、狩りだ」

「釣りの醍醐味を分かってねェなあ、お頭は」

 言われ放題である。シャンクスはぶすくれながら、それでも黙って釣り糸を凝視している。片腕じゃ釣りは難しいのではと思ったが、この船よりも大きな魚でもその剣一本で真っ二つにするような男なので、杞憂かと、わたしは自分の釣り糸に目を落とす。ぴくりともしないが、みんなで適当なことをお喋りしながら、のんびり時間が過ぎて、太陽が徐々に傾いていくのを眺めるのは、実に有意義に思えた。

 その時だった、パアァアンッッ、という風船が破裂したような音が耳元で響いた。

「“だあぁあっ”!?」

「へへーっ、紙鉄砲だびっくりした──」

 背後から投げかけられたその台詞が、ふいに途切れる。ふわりとした嫌な浮遊感、前のめりになる身体。あ、なんて間の抜けた声を上げた時にはもう遅く。ひゅっと視界の端から消えていくシャンクスの唇が動いた気がしたけれど、それを確認する間もなく、上げた“声”がわたしの背を押すようにドドドッと降り注いだ時には、わたしの身体は真っ直ぐ海に向かって落ちていった。

『『『ナギサ──ッ!!』』』

 みんなの野太い声が慌ててわたしを呼ぶも、それが耳に届く頃にはわたしの身体は海面を突き破っていたのだった。

 青い、どこまでも青くて深い、海。エメラルド色、というほど澄んでいるわけじゃないけれど、夜空のような滑らかな青がどこまでも続く光景は、涙が出るほどきれいだった。そんな青を掴みたくて、手を伸ばそうと腕に力を入れるけど、上がるどころか小指一本動かない。あれ、おかしい。ごぼり、と口から酸素の塊があふれて、溶けて、消えていく。重い、重い、身体が重い。まるで深い青に、身体が押し潰されそう。深い、不快、深い、青。あれほど温かかった太陽の光が、この青に塗り潰されて。胸が苦しい。青がどんどん見えなくなる。暗い、不快、苦しい、どうして、わたし、別に、泳げないなんてことはないはずなのに。

 そんな中、青にも負けない赤を、見た。

 差し出された手に、掴まろうとしたのに腕が動かない。けれど赤は、消えない。どんどんどんどん近づいて、青が黒に塗りつぶされるよりも先に、わたしの腰がぐっと掴まれる。赤い、赤い、眩い赤。どんどんどんどん、黒が青に、青が白く輝いていって──。

「「ぷはあっ!!」」

 二つの頭が、水面を突き上げた。げほげほと、咳き込みながら思いっきり酸素を吸い込む。けれど、肺さえも重たく、息をするので精いっぱい。四肢はだらんと力が抜けたまま、彼──赤い髪を濡らしたシャンクスに抱きかかえられていなければ、わたしは再び海に沈んでしまっていたことだろう。助かった、そう安堵の息をつこうとした時、わたしを抱きかかえたまま立ち泳ぎしているシャンクスが、見たこともないような怖い顔でわたしを見下ろした。

「馬鹿野郎!! 死にてェのか!?」

 びくり、と肩が跳ねる。見たことないほど真剣な顔で怒鳴るシャンクスに、無意識のうちに恐怖を覚えたのは人間としての本能といえよう。けれど、どうして怒られてるのか分からず、恐怖がスコンと抜けて呆けてしまった。そんなわたしに、シャンクスは次の言葉が紡げないのか口籠る。え、なに、どうして、わたし、なんか悪いことしたか。そりゃ、海に落ちちゃったのはわたしの不注意からだけど、急に驚かせてくる方が悪いのであって、わたしに非はないんじゃ……。

 けれど、シャンクスは何も言わない。ただわたしを抱えたまま、黙り込むだけ。普段あれだけ笑顔のシャンクスが、こうも寡黙になるとそれだけで恐怖を助長させる。すぐに縄梯子が降りてきたので、シャンクスやデレオンたちの手を借りて、ヘロヘロの身体で船の上に戻る。全身びしょ濡れのわたしが船に戻ると、ヤソップさんたちが洗濯したてのバスタオルを持ってきてくれた。お日様の匂いのバスタオルに毛布のように包まっていると、シャンクスも船に戻ってきた。全身びしょ濡れなのに、それを感じさせないほど軽やかに、ひとっ飛びで船に戻ってきた彼は、わたしの前へ出る。先ほどまで穏やかに釣りしていた光景が嘘のように、みな張り詰めた空気の中、沈黙を守っている。

「此処が“偉大なる航路”と、知った上での行動か」

 グランドライン。耳に慣れないその響きだが、その恐ろしさは身を以て体験した。風一つない快晴でも、三秒先は嵐に見舞われるような、ハチャメチャな航路。掃除しても終わりが見えないくらい、ころりころりと天気が移ろうこの場所を思えば、先ほどの脅かしも運が悪ければ命取りになりかねない。それは分かっている。

「ナギサが能力者だと、知った上での行動か」

 故にこそ、シャンクスの声は静かで、それで重い。海の重たさなんて比じゃないぐらいの重圧。ビリッとした空気に、誰もが黙りこくる。特にわたしを脅かしたクルーは、真っ青な顔でブルブル震えているほど。



「海を軽んじるような奴に、この船に乗る資格はない!」



 ぞっとするほど、恐怖を掻き立てられる声。わたしはたまらず、シャンクスのびしょ濡れの黒マントを引っ張る。けれど、三本爪の痕が残る瞳をこちらに向けられ、わたしはヒッと喉の奥で悲鳴を上げた。同時に、後悔した。言い過ぎだ、無事だったしいいじゃない、そんなに怒らなくても、悪気があったわけじゃ、そういう気持ちもあった。けれど、この船を取り仕切る彼の言葉を、わたし程度が遮っていいはずもない。彼は彼の信念があり、この船にはこの船のルールがある。ひょんなことから乗り合わせただけのわたしに、それをとやかく言う資格はないのではないだろうか。

 と、いうのを彼のマントを引っ張ってから気付いたのだから後の祭り。ど、どうしよう、止めた方がいいのか、止めない方がいいのか。このマントを引っ張ったまま固まる腕が憎たらしい。言葉にならない声を口の中でもごもごさせること、しばらく。

「──“ぇっくしッ”」

 重たい沈黙とシャンクスの睨みの中、わたしの口から出たのは言葉ではなく、くしゃみだったのだからもう救えない。案の定、口にしたワードはそのまま具現化し、静寂流れる甲板にバラバラになって落ちてきた。事情は知らないし、何がどうするのが正解かも分からないけど、この“言葉”がこの空気にひびを入れたことだけは、分かった。

「……ナギサ、着替えてこい。そのままじゃ風邪を引く」

 はあ、とため息交じりに言うシャンクスは、ほんの少しだけいつもの彼に戻ったようだった。コクコクと素早く頷いて、海水を吸ったタオルを抱える。

「お頭、僕が看ます」

「そうか。任せる」

「了解。……ホラ、行きましょう、ナギサ」

 デレオンがわたしの肩を押し、わたしはぐいぐい押されるままに重たげな空気の中から抜け出す。ちらりと背後を見やるも、シャンクスがどんな顔で彼らを見て、どんな言葉で彼らを諭しているかは、ちっとも分らなかった。


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