こんな愛なら

 この仕事をしていると、自分が男に生まれていればどれだけ楽だったか、と思うことが多々ある。女だからこそ誇りに思うべしと言われることもあるが、誇りでは飯は食えないし、私一人が誇りを掲げたところで世の中に変化は訪れない。故に、誇りよりも仕事のやりやすさの方が重要だ、と考えてしまう。

 というのも、私はNPB史上数人しか存在しない女性のトレーナーである。もともと自分がソフトやってたのだが大学時代、留学先で故障した。それからサポーターの道に入り、紆余曲折を得てアスレチックトレーナーの資格を得て帰国し、今に至る。『若い女のトレーナーなんてやりにくい』『そもそも女に務まるのかよ』『男社会に女は不要』などなど、どこぞに録音音声を垂れ込めば炎上必須の言葉の数々も散々投げつけられ、最後の最後に拾ってくれたのが今の球団だった。『新しい風が必要』という首脳陣の方針により、私は球団専属のトレーナーとして雇われることになった。

 仕事は大変だ。自分よりもよっぽど体力漲るプロ野球選手相手にサシで体力勝負を挑まねばならないし、食事管理やマッサージ、メニューの作成、メンタルケア、やることは山積みだ。加えて女のアドバイスなんか聞けるかって奴もいるし、セクハラ目的でマッサージを依頼されることもあったし、マジでクソみたいな仕事だと思いながらも、それなりの賃金が約束された今、黙って従う他ない。それでも二軍での下積みが実を結び、栄えある一軍トレーナーとしてキャンプ帯同が許された時は普通に嬉しかった。まあ労働環境は一軍だろうが二軍だろうが変わらない。私はただ、肩身の狭いこの世界で普段通りに仕事に従事する他ない。どんな世界にいても、サラリーマンは大変なのである。

 だが、ここ最近は別の意味でも自分の性のことで頭を悩まされていた。

「教官、マッサージお願い」

「……分かりました。準備しますのでお待ちください、御幸選手」

 悩みの種は、この男。御幸一也と言えばプロ野球界隈に疎くて名前を聞いたことがある、なんて言われるほどのスター選手。何せどの球団も喉から手が出るほど欲しがる『打てる捕手』である。更には顔がいいし素行もいい。そうして華々しく活躍するこの男とは、二軍からの付き合いだ。年は一個上だか二個上だったか忘れたけど、年齢も近いし、何より御幸選手は『女のコーチ』への偏見は全くなかったため、そこそこ会話をする方だった。だが、ここ最近は些か度が過ぎている。何かとつけて呼び出してくるし、マッサージには必ず指名される。『お前が一番俺の身体のこと分かってるから』なんて尤もらしい理由をつけているが、女として見られていることは自覚していた。それ自体はある程度仕方ないと思うし、あれだけのイケメンから好意を持たれるのは純粋に嬉しい。この二十数年の生涯を振り返ってもお世辞にもモテモテだったわけではないが、何分男社会だ、女ってだけでよく見えるものもあるのだろう。とはいえ、舐められないよう厳しく扱きすぎた結果、選手たちの間ではもっぱら『鬼教官』の名で通っている私なので、御幸選手はよっぽどのドエムなのだと睨んでいるが。

 とはいえ監督やコーチ、トレーナーと選手の間には一定の壁が必要だ。こちとら仲良しこよしの部活動をやってるわけではない。私はは選手を鍛えるため、あれをやれこれをやれと命じる側なのだ。その壁が崩されるとその命令が利かなくなる時がある。いわば『トレーナー』という職業そのものがジムバッジのようなもの。そこに実績という名の数多のバッジを集めて、ようやく選手が従ってくれる。とても難しい立場なのだ。なので『わーいイケメンに好かれた嬉しい付き合っちゃお』とは、残念ながらならない。んなことしたら選手に舐められるし、『これだから女は』と言われかねない。御幸選手はこの球団のスターだ、切られるとしたら私の方に決まってる。そりゃあ恋愛は楽しいが、生きるための日銭と天秤にはかけられない。女のプロ野球選手専属トレーナーなんて稀有な職種、雇ってくれる球団は日本で此処だけだったのだ。ここがクビになったら、私は再び渡米しなければならない。あちらの生活も悪くはなかったけれど、もう米とお茶と醤油のない世界に帰りたくないのである。

 なのでどうにか角が立たないようお断り申し上げたいのだけど、あちらも曲者で通った捕手である。中々思うようにいなせない。というか、私の苦労を楽しんでる節まである。なにせ奴は中々どうして性格が悪い。ドエムのくせに。いや知らんけども。

「仰向けになってください」

「はいはい」

「返事は一回で結構です」

「相変わらず冷てーな、鬼教官サマは」

「そんなんだから野球選手は挨拶もまともにできないって揶揄られるんですよ」

「痛いとこついてくるなー、ほんと」

「それほどでも」

 仰向けになる選手の片足を抱えて、大腿二頭筋を伸ばすようにぐっと体重をかける。御幸選手はあまり体が柔らかくないので、これだけでも苦い反応を示す。トレーナーと選手はこうして身体的接触も儘ある。とはいえ、日夜選手と共にグラウンドを駈けずり回り、ネイルどころか化粧すらろくにしていないような女相手に、モッテモテのプロ野球選手様が何か思う訳がない、とタカを括っていたのがそもそもの間違いでった。とはいえこれも仕事だ。心を無にして行う他にない。

「最近、この時間が一番癒しだわ」

「それは何より」

「ほんと、これがあるとのないのとじゃ大違いだしな」

「若い方にはあまり必要ないんですけどね」

「そうはいっても俺もそろそろベテランだし」

「そういうセリフは三十五を超えてから許されるんですよ」

「キビシーことで」

「選手の為ですから」

 そうだ、私の日銭の為でもあり、選手の為でもあるのだ。私の仕事は試合中にフルパフォーマンスを発揮できるよう、鍛え上げること。パフォーマンスに影響が出るようなトレーナーなど、誰が使ってくれるだろう。彼らだって試合でいい結果出して、お金貰って、夢のような生活を送りたいはずなのだ。だからこれは双方の為だと言い聞かせてきた。今までも、そして、これからもだ。

 けれどこの男は、それら全てを放り投げてくるのだから、厄介だった。

「……教官さあ」

「はい」

「そろそろ観念する気ねえ?」

「何のことやら」

 トレーニング前の筋肉を揉み解しながら、ため息を吐いた。これがあるのとないのとではスタートダッシュが全然違う。だからこうやって懸命に仕事をしているというのに、どうして邪魔をするのだろう。幸か不幸か、御幸選手は直接好きだとか付き合って欲しいとかそういうモーションは掛けてこない。あくまでさり気なく、匂わせるように、『言わなくても分かるだろう』とばかりの目線を寄越すのだ。故に惚けるフリができるのだが、今日はどうやらそうはいかないようだ。

「惚けるってことは、分かった上で弄んでる?」

「なんて人聞きの悪い、職を失いたくないだけですよ」

「選手とどうこうなったからって変わらねえよ。周りなんか気にするなって」

「ただでさえ『女だから』って色々言われるのに?」

「……」

「賢いあなたなら、ご理解いただけると思ったのですが」

 無論、理解はしているだろう。だから今日の今日まで、ままごとのような駆け引きを行ってきた。その痺れが切れるほどの感情だったとは、思わなかったが。

「……お気持ちはありがたく頂戴します。けど、恋愛の為に仕事は犠牲にできません。こっちは生きるために、必死でこの腐った男社会に食らいついてるんですよ。それに水差されちゃ、もう、」

 ああ、もう。踏み込んでくるなら、こちらもそれ相応の覚悟で逃げねばならなくなる。メンタルケアも仕事のうちだ。再起不能なまでに叩きのめして試合に影響が出たら、それこそ私を招き入れてくれた球団に合わせる顔がなくなる。

「何も、私でなくてもいいでしょう。選べる立場のはずですよ、もっと広い世界を見てください」

 どうにか気を悪くしないよう、慎重に言葉を選らぶ。そうだ、別に私じゃなくてもいいだろう。よっぽどのドエムじゃなければ、こんな女いくらでも転がってる。引く手数多の野球選手様なのだ、わざわざ職場恋愛なんかしなくてもいいのに。そんな思いで突き放すと、御幸選手は──意外にも、穏やかな瞳を向けていて。

「そんな腐った世界で活き活きと俺らをシバいてるお前だから、いいんだよ」

 活き活きと──か。確かに、クソみたいな世界だと思う。だけど、こんな世界だからこそ、得られるものがある。それが分かっていたから、私は経験のあるソフトではなく野球を選んだのだ。想像してたよりもずっとクソだったし、なんて職場だと中指立てたことも一度や二度じゃない。それでも、私はこの世界で戦っていたいのだ。だから。

「……やはり、そういう趣味が?」

「その強気なトコねじ伏せてコントロールしたい」

「すみません何も聞かなかったことにしますね」

「冗談だって」

 だからこそ、彼を受け入れるわけにはいかない。扱く選手が恋人だなんて、やり辛いことこの上なしだ。彼らと私は選手とトレーナーなのだ。男と女ではない。百歩譲ってキチンと公私を分けられたとして、周りが何と思うか。昨今の恋愛は自由だろうと、老害のさばる球界から見れば明らかに異端。これで試合に響いてみろ、『ああやっぱり、女を入れたからこんなことになったのだ』と、後ろ指差されるのが目に見えている。

「──男に生まれていれば、楽だったんですけどねぇ」

 その方が楽だった。圧倒的に事がスムーズに進む。それでも流れに逆らうように、このクソみたいな世界に身を投じたのは自分の意志だ。負けてやるつもりは毛頭ない。けど、彼の熱い目を見るたびに、自分が男であったらこんなことにはならなかったろうに、なんて思ってしまうのだ──いや、まあ、恋愛に性別は関係ないないか。それでも、『事故』の確率は私が男であることよりも女の方が高いだろう、から。

 そんな私のぼやきを黙って聞いていた御幸選手。流石に諦めてくれただろうかと思いながら、今度は反対の足を抱えて膝を胸あたりに押し込む。苦しげに呻く彼を見下ろしながら数秒する。

「つまり」

「つまり?」

「周りに何も言わせずに、試合も結果出し続けて、練習も普段通りならオーケーってこと?」

「……あー、まあ、そうなんじゃないですかね。私だって恋人の一人や二人、欲しい夜もありますし」

 無理難題を並べる青年に、私は特に深く考えずに頷いた。そうは言っても、私だってキャンプやら遠征にやら帯同する身である。恋人を作ったところで家に帰る日なんて、一年のうち半分あるかないか。長続きするわけがない。なので独り身を謳歌していたのだが、それが仇になったともいえる。愛があろうがなかろうが、さっさと結婚しとけばこんなことにはならなかったかも、そんな風に考えた時だった。

「分かった」

「何が、ですか」

「周りに何も言わせずに、試合も結果出し続けて、練習も普段通りにする」

 真っ直ぐ見上げてくる強い眼差しに、一瞬怯んだ。まるで捕食者に睨まれたかのような気分。だめだ、この雰囲気、掴まりかねない。その目を振り切って、私はいつものように惚けた顔で肩を竦める。

「……言うは易し、ですね」

「俺が口だけの男かどうか、確かめてみればいいだろ?」

 そう言って、仰向けだった御幸選手が上体を起こして顔がずいっと近づいてきたので、反射的に飛び退いた。流石、と形いい唇がそんなことを呟く。信じられない、人一人体重かけてたのに、腹筋だけで起き上がってくるなんて。どっか痛めたらどうするつもりだ。呆れてものも言えない私を前に、彼はゆっくりと立ち上がる。どうやらマッサージはもう必要ないらしい。まあ、先述の通りそもそも二十代の選手にはあまり必要のない行為なのだが、選手がカラスは赤だと言えばカラスを赤いペンキで塗りたくるのが、球団関係者の仕事である。

「ええ。楽しみにしています」

「……」

 当たり障りのない──正直、期待もしてない一言だった。変わるわけがない、こんな腐った世界が、たった一人の力で。だから気を悪くしない程度の、日常会話レベルの相槌のつもりだった。隠すつもりのない私の考えが伝わったのだろう、彼は何か言いたげに口を開くが、思い止まった。それからガシガシとまとまりのない髪をかいて、大袈裟なくらい大きなため息を吐いた。だが、何も言わない。

「……あの、私、そろそろ行きますね」

 練習開始までまだしばらくある。その間は今日のメニューの相談とミーティングがある。用がないならもういいか、と私は踵を返してトレーニングルームを出ようとする。その時、背後から優しい声がした。

「……お前、『男だったら楽』とは言うけど、『男に生まれたかった』とは言わねえよな」

「勿論。誰が女であることを恥じてやるかって話ですよ」

 挑戦的に笑って、振り返る。御幸選手は、力の抜けたような顔で笑っていた。そりゃあ、男の方が楽だろう。その方がスムーズに事が進むことも山ほどあった。だけど、だからって女であることを疎んだりしたくなかった。男に生まれたかったと、今の自分を卑下したくなかった。私は、今の私に満足している。疲れるし、大変だし、マジでクソみたいな男社会だと思っているけれど、その中で戦う自分が好きだ。絶対に、それだけは否定してやるもんか。

 御幸選手は笑っていた。にやにやとした、からかうような笑みではない。本当に、それが世界で一番の幸福であるかのように、私を見つめたまま彼は柔らかな笑みを浮かべている。

「そーいうとこ」

 ──そういうとこが何なのか、私は訊ねなかった。生憎だが、期待はしていない。この腐った世界の根深さは、私が一番よく知っている。生半可な主張で変わる世界なら、とっくの昔に天地はひっくり返っている。けれど、大の大人があそこまで言うのだ。期待はしなくとも、まあ、うん、そうだな。夜の寂しさを埋めるための恋人は、まだ作らないでおこうかな。なんてね。


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