お眼鏡に、敵う

 朝連を終えてクラスへ向かうと、自席の後ろに知らない女の子が座っていた。それが眼鏡を取った後ろの席の天城凪沙だと気付くまで凝視したせいで、彼女からひどく怪訝そうな顔を向けられる羽目になった。

「え、何。御幸、顔怖い」

「いや〜悪い悪い。誰かと思ってさ、一瞬教室間違えたのかと」

「ああ……」

 そんなに変わるかなあ、なんてぼやく彼女の顔はやはり見慣れない。眼鏡一つでここまで印象の変わるものかと思いながら、机に荷物を下ろす。

「何、イメチェン?」

「部活で眼鏡壊したの」

 からかい半分で聞けば、思ったよりも深刻な回答が来て面食らった。たかが眼鏡。しかし、愛用者からしたらされど眼鏡。場合によっては命綱だ。その異常さと重大さを理解できるのは、自身もまた眼鏡愛用者だからだろうか。あれでも待てよ、と記憶の中の情報がアラートを鳴らす。

「天城、テニス部じゃなかったっけ。眼鏡のままやってんの?」

「なわけないでしょ。あんたと同じ、部活中はコンタクト」

「じゃあなんで?」

「その日はものもらいできてたからコンタクトできなかったの! 試合じゃないからと思って眼鏡でいつも通りのプレーしてたら、ストロークの時に詰まって腕を畳んで振り抜いちゃってさあ、そしたらラケットフレームが眼鏡に直撃して……最悪!」

 テニスのことは分からないが、その説明で状況を脳裏に描くのは実に容易だった。この様子から大事なかったようだが、ぞっとする話だ。もしレンズが割れていたら。そして割れたレンズの破片が目の中にでも入ったら──そんな光景を自分とバットに置き換えて、思わず身震いする。

「あっぶねー。気ぃ付けろよ」

「ほんとにね。幸いレンズは無事だったんだけど、フレームがぐしゃぐしゃになってさあ」

「うわー。ご愁傷様。あれ、てことは、今裸眼?」

「裸眼じゃあんたが男か女かも分かんないよ」

 コンタクトに決まってんでしょ、と言いながら厳めしい顔で眉間を揉む彼女。

「あー、視界が開けすぎてて気持ち悪い」

「分かる」

 眼鏡ユーザーあるあるのぼやきに、思わず力強く同意してしまった。御幸も普段は眼鏡で、運動中──正確には野球をしている時──だけ、コンタクトを利用している。よくチームメイトから「なんで普段からコンタクトじゃないんだ?」「使い分けてる意味あんの?」なんて聞かれるが、意味があるからそうしてるに決まってんだろ、と何度口にしたか分からない。眼鏡愛用者には、愛用者なりの理由があるのだ。

「なんだろうね、見えすぎて逆に疲れんのかな」

「練習中や試合中みたいに一時的なモンなら気にならねーけどなあ」

「分かる分かる。普段からこんな開けた視界見せられるとか、もはや暴力だよね」

「やっぱ眼鏡の方が落ち着くよなあ」

「あーあ、ほんとしんどい。御幸も気を付けな。うちの子は全治2週間の大怪我だよ」

「スペアねえの?」

「あるけど度が合わないんだよね」

 目をしぱしぱとさせる凪沙は、とても不服そうな顔をしている。見知ったクラスメイト──友達がいないと称される御幸だが、流石に近くの席の人間の顔ぐらいは覚えがあるつもりだ──だが、やはりそうしていると別人にすら見える。席についたまま、後ろを振り向く姿勢で食い入るようにその顔を見ていると、凪沙はますます不審そうに顔を歪めた。

「何。そんなに変?」

「いやいや。印象変わるなー、ってだけ」

「いい意味じゃなきゃ殴るよ」

「はっはっは。勿論、いい意味で」

「嘘くせー」

 苦々しく笑う凪沙は、どこか居心地悪そうに見えた。心外だ。本当にいい意味で言ったというのに。眼鏡が似合わなかったわけではない。眼鏡の印象が強い所為か、どこか大人しそうな第一印象とは裏腹に、話してみれば快活でさっぱりとしたその性格とのギャップもまあ悪くないが、眼鏡のない方がずっと彼女“らしい”と思えた。だが、凪沙には真意は伝わらなかったようで、時折目を伏せながら、そういやさあ、なんて話を切り替えた。

「御幸もそうだったんだ」

「そう、とは?」

「眼鏡してる理由。正直、モテ防止策だと思ってた」

「え? 今、俺のセンス貶されてる?」

 褒めたつもりが、まさかの変化球が返ってきて驚いた。自分では自覚はない──というか他人に指摘されたことすら初めてだ──が、長年愛用してきたこの眼鏡、似合っていないのだろうか。得も言われぬ感覚に襲われる御幸を他所に、きょとんとした顔のまま、凪沙はウーンと言葉を濁す。

「なんだろ。ほら、小さい頃って『眼鏡=野暮ったい』、みたいなイメージなかった?」

「そうかぁ?」

 確かに、彼女の言わんとすることはなんとなく覚えがあるような、ないような。眼鏡ってだけで『根暗でスポーツできない奴』、というレッテルを張り付ける奴もいた。子どもならではの純粋な“区別”は、残酷だ。御幸自身、クラス中心の明るく活発な少年ではなかったため、そういった扱いに覚えがないわけではなかった。ただ、彼女の言うようにそれが原因で女子から声がかからなくなったか、と言われればそうでもなく。

 目を細め、じ〜っと御幸の顔を見る凪沙の顔は険しい。何を見ようとしているのか、探るような目つきに流石の御幸もどぎまぎする。だがすぐに大きなため息をついて、彼女は再び目を伏せて「そりゃそうか」と、眉間を揉みしだく。

「眼鏡程度じゃ、御幸のかっこよさは打ち消せないもんね」

「え」

 貶された、と思ったらストレートの誉め言葉。恥じらいも下心も一切ない、さらりとした賛辞。単純な、揺さぶり。そういった駆け引きは御幸の得意分野のはずだった。故に、シンプルに動揺した。正直、この手の誉め言葉は聞きなれていた。おまけに向こうに他意はないのは分かり切っている。だから「そりゃどうも」といなすのにも、慣れているはずだった。だが、その慣れ親しんだ言葉が出てこない。ただのクラスメイトとの、ただの雑談だったはずなのに。

「……御幸?」

「あー、いや、ワリ」

 じわりと、嫌な汗。全身に熱が集まる。脳まで熱でイカれたのか、この場に適した言葉が出てこない。言い淀む御幸に、ようやく様子がおかしいと感じたのか彼女はしかめた顔をそのままに、ゆっくりと瞬く。それからぱっと破顔したかと思うと、大きく吹き出した。

「なにその反応。どーせ言われ慣れてんでしょ」

 からからと笑う顔。いつものクラスメイトの姿のはずなのに。レンズ一枚介さないだけで、まっすぐなストレートにこれほどまで揺さぶられるなんて、青道野球部正捕手失格だ。そのうちHRを告げるチャイムが鳴り、会話は不自然に途切れたまま御幸は前を向き、授業に取り組むことになった。しかし、当然ながら集中できるはずもなく。ぐるぐると、脳裏を駆け巡るのは古典だ英文だ数式などではなく、彼女の飾り気のない言葉と、見慣れぬ笑顔。

「……そのハズ、だったんですけどねえ〜」

 その一言がようやく絞り出されたのは昼休み後のこと。ぼやきを聞いた倉持から「何の話してんだよ」と蹴りを入れられる羽目になった。





―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
御幸が恋に落ちる姿が全く想像できない…

2021/04/11


*BACK | TOP | END#


- ナノ -