Catch in the future

「わたし、素敵な恋がしたいんです!」

 それが、天城凪沙の口癖だった。

 スカートを花びらのように翻し、にこにこ笑う彼女はまさに華の女子高校生。素敵な恋ねえ、と、呆れるでもなく馬鹿にするでもなく、迅悠一は耳にタコができるぐらい聞かされた彼女の口癖を咀嚼する。夢見る少女のような顔で語るそれは、傍から見れば白馬に乗った王子様を待つただ夢見るだけの少女だっただろう。彼女が迅の目に留まったのは、そのお姫様が硝子に閉ざされた棺や野薔薇に閉ざされた塔で眠ることなく、自身が白馬を駆って王子様を探す胆力の持ち主だったからだ。

 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、なんて言葉は凪沙の為にあるような言葉だった。顔良し、頭良し、性格良し、運動神経良し、スタイルも良ければトリオン量にも恵まれた。神様という存在がいるなら、目に入れても居たくない程度には溺愛されたのだろう、ありとあらゆる物を注がれて生まれた少女だった。

 中でも彼女の良いところは、与えられたものを決して無駄にしなかったことだと迅は思う。凪沙は任務の合間や食後のちょっとした隙間時間は必ず勉学に勤しんだし、トリオン体での戦闘であろうと身体造りのため木崎レイジに弟子入りし──多くの男たちが筋肉ダルマにされてしまうと危惧していたが、今のところ彼女の体脂肪が5%を切るような未来は視えない──、花のように可憐な風貌でありながら、《短機関銃[マシンピストル]》片手に容赦なく対戦相手をチーズのように穴ぼこにしてしまう勇ましさとは裏腹に、性格は底抜けた明るさと気さくさがあるのだから、多くの男たちがあわよくばと夢見る程度には彼女の周りには“恋”が取り巻いていた。

 けれど、彼女が恋をしたいと口にする姿を何度となく目にし、そして幾度となくその顛末を視ているにもかかわらず、迅の目には彼女が誰か特定の男と結ばれるような未来が視えないのである。

「高嶺の花って思われてんじゃないの?」

「ハナから山に登ってこないような意気地なしに、わたし、興味ありません!」

 凪沙はよく、本部に出没する迅を捕まえては、素敵な恋をしてる未来が視えますかと問いただした。デキる女は情報網も凄まじく、本部に行けば迅は必ず凪沙に見つかり、そのたびに未来を視る羽目になるのだが、残念だが今日も彼女の言う「素敵な恋」をする未来は視えない。相変わらず、表紙を見るだけで頭痛がするような本を読み込み、C級隊員に《銃手》の基礎を教えたり、木崎と共に川沿いをランニングしたり、ランク戦で勇ましく勝鬨を上げたりといった、そんな凪沙の日常しか視えてこなかった。

「おれが思うに、天城には隙が足りないんだよ。自分磨きに精を出しすぎてて、そこらの男は尻込みしちゃって、いつまで経っても出会いがない」

「分かりますよ、男は自分より劣る子を好む、というヤツですね」

「まー、全員が全員ってワケじゃないと思うけど」

「なればこそ、ですよ。いざ好きで好きでたまらない人に出会った時、その人がとっても素敵で他の子からも人気のあったら、ただの天城凪沙じゃ振り向いてもらえないじゃないですか!」

「ただの天城凪沙を好きになってもらう、とかは?」

「だめだめ、迅さんったら乙女心をなーんにも分かってないんですから! わたしは、素敵な恋がしたいんです! それこそ映画や小説に出てくるような、波乱万丈、お涙頂戴、切なくも胸がキュンとなる、そんな恋がいいんです!」

「へえー。あ、ぼんち揚食う?」

「そんな雑な相槌あります!?」

 でもぼんちは頂きます、と馬鹿丁寧にお礼を言ってぼんち揚の袋に手を入れて一つ取り出す彼女は、迅の差し出すぼんち揚を断ったことはない。人の好意をにこやかに受け入れるのもいい女のお作法なんですよ、と語る彼女はどこまでも打算的だ。しかし、そこに一切の嫌味がないあたり、これはこれで稀有な才能なのかもしれない、と迅は凪沙を評する。モテたいでもなく、誰かと付き合いたいでもなく、彼女の目的は『素敵な恋』だった。どこにゴールを見定めているかは迅にさえ定かではないが、そのために自分磨きを怠らない。常に誰に見せても恥じない成績から真っ直ぐ伸ばされた姿勢、ぴかぴか光る爪の先に至るまで、彼女の努力はどこまでも自分のためで、それでいて健やかだ。

 彼女は硝子の棺も硝子の靴も、茨に覆われた塔も入口の閉ざされた塔も不似合いだ。

「……いつかできるよ、素敵な恋ってやつ」

「当然ですとも。その為の努力は惜しみませんから。目指すは最高のいい女です!」

「ほう。天城の言う最高のいい女って?」

 女、という年齢ではないにしろ、彼女は贔屓目なしに十分いい女だ。淑やかな大和撫子というタイプではないにしろ、底抜けの明るさと才気に満ちた少女の笑顔は多くの男たちの目を引いた。少なくとも、彼女の臀部に触れようもんなら、そこかしこから恨みがましい視線が飛び交う未来を視た迅は、決して褒められないその趣味を凪沙相手には発揮できずにいる。その程度には人気があり、実際何度も告白を試みる男たちの未来を視た。けれど、迅の指摘した通り、競争率の高さに加えて彼女自身のスペックの高さ、何より「素敵な恋」を求める凪沙の期待に応えられるか自信がないと、男たちはいつも彼女の笑顔に背を向ける。勿体ないことだと思いつつ、確かに山に登ろうともせず指を咥えて見上げるだけの意気地なしには、彼女には不釣り合いなのかもしれない。

 しかし、これ以上高みを目指すつもりなのか。本当にそこらの男たちでは太刀打ちできなくなるのでは、と思いながら訊ねると、凪沙はきょとんとした顔で、事もなく言ってのけた。



「そりゃあ、三門市のトレンドは『死なない女[・・・・・]』でしょう?」



 一瞬の間を置いた後、ごもっとも、と迅は一人笑い飛ばす。凪沙はそんなにおかしなことを言っただろうか、とばかりにしきりに首を傾げていた。なるほど、それくらいに当たり前の目標だったのだ。当然だ、恋をするためには生きていなければ話にならない。《門》の開いた三門市に住まうのであれば、死なないことこそが彼女の目標を叶えるための最短距離。それを理解している、なるほど確かにいい女だ。

「──じゃあ、きっと大丈夫だ。未来は常に、動いているからね」

 けれど彼女と並ぶ男の姿は、依然、視えない。



***



「逆に聞きますけど、迅さんは恋しないんですか?」

 今日も今日とて、本部をふらふらしていた迅は「迅さん迅さんこんにちはお元気ですか! ところで素敵な恋をしてる未来は視えましたか?」と、お決まりのナンパ文句で凪沙に捕まった。迅としても、恋愛に対してかなり前のめりな点に目を瞑れば、掛け値なしに可愛い女の子と二人になれるので、悪い気はしない。それに加えて、迅は凪沙を通して視た“ある未来”が気になり、彼女の会話に付き合うことにしたのだ。

 そう、あれは数日前だろうか。個人ランク戦に精を出す彼女を見かけたその時、視えたのだ。

 迅と凪沙が、手を繋いでいる未来が。

 ただ、手を繋いでいるといっても、それこそ恋人のように肩を並べて指を絡めて、といった雰囲気ではない。迅と凪沙は向かい合った状態で、より正確に言えば凪沙が迅の手をぎゅっと握っているのだ。少なくとも凪沙は笑っているため悪い雰囲気ではなさそうだが、対面ということもあり、アイドルの握手会と言った方がいくらか納得できるような場面だった。迅の未来視は便利であっても、万能ではない。どういった経緯でそんな場面が生まれるのか、前後が視えないだけに不可解極まりない。ここ数日は何度か凪沙を視ていたが、特にこれといって変わった未来は視えない。まさかと思って凝視してみたが、少なくとも迅と凪沙が結ばれる未来、というのも視えない。まあ視えたら視えたで困るわけだが。

「恋、ねえ……」

 ぼりぼりと、好物のぼんち揚を貪りながら、迅は思い返す。別段、愛だ恋だと馬鹿にするつもりはないし、それに対する悪い思い出があったわけではない。

 迅悠一のサイドエフェクトは未来視だ。視界とは、普段の生活と切っては切り離せぬ間柄ゆえ、視たい未来も、視たくない未来も、迅の意思とは関係なしに飛び込んでくる。故に、ちょっと気になるアノ子が教育実習生と思しき若い男に初体験を捧げる未来も視てきたし、同じクラスになってロクに喋ったこともない子に告白される未来も視てきた。良くも悪くも子どもには刺激が強すぎる光景や場面が迅の情緒に与えた影響は決して少なくないにしろ、それでも迅悠一は恋も愛も決して否定はしなかった。下らぬ人類の営みと、蔑むこともなく、迅悠一は、身を賭して守るべき人間の在り方全てを肯定した。そのことに何ら疑問を抱かなかった迅だが、いざその場に飛び込まないのかと問われた時、迅はしばしの逡巡を強いられる。

 答えない迅に、凪沙は首を傾げた。

「不思議です。迅さんにはサイドエフェクトがあるでしょう。どんな素敵な恋だって、選び放題、選り取り見取りです」

「自分で言うのもなんだけど、恋愛事におれのサイドエフェクト持ち込むのはずるくない?」

「そうですか? 自分にあるもの全てを使って目標に挑むことは、そんなにおかしなことでしょうか」

 実に不思議そうに迅の顔をじっと見つめる凪沙の視線は、こちらが怯むぐらい真っ直ぐだ。恋の為にと自分を磨く彼女にしてみれば、備わった能力は最大限に活用すべき、という信念なのだろう。そうまで言い切れる彼女に感心にも似た念を抱いていると、凪沙は少し慌てたように息を呑んだ。

「も、勿論、恋をするしないは個人の自由ですから、ええと、その、迅さんの人生観に口出しするつもりはなくてですねっ。ただ、未来視ほど便利なサイドエフェクトが私にあれば、そうしたのではないかなと思いまして……!」

「ああ、うん。分かってるよ」

「決して! 決して、押し付けているわけではなく!」

「分かってる。そういうとこは、天城のいいとこだと思うよ」

 寧ろ、迅のサイドエフェクトを知ってる者は、大半はその利便性に羨んだことだろう。《近界民》と戦うことは勿論、日々を生きるのにだって未来視は応用可能だ。無論、誰もが考えるほど便利なものではないし、そもそも視たい時に視えるような能力ではない。とはいえ、巻き込まれて面倒なトラブルを避けたり、日常のちょっとしたご褒美を得るために、迅はその能力を惜しみなく使ってこの19年を生きてきた。だからこそ、彼女のように映画や漫画のような恋に憧れる少女がその疑念を抱かないはずもない。『未来視があれば、自分の理想の恋を見つけられるのではないか』と。

 確かに、恋が実るかどうかまでは、未来視でコントロール出来る範囲は限られる。だが、恋が長続きするかどうかのコントロールはある程度可能だろう。恋人が気に入るデートコースや贈り物、どこに行けば恋人に偶然を装って会えるか、恋人をめぐる人間関係への干渉などなど、未来を視て最良の選択をすることはそう難しいことはない。迅とて想いを寄せる誰かと争いもトラブルもなく、ただ笑って傍にいてくれるような穏やかな日々を送ることを夢見たことがないとは言わない──けれど。

「いやー、おれには無理だよ」

 迅はあっけらかんとそう告げる。ぼりぼりと、ぼんち揚を咀嚼しながら、何でもないようにそれを口にした迅に、凪沙の真っ直ぐな目が揺らいだ。意図を飲み込まんと、懸命に頭を回転させているかのように、思いつめた顔をしている。ややあって、凪沙はぽつりと口を開く。

「──無理、ですか」

「無理でしょー。おれきっと、恋人のこと大事にできないもん」

 悲観さなど感じられぬように、迅は明るく笑い飛ばす。凪沙はそんな答えが返ってくるとは思っても見なかったようで、どうして、と茫然としたように問い返す。

 迅はただ、肩を竦める。

「だっておれは、“たった一人”を守ることはできないから」

 未来はいつも動いていて、揺らいでいる。トロッコ問題、なんて簡単な話ではない。けれど、数多の未来を垣間見て、それを最善と決めたのであれば迅悠一は迷いなく1人を見捨てて5人を助けるし、千を殺してでも万を救うだろう。それが迅悠一の救済だ。未来視という人知を超えた力に対する、迅悠一の責任の取り方だった。

 とはいえ、全てに対し数で割り切れるほど、迅も人を棄ててはいないし、神にもなり切れない。結局のところ迅悠一はどこまでも人間で、青く、ただの19歳の少年だった。胸にぽっかりと空いた伽藍が幾度となく夢を巣食い続けると知りながら、それでも迅悠一はより多くを人を救うために歩き続ける。そうとも、未来に繋げられた全てを捧げても、穿たれた孔を塞ぐことは出来ない。それを理解しているからこそ、迅悠一は人間の在り方を肯定するのだ。救われた者全てに意味があるのだと、取り戻した未来には何物にも代えられない価値があるのだと。

 ──そうでなければ、喪われた者たちに顔向けが出来ないと。迅は。

「……そうですね。迅さんは実力派エリートですからね。訳の分からない怪物に襲われる危険のある町で、守る力があるような人が傍に居て守ってくれないなんて、なんて薄情な恋人だと誰もが思いますよね」

 少しだけ、ほんの少しだけ取りこぼした未来を思い出していたその時、遠慮がちに凪沙がそう言った。迅はその声に、少しばかり物思いに耽っていたことに気付き、目を瞬いた。確かに、そんな未来も幾度となく視た。19年という、決して短すぎない人生[みらい]の中で、迅と肩を並べて歩く恋人がいなかったとは言わない。けれど、みんな泣いていた。怖いと、寂しいと、どうして傍にいてくれないのかと、泣いて、怒って、また泣いて。迅の未来視は声まで聞こえるような便利なものではないけれど、顔を、目を、口を視れば訴えたいことなど容易に、それこそ手に取るように分かってしまう。迅が誰かを愛さない理由──否、原因の内の一つであると、否定はし切れない。

「ま、そゆこと。実力派エリートはみんなのものだからね」

「じゃあ、守る必要のない、そんな人を愛せばいいのでは?」

 珍しく食い下がる凪沙に、少しだけ意外に思う。凪沙の目は真剣だ。哀れんでいる様子ではない。ただ純粋に、疑念をぶつけるだけ。学会の質疑応答のそれに近い声に、天城らしいなあ、と、迅はからから笑った。

「それって、ボーダー隊員のこと?」

「全てが全てではないですが……まあ、一般人よりは死傷率が低いかと」

「やー、尚の事キツいでしょ。トリオン体での戦闘だって危険は付き物だよ? それに──」

 と、続く言葉を、迅は無理やり飲み込んだ。確かに《緊急脱出》機能を持ち、車に撥ねられた程度ではびくともしないトリオン体での戦いにおいて、生命の危険に陥るということは少ないだろう。だが、それでも可能性はゼロではない。《近界民》の技術で《緊急脱出》が封じられたら?トリオン体を再構築出来ないうちに敵襲にあったら?未来が無限に広がるように、可能性だって無数に存在する。いい意味でも、そして悪い意味でもだ。自分の大切な人が戦う、危険が少ないとはいえ戦地でだ。それを手放しで喜ぶ人間が、果たしてどれほど存在するだろうか。

 けれど──仮にそんな状況になったとして、迅の己のなすべきことは変わらないと確信していた。きっと自分は、100人の市民と5人のボーダー隊員なら、迷い苦しみながらも100人の市民を優先するだろうと思っている。例えその5人の中に恋人が含まれていたとしても、やはり迅の選ぶ未来に揺らぎはない。無論、大切な人を喪う痛みは嫌と言うほど知っている。好き好んでその痛みを悲しみを背負おうと誰が考えよう。探すべきは常に最良の未来。誰も喪われない明日。けれど人生はそう甘くもなく、また優しくない。常に最善の未来が拓かれるわけではないのなら、迅はせめて最善の次点を、それが無理ならそのまた次点を探して三門市を奔走するだろう。けれど手を尽くし全てを投げ打ってあらゆる人を使って尚、大切な人が守れない代わりにより多くが救われるとしたら、迅の進む未来はきっと──きっと。

「……それに?」

 静かに問い返す凪沙に、迅はただ、笑い返すだけ。たったそれだけで、最高のいい女を目指すという彼女は何を悟るだろう。不安げな、ともすれば泣きそうな少女のかんばせに、告げるべきではなかったかな、と未来を垣間視た迅は思う。同情をするような子ではないはずだが、妙に接触が増えていく未来は放っておくと絆されかねないとさえ感じられた。敢えてどちらが、とは言わないが。

 それじゃ本末転倒だと、迅はおもむろに立ち上がる。素敵な恋をするのだと、全力に生きる彼女に嘘は吐けないなと僅かでも本音を吐露してしまったことに少しばかり後悔した。どう足掻いたところで、サイドエフェクトを切り離して生きることはできない。生き方も、そして天秤の傾きも、この先を生きる上で迅の進む道に変化は訪れない。

 それが分かっているからこそ、迅はこれ以上、喪失の芽は生み出すつもりはないのだ。

「だから、おれは天城みたいな奴を応援するのが性に合ってるってことで」

 へらへらと、笑う迅に対し凪沙の顔は今にも泣きそうなほど悲痛だ。けれど、きゅっと結ばれた唇に、敢えて何も告げるつもりはないのだという絶対的な意思が宿っていた。優しい子だな、と思う。聡い子だとも。いつかこの子の理想に相応しいような男が現れればいいと、迅は珍しく心の底から視えぬ未来にそう願ったのだ。

 そのままその場を立ち去ろうとした迅は、ふと思い立ち、くるりと凪沙の方を振り向いた。少しだけ目を見張る彼女に、迅は何げなくぼんち揚を一袋、凪沙の眼前に突き出す。

「そんな頑張る天城に、おすそ分け」

「……とか言って、ぼんち揚信者を増やしたいだけなんでしょ?」

「おれはただ、ぼんち揚の良さをみんなに知って欲しいだけだよ」

「迅さんって損な人だなあ」

 でもありがとうございます、と、凪沙は嬉しそうにお礼を言ってぼんち揚の袋を受け取った。がさがさとポリ袋が擦れる音と共に、猫の絵が描かれたパッケージが凪沙の手に渡った。

 その瞬間だった、ぼんち揚の袋をぐしゃりと潰して凪沙が突然立ち上がった。

「分かった!! そういうこと!!」

「ちょっ、おれのぼんち揚がッ!!」

「ああっ、しまった! すみませんすみません! 大丈夫です例え割れてもぼんち揚はわたしが責任を持って美味しく平らげますから──って、違います! 迅さん、わたし、分かったんです!」

 握り潰したぼんち揚の袋にへこへこと謝りながら、凪沙は目を輝かせて迅を見つめた。

「迅さんだったんですよ!」

「いやまあ確かに割れてもぼんち揚は美味しいけど──ん、何が?」

「わたしの恋をする相手です!」

「へえ──……は?」

「きっとわたし、迅さんに恋するんですよ!」

 わあすごい、とばかりにニコニコする凪沙は、まるで言葉を介さない未確認生物のように見える。恋をする。誰が。凪沙が。誰に。迅に。迅悠一に。何を。恋をする?

「きっとそう! どうして疑問に思わなかったんでしょう! いいえ、いつも不思議には思っていました。どうしてわたしは恋が出来ないんだろうって。どうして迅さんの未来視に、わたしの恋が映らないんだろうって。答えは簡単、相手にその気がなかったから、なんですよ! 誰かを愛することを諦めた迅さんとの未来が、当の迅さんに視えるはずもなかった、ということですね! 納得です!」

「ちょ、ちょい待って」

「はい、なんでしょうか!」

 一人盛り上がる凪沙に待ったをかけると、彼女はこれ以上ないくらいキラキラした笑顔を迅に向ける。恥じらいの一切ない純真な笑顔に、迅の方が度肝抜かれる。人通りの少ない場所でよかったと思いながら、一度大きく深呼吸をして、凪沙を諭すように両肩に手を置いた。

「ちょっと、ちょっと落ち着こうか、天城、ちょっと」

「天城、了解です」

 一層にっこり笑って、凪沙はまるで防衛任務中のように頷いた。といっても、見ての通り凪沙は冷静というか、平静そのもの。落ち着きが必要なのは迅の方だった。さっきから目の前でにこにこ笑う可憐な少女の言っていることが、全く以て理解できずに混乱一歩手前なのだ。

 とにかく情報過多すぎる。一度、整理しなければ。

「えーっと……天城は、おれのこと、その、好き、なの?」

「いいえ!」

 にこにこ笑って即答された。いくらこっちにその気がないからといって、それはそれで傷つく。しかし凪沙は笑顔を崩すことなく、続ける。

「でも、いずれ好きになるんだと思います。そうでなければ、説明がつかない[・・・・・・・]

「説明、て」

「考えてもみてください。こんなにいい女磨きを頑張るわたしですよ、どうして迅さんの未来視にわたしの恋が映らないのでしょう。それはその相手に恋をする気がないから、と解釈できませんか? つまりわたしは、恋をする気のない相手に恋をするんですよ! わあ素敵! まさにコペルニクス的転回です!」

「いやいやいやいや、おかしいでしょそれ!」

「おかしいでしょうか?」

 まるでこっちが間違っているかのように、凪沙はきょとんとして首を傾げた。そんな仕草に、間違ってるのは自分なのでは、と一瞬でも思った自分を殴りたい。だって、おかしいだろう。凪沙は迅のことが好き、とかいう話ならまだ分かる。百歩譲ってだ。けれど、彼女は迅に恋をしているわけではない、と言う。けれど好きになると断言するのだ。『凪沙が誰かと恋に落ちる未来が視えないということは、その“誰か”に恋をする気がない』、という事実を逆説的に捉えれば、凪沙の解釈も一理あると、

「未来があるから、恋をするのではないのです。恋をして初めて、未来は形取るのでしょう!」

 一理あると、言えなくも、ないが──。

「そ、れでも、早計すぎ、でしょ。相手がおれだって、決めつけることも、」

「嘘はだめですよ、迅さん」

 そう言いながら、凪沙は割れたぼんち揚の袋をベンチに置いて迅の両手を取って──ああ、これだ、迅の視た“未来”だ。躊躇いなく迅の武骨な手を、柔らかな両手が包み込む。握手会のような、なんて甘っちょろい見方をしていた数刻前の自分をグーで殴りたい。そんな生易しいものではない、これは、

 この目は。

視えている[・・・・・]、でしょう」

「なに、が──」

「未来です。わたしと、あなたの」

 ぎゅっと、手を包む両の手に力が籠る。熱に満ちたストレートな目、期待と希望に満ちたその瞳の向こうに、迅は確かに“視た”。

 凪沙がいる。見たことのない可愛らしいワンピースを纏って、迅に手を振っている。彼女が駆け寄り、とびきりの笑顔が迅を迎える。場面が変わる。隊服に身を包み、データにないトリオン兵を蜂の巣にする彼女の背中。迅の視線に気付いて、大丈夫だよとばかりにニッと挑発的に微笑んで、確かな足取りで戦場を駆け抜ける。場面が転換。彼女のつむじが見える。抱き締めている。柔らかな髪に頭を埋めるように抱き締めて、彼女もまた迅を強く抱きしめている。するりと腕の力が緩んだかと思えば、彼女ははにかんで唇を寄せて──。

 彼女は笑っている。どんな未来でも。

「……視えて、ないよ」

「嘘です」

「そんな未来は視えない。本当だよ」

「嘘ですよ」

「なんで、嘘だって思うの」

「迅さんいつも言ってくれます。未来は常に動いてるって」

 はっと目を瞬いた。凪沙は、勝ち誇ったようにニッと笑んだ。



「あなたは人の可能性を、否定する方ではありません」



 そう言って、凪沙はぱっと繋がれた手を離す。焼けつくような熱がまだ手に残る迅は、言葉を発せないまま後退る。目の前でにこにこする凪沙と、未来の向こうで笑う凪沙がダブってはまた乖離するその視界の整合性が取れず、心臓が此処何年も動いたことのないほどに早鐘を打っている。全速力で何キロ走っても息切れしないトリオン体が、嘘のように。

「本当に素敵です! その気の無い方をわたしの土俵に引き摺り出すなんて、なんてやり甲斐のある恋でしょう! 迅さん待っててくださいね! わたしはあなたのことを好きになるし、あなたはわたしを好きになる。いいえ、好きにさせてみせます! 三門市イチのいい女の諦めの悪さ、覚悟しててくださいね!」

 ではまた明日、そう言ってこちらが止める間もなく、割れたぼんち揚の袋を掻っ攫って、ピュッと立ち去っていく凪沙を止めることが出来なかった。背中越しに視た彼女の未来に、防衛任務に勤しむ姿があったからだ。

 なんだあれ、なんだそれ。人の事勝手にかき乱していって、自分はしっかり任務をこなすなんて。照れも恥じらいもしないその横顔に、ひょっとしてからかわれたのではと一縷の希望を見出したけれど、あれほど視ても視えてこなかった凪沙の恋する未来に迅悠一が存在することだけは、否定することはできなくて。

「あっ、忍田さんお疲れ様です!」

「ああ、お疲れ様──……迅? どうした、具合でも悪いのか?」

 頭を抱えて蹲っていると、凪沙をすれ違いに忍田本部長が現れた。珍しく、というか、困り果ててますとばかりの迅のポーズに、忍田は心配そうに駆け寄ってくれた。いい人である。

「忍田さん、突撃型のアタッカーってほんと怖いね……気を付けた方がいいよ……」

「……天城隊員は《銃手》だったと記憶しているが」

 もしや《攻撃手》に転向を、と迅の言葉を額面通りに捉えた忍田はふむと考える素振りを一つ。そうじゃない、そうじゃないけれど本当のことを言う気にもなれず、迅は立ち上がる。ふっと頬を撫ぜる空気がヒヤリと感じられ、居心地の悪さから迅は亡き師匠の形見を装着して歩き出す。

 未来が動き出した。長い攻防の末に根負けする姿も視えるし、海外アニメの猫とネズミのように、永遠と追いかけっこをする未来もあれば、徐々に外堀を埋められていく、なんて情けない未来も垣間視えた。一つ確かなのは、三門市イチのいい女は、ちょっとやそっとじゃ恋を諦めないということ。

 どうしたものか。迅は珍しく、無限に広がる未来に困惑した。


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